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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 5 35 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 5 分かれ道 

実に、好対照な出来事であった。

 たまたま、偶然が重なっただけである。
 しかし、「陰」と「陽」。
 あまりにも、際立つ、その違い。
 やがて、それは、あの大事件へと繋がっていく。

信長は、竹生島参詣後、女房衆を誅殺。

 これが、本来の姿なのだろうか。

 信長は、絶対専制君主。
 ただ一人の存在なのである。
 他の誰よりも、大きな夢があった。
 それへ向かって、一直線。
 ひたすら、突っ走った。
 それが、信長の生き方。
 己の、生きる道。
 為すべきこと。
 やり遂げなければならぬ、目的だったのである。
 難題山積。
 緊張の日々。

 そして、完璧主義者で。
 頭の回転が速く。
 「隙」を見せず。
 気力・体力が充実し。
 図抜けた、実行力があった。
 これもまた、個性なのだから、仕方がない。

 休む間など、皆無だった。
 心身ともに。
 多忙を極めていたのである。

 心の余裕を失っていた。
 ・・・・・、のではないか。

光秀は、天橋立に遊び、連歌を楽しむ。

 これが、光秀の実像である。
 信長とは、異なる部分を有していた。

 光秀は、心(しん)から、茶の湯・連歌が好きだった。
 武将でありながら、文芸を好む人物だった。
 それ故、宗及ら文人を同道した。
 正に、「忙中閑あり」、である。
 光秀には、このような一面があった。

光秀は、節度の人。

 己の分を弁(わきま)えていた。  
 佐久間信栄(信盛の嫡男)は、深入りしすぎて、その身を滅ぼした。
 この違い。
 まことに、雲泥の差である。

光秀は、文武両道の人。

 そして、その反面。
 光秀は、権謀術数に長け。
 目的のためには、手段を選ばず。
 信長の家臣として。
 また、戦国武将として。
 為すべき時に、為すべきことを。
 躊躇なく、成し遂げることが出来た。

 信長にとっては、まことに、重宝で、得難い人材だったのである。

          ⇒ 次回へつづく 


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