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今日も彼と一緒に寝られる幸せ

夜は早めにベッドに入る。
単に寝るのが早い、ということもあるけれど、二人でベッドタイムを楽しんでいる。
今日あったこと、将来のこと、仕事のこと、お互いのこと。
部屋の明かりを消して二人して微睡みながら話をする。
そしてどちらからともなく睡眠の世界に誘われる。
ふわふわとしてゆっくりとした時間は、果たして起きているのか寝ているのかも分からないほどに曖昧だけれど、だからこそ出てくる言葉がある。

そしてそれは彼も同じようで、夜の微睡みタイムが一日の中で一番好きで大切だと言っていた。
愛情を感じられるから、幸せを噛み締めているから。
彼の腕に抱かれる私は、普段の私からは想像できない小ささなのだという。
守りたくなる小ささなのだと。

優しく頭を撫でてくれる彼。
折れそうなほど強い力で抱きしめてくれる彼。
たまに私の胸に顔を埋めて甘えてくる彼。

愛情と愛おしさの塊の彼を愛でる時間は、優しい時間であってほしい。
できるだけ長く続いてほしい。

そう思いながら、穏やかに眠る幸せ。


父が癌で先が長くないかもしれないと分かってから、余計に自分の残りの時間を意識するようになった。
今までは原因不明で突然死ぬ、という人生の終わりがほとんどだったと思う。
医療の進歩により寿命が伸びただけではない。
「残りの時間」を知ることもできるようになった。

余命宣告は残酷だ。
そう思っていたけれど、逆に余命宣告は優しさだと思うようになった。

毎日が最期の日と思いながら生きる人は少ない。
当たり前に明日があって、当たり前に今日が続くと思っている。
だから、人に会うことも、やりたいことも先延ばしにして、いつも何かを選択しながら何かを蔑ろにしている。
それは「未来」が続くと信じているからだ。

きっと死ぬ直前、私は「あれをすればよかった」「あそこに行っておけば良かった」と後悔するのだと思う。
蔑ろにしていた未来が来ないことを悲しむのだと思う。
そして、死ぬ時が分かっていれば、と願ってしまうのだと思う。

だから、「余命宣告」は「やり残したことをやる時間の猶予」とイコールになる。
それは医療の進歩によって人が獲得した貴重な時間だ。
死ぬ直前に後悔していた人達が望んだ時間だ。
医療従事者が技術を駆使して与えてくれた時間だ。
「あと何日で私は死ぬ」と嘆くのではなく、会いたい人にあっておく、やりたいことをやっておく、最期の日に満足して穏やかに死を迎えられるように。
家族は、本人の願いをできるだけ叶えてあげる。
押し付けがましくなく、腫れ物を扱うようにではなく、あくまでいつも通りに。
明日も明後日も、当たり前に未来が続いていることを信じて。
もしかしたら、生きている間に医療技術が進歩して長く生きられるかもしれないから。


あと何度、彼と優しい時間を一緒にできるか分からない。
だから、私は一晩一晩を慈しんで、今日も彼と眠りに落ちる。

大好きな彼と、未来の話をしながら。
明日も明後日も当たり前に続くと信じている未来を。



Love mitsuha__

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