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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(20) 第5章 5.2.5.~5.2.7. 方格設計都市の誕生②


### 5.2.5. 古代中国:農耕開始は早く方格設計採用は遅い

■ まず長江流域で稲作が始まった

メソポタミアやインダス川流域では遅くとも紀元前3000年頃には方格設計の芽生えが見られました。古代中国ではどうでしょうか?

中国大陸には北京原人で知られる通り、初期の人類が定住しました。70万年から80万年前のことです。

このスパンで考えるとつい最近ということになりますが、ほんの今から一万年前、紀元前8000年頃には長江流域で稲作が始まったのがわかっています。

これはなかなかの大発見でした。20世紀の中頃までは、まず黄河流域で稲作が始まり、それが各地へ波及していったと考えられていたのですから。かつて四大文明と呼ばれていたのは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明でした。しかし、稲作においてはまず長江流域で始まり、それが華北へと伝播していったのです。

稲作の始まりが紀元前8000年頃だとすると、農耕の始まりはさらにさかのぼるのかもしれません。稲作の始まる前段階として、タロイモ(サトイモ)の水田株分け栽培があった可能性が指摘されているからです(池橋宏『イネはどこから来たか―水田稲作の起源―』)。

つまり、華南から東南アジアにおける農耕の開始は紀元前10000年~紀元前14000年前あたりまでさかのぼるかもしれないのです。他所から伝播ではなく、自力で農耕を発明したと考えていいでしょう。

そして、東ユーラシアは最古の土器が発見されている地域でもありました。約二万年前、土器を発明した我らがご先祖は、水を貯蔵したり穀物を煮炊きすることが可能になったのです。これは定住というナウいライフプランに大きく役立ちました(土器を発明したから定住を始めたのか、定住を始めたから土器を発明したのか、この問題の断定は避けるとしましょう)。

つまり、ええ、そうです。東ユーラシアは、文明のゆりかごと呼ばれたメソポタミアと同時期か、下手するとちょっとだけ早く農耕を始め、人口爆発が起きた可能性があるのです(ちなみにこの地域における人口爆発は21世紀の今日までず~~~っと続き、なおも継続中であることは皆さん、ご存知の通り)。

なお、2015年にハーバード大学、テルアビブ大学とハイファ大学の共同チームが、イスラエルで23000年前の農耕の痕跡を発見したと報じられています。これが事実なら人類の農耕の始まりは、いきなり1万年ほど遡ったことになり、今まで考えられてきたモデルを根本から考え直さなくてはならないかもしれません。筆者はとりあえず様子見のまま、人類が農耕を始めたのは紀元前14000~紀元前10000年頃という前提で本書の論を進めます。

農耕開始によって人口爆発が起きたとすれば、東ユーラシアでも対処があったはずです。はたして古代中国人はどのように対処したのでしょうか?

■ ペントウシャン(彭頭山 / Pengtoushan)、バーシダン(八十壋 / Bashidang)

中国における新石器時代の始まりにあたる、ペントウシャン文化の標準遺跡がペントウシャンとバーシダンです(紀元前7500年頃~紀元前6100年頃)。バーシダン遺跡からは堀が見つかっており、東ユーラシアにおける最古の環濠集落とされます。

ともに栽培された稲籾の化石が発見されています。確実に稲作が行われていたということですね。

が、集落の形態がどうなっていたかの情報は得られませんでした。

メソポタミアでは農業開始と同時期に土器を発明し、それから3000年ほどで、日干しレンガで建物や囲壁を作りはじめました。

しかし、東ユーラシアでは土器を発明して13000年ちかく過ぎても、日干しレンガや焼きレンガで大規模建造物を作ろうとはしなかったのです。

農耕の発明を仮に紀元前一万二千年としても、5000年以上、古代中国人は人口爆発に対して集合住宅で対処するということをしなかったのです。

この点は脳の余白にメモしておきましょう。

■ ジアフ(賈湖 / Jiahu)

長江流域で発展したペントウシャン文化とほぼ同時期に、黄河流域ではペイリガン文化(裴李崗文化)が広がっていました。紀元前7000年頃~紀元前5000年頃です。

ジアフはそのペイリガン文化に属する集落遺構で、古代の笛や文字が見つかっています。

が、こちらも集落のレイアウトが判明するような発掘状況にはないようです。

植物が少ない乾燥帯のメソポタミア・インダス川流域・北東アフリカでは、早々に石・レンガ・泥が建材の中心になりました。

しかし温帯が中心の東ユーラシアは植物が豊富です。木材は長い間、建材の中心であり続けました。したがって、長い年月で腐敗し、遺構として残りにくいという面があります。

また、組構造であるレンガ建築は水平方向の外力に弱いという欠点があります。レンガを用いた地域では、倒壊を防ぐため壁の共有に向かう傾向がありました。チャタル・ヒュユクがそうしたように。

しかし、ラーメン構造となる木造建築は水平方向の外力に強いため、壁の共有をあまり必要としません。

また、木材は石材よりも圧倒的に加工が容易です。石材より重量も軽く、運搬コストも低く抑えられます。

これらの利点は、東ユーラシアにおける集合住宅の出現を遅らせた要因の一部でしょう。

いずれにせよ、東ユーラシアにおいては農耕の開始から5000年~9000年ほど、格子構造を持つ建物も、碁盤目状の街路も出現しませんでした。

■ ジャンツァイ(姜寨 / Jiangzhai)

時代はくだって、紀元前5000年頃~紀元前3000年頃に黄河流域で展開されたヤンシャオ文化(仰韶文化 / Yangshao culture)に属する集落遺構です。

かの、歴代王朝が首都に据えた西安(長安)の西に存在します。ここからは中国における最古期の銅器が発見されています。

また、穀物を貯蔵するための高床式の建物が見つかっており、建築技術に発展があったことを物語っています。

そんなジャンツァイの集落レイアウトはどうだったのでしょうか? 格子構造を持つ建物や、碁盤目街路は出現していたのでしょうか?

52501_ジャンツァイ

図 5.2.5.1: ジャンツァイ村 推定復元模型

出典: File:Jiangzhai settlement model, Yangshao culture, Lintong, Shaanxi.jpg
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jiangzhai_settlement_model,_Yangshao_culture,_Lintong,_Shaanxi.jpg
Author : Professor Gary Lee Todd(中国・河南省新正市シアス国際大学歴史学教授)
License:Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International, 3.0 Unported, 2.5 Generic, 2.0 Generic and 1.0 Generic license.


おやおや。

なんということでしょう。メソポタミアやインダス川流域や北東アフリカは、レンガという技術を知ってからは、こうした竪穴式住居生活からあっさりと抜け出していました。

ところが。

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マンガ家。主著に『浅倉家騒動記』 『日本全国波瀾万城』 http://blog.masuseki.comが本サイトです。 https://note.com/mitimasuは、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

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