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死の設計図は生きる目論み

〜みたにノ日常P.7〜


普通に見えて、究極な極論ではあるが、僕らは生きたいと望み、生きるために行動している。

お金が欲しいとか、家族が欲しいとか、長生きしたいとか
幸せになりたいとか、楽しみたいとか。
そういう副次的な目的は人それぞれにしろ、やっぱり、みんな明日のご飯やこの瞬間の呼吸を確保するため、即ち生きるために生きている。

でも皆んなあまり生の一環として死を受け入れない。
頭では理解できていて、実際に終活なんて言葉もあるが、人は本能的に死を避けて生きる道を模索している。本来で有れば死を避けるという行為は、種の存続的な観点で見ると間違いではない様に見えるし、長生きの方が得が多いように見えなくもないが、本当にそうなのだろうか?

他の生物を見ると殆どが短命なものが多い。では彼らは短命であるが故に不幸なのか?
そもそも思考や感情という概念が、存在するかは怪しいところではあるが、少なくとも長寿を全うすべしという考えや本能は人間ほどない様に感じられる。

多くの人は、お金や時間をかけなくても幸せは手に入ると答えるだろう。けれど寿命が短くてもいいと、答える人はあまりいないのではなかろうか?

僕は寿命は特に長くある必要は無いと思う。

幸せや楽しい気持ちに時間という定義はいらない。それぞれは別個に存在しうるものであるし、時間という言葉ではこの世界の空間と変化を説明するには、あまりにも足りていないからである。共通認識は誤認識の上に成り立っている事もあるのだ。

死と生はあたかも正反対のものの様に扱われてきた。でも実際には死は生の延長に存在する。それらは反対の性質を持っているのではなく、元来一つの性質で成り立つ。つまり生に死は含まれ、死に生が含まれている存在なのだ。

日常を生きていると、目の前の生に一生懸命で忘れがちだが、死は恐怖でも諦めでも不安の塊でも無い。
生きることの一端なのだ。

ここでやっとタイトルの説明に入る。まあ要するにどう死にたいか?いつまでに死にたいか?これを考える事で、僕らは今、自分がやりたい事、やった方がいいことが明瞭に見えて来る。という話だ。

特に己を見失った時、日常に疑問を抱かなくなった時、
幸せを満喫している時、頑張る必要がある時に。
自分の死を明確に定めて想像してみて欲しい。きっと、今まで自分の横に寄り添っていた気持ちが、現れて来ると思う。

別にその通りに死を実行する必要はない。というか実行できない方が上手くいくと思う。大切なのは想像して見て現状を正視する事で、そこから見えて来る自身の目標なのである。ただし、その想像の死期を長寿にする必要はない。

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