熱血と怪奇を薄れさせた舞台!? と思いきや…… 劇団四季『ゴースト&レディ』
劇団四季のミュージカル『ゴースト&レディ』を観劇しました。藤田和日郎の伝奇漫画『黒博物館 ゴーストアンドレディ』を原作としつつも、巧みな取捨選択によって新たな味わいを生み出したこの作品について、主に原作ファンの視点から感じた点を中心に触れたいと思います。
19世紀のロンドン、ドルリー・レーン劇場に長く住み着いている幽霊・グレイの前に現れた一人の令嬢。フローと名乗る彼女は、生前、決闘代理人だったというグレイに、自分を殺してほしいと願います。
看護の道を志しながらも、家族の強い偏見と反対にあって生きる意味を失っていたフロー。彼女に興味を持ったグレイは、絶望の底まで落ちた時に殺すと約束するのでした。
一度は死を覚悟したことで決意を固め、婚約者とも決別して、クリミア戦争の野戦病院に派遣される看護婦団の団長となったフローと、彼女について(憑いて)いくグレイ。
しかし、現地で彼女を待っていたのは、軍人たちの非協力的な態度と、あまりに劣悪な環境に次々と命を落としていく負傷者たちの姿でした。それでもグレイの存在に支えられながら、フローは一歩一歩状況を改善していきます。
そんな彼女の存在疎ましく感じた軍医長官ジョン・ホールは、次々と妨害を仕掛けてきます。それどころか、彼にもまた、ゴーストが憑いていたのです。その名はデオン・ド・ボーモン――名高い騎士にして、決闘で生前のグレイを殺した相手であります。
ジョンとデオンに苦しめられながらも、フロー――フローレンス・ナイチンゲールは、次第にグレイとの間に絆と愛情を育んでいくのですが……
クリミア戦争で「クリミアの天使」「ランプを持ったレディ」と呼ばれ、その後の看護教育の礎を築いたフローレンス・ナイチンゲール。そんな彼女と、劇場に現れる灰色の幽霊の間の不思議なラブストーリーである本作は、冒頭に触れた通り、漫画が原作の作品です。
原作は、ロンドンに実在する犯罪資料館「黒博物館」に秘蔵される品にまつわる奇譚を語る趣向のシリーズの一つですが、今回の舞台化に当たり、黒博物館の部分はスッパリとカット。もちろん物語の流れは原作を踏まえているのですが、特にクリミアに向かう以前のエピソードを中心に、枝葉をかなり整理した内容になっています。
(個人的には、原作には史実に忠実なあまり少々盛り上がりに欠ける部分や、逆に違和感を感じるアクションシーンもあったと感じていたので、この整理自体は大歓迎です)
しかしそれ以上に原作と大きく異なるのは「生霊」の要素です。人間の強い負の感情が形になったこの生霊は、奇怪な姿でその人物の背後に立ち、時に周囲にまで与える存在なのですが――舞台ではキャラクターの影を変化させることでこれを表現しつつも、原作よりもその比重は大きく減らされています。
そもそも、原作ではナイチンゲールもこの生霊を、それも相当に強力なものを背負っており、それが冒頭で彼女に死を願わせる理由となっていたのですが、この点から大きく異なることになります。
もう一つ、原作ファンから見て大きく印象が異なるのは、物語全体を貫く熱血ものとしての空気感でしょう。元々、原作者は怪奇と熱血を最大の特徴かつ魅力とする作品を一貫して発表してきました。この原作もまた(他の作品よりは度合いは少なめではあるものの)、困難に全身全霊で立ち向かうフローと、軽口を叩きながらも彼女と己の誇りのために死闘に臨むグレイの姿を通じて、読んでいるこちらの体温が上がるような物語が描かれていました。
その一方でこの舞台は、むしろフローとグレイのロマンスに焦点を当てることにより、大きくその印象を変える形となっています。
いわば怪奇と熱血を、つまりは先に述べたように原作の特色を薄れさせた舞台。そんな印象を受けた第一幕を観た時点では、原作ファンとして戸惑いがなかったかといえば嘘になります。
しかし、満を持して、と言いたくなるような姿でデオンが登場して第一幕が終わり、いよいよ物語が盛り上がっていく第二幕を観るうちに、なるほどこの舞台はこういう形で物語を解釈しているのか、と理解できました。
その解釈の表れの一つが、デオンのキャラクターです。劇中でフローとグレイに立ちはだかる強敵であるデオンは、実在の人物――作中でも軽く触れられていましたが、フランスの騎士であり外交官、そして異性装を好んだ人物でもありました。
この舞台においては、それに対してデオンはっきりと女性――それも親によって女性であることを禁じられ、男性として生きることを強いられた存在として描きます。
図らずもゴーストとなったことで今は女性であることを隠さなくなったデオンですが、しかしその心中にあるのは、女性であることの強烈な屈託――自分が女性でありながら女性という存在を呪い、蔑むという屈折した感情なのです。
そんな彼女が、女性のまま、己の道を貫き、戦場に立つフローを見た時どう感じるか――原作では一種性的な視線だったそれは、むしろ本作では、自分自身の人生を否定する存在に対する敵意であったと感じられるのです。
ここにおいてデオンは、グレイだけでなくフローと対置される存在として描かれているといえるでしょう。そしてもう一人、フローと対置される舞台オリジナルのキャラクターがいます。それは大臣の姪であり、クリミアの看護団に加わるエイミーです。
フローのようになりたいと憧れを抱き、彼女と共にクリミアに向かったエイミー。しかし彼女にとって現地はあまりに過酷な環境であり、フローの励ましを受けつつも、次第に彼女は追い詰められていくことになります。
その結果、彼女はある選択をするのですが――それはフローにはできなかったもの、フローが捨ててきた道を選ぶことだった、という構図は、極めて象徴的に感じられます。
デオンとエイミーの二人は、フローのようには生きられなかった、自分自身の望むように生きられなかった女性。いわば「もう一人のフロー」たちを描くことで、本作はフローという人物を、原作とは別の形で掘り下げることに成功したと感じます。
(そしてこの二人が、共に劇中でフローを殺しかけたというのは、決して偶然ではないのでしょう)
さらに感心させられたのは、本作が舞台劇であることに極めて自覚的であったことです。そもそも原作は、冒頭で触れたように黒博物館を舞台に、学芸員とグレイの会話という形で展開していく物語だったのですが、舞台ではその部分がカットされています。しかしその代わりに、冒頭でグレイは我々観客に対して、ゴーストを見ることができる者として語りかけてきます。
この辺り、なるほど自分たちが学芸員さんなのか!? と感心したのはさておき、考えてみればグレイはシアター・ゴースト。舞台に登場するのにこれ以上適任はないわけですが――しかしその意味付けは、ラストに至り、こちらの想像以上に大きなものとなっていきます。
詳しい内容には触れませんが、結末でグレイがフローに見せようとしたもの――彼が現世に留まってまで我々に見せようとしたものがなんであったか。それは誰もが知るナイチンゲールの、誰も知らない秘密の物語であり、それはグレイとフローの愛の物語でもあった――それは劇場を愛し、劇場で死に、劇場に憑いた彼にとって、これ以上はない形の告白であったといえるでしょう。
そんなわけで、本作は原作とはまた異なる形で、己の道を貫き、互いを想いあったゴーストとレディの姿を描いてみせました。それだけでももう十分に魅力的なのですが、しかし魅力はまだ尽きません。クライマックスであるフローと軍医長官との対決において、舞台に上がるのはいつだって生きてる人間――この言葉を我々は痛感させられるのです。
この場面では、グレイとデオンが戦っている間、フローが身一つで、武器を持った軍医長官と対峙するのですが――ここでのフロー役の谷原志音さんの歌の凄まじさときたら! まさしく全身全霊を叩きつけるようなその凄みは、生きている人間が歌い演じる姿をその場で観るという、観劇でしか味わえないものであったと断言できます。
実は原作ではここで件の生霊要素が大きくクローズアップされるのですが、もし我々に生霊を見る力があったら、原作で描かれたようなものが見れたのではないか――というのは冗談としても、舞台では薄れていると感じた熱血要素を、全て補って余りある名場面だったというほかありません。
厳しいことをいえば、フローが死を望む理由が弱いという印象は冒頭からつきまといました。また、ラストで見せた舞台ならではの展開のために、その前の「贈り物」の印象が薄れた感もあります。
しかしその一方で、舞台上の演出や歌など、劇団四季ならではのレベルの高さを感じさせられる部分も多く(特に亡くなった人間の魂が抜ける場面は、遠目に見るとどうやって演じているのかさっぱりわからない凄さ)、ああいい舞台を見た、と満足できる内容であったのは間違いありません。
原作の内容を踏まえつつも舞台としての特性を生かし、新たなミュージカルとして描いてみせた本作――終わってみれば原作ファンとしても納得の舞台でした。
原作の紹介はこちら
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?