自分の人生を生きるための一つの方法論。誰かの期待に押しつぶされた僕の答え。
こんにちは、みたびです。
今回はちょっと自分の闇をつらつら書いていきたいと思っています。暗くてもいいよっていう太陽のような方はついてきてくれると嬉しいし、月のような自分では輝けない人も、新月のように「俺は俺自身が光らないことで星空が見えるほうがいいんだ」と、夜空を見上げる僕を勇気づけてくれたら、それはこの上ない喜びです。よろしくお願いします。
必死であがいてきたこれまでの人生、いつまでも苦しい今の暮らし。
小学生の一時期を除いて、今の今まで思い返しても苦しい人生でした。
引っ込み思案が極端な僕は、親に対しては「いい子でないと見捨てられる」不安が強く、親の機嫌次第で家から追い出されたりする、今なら虐待気味のしつけにも耐えていました。
小学校もそんな性格でうまくいくわけがなく、いじめまがいの人間関係を耐えていました。唯一、小学校高学年の一時期だけは、担任の先生と相性がよく、楽しかった記憶があります。
友だちと遊ぶのを我慢して1日5時間以上の勉強で中学受験をして、入った私立中学校は荒れていて、ピリピリした空気といじめっ子が支配する理不尽な世界でした。先生のことを「おまえ!!!!」と授業中に叫ぶ野球部のクラスメートに唖然としたのは今でも思い出せます。
すっかり人間不信と精神疾患(統合失調症、現在も治療中)をこじらせた僕は、自己臭と醜形恐怖に苛まれ、高校はまだお外での生活に耐えていたものの、大学で私服通学が当たり前となったことをきっかけについにひきこもり生活に突入します。
5年以上ひきこもり、釣りと競馬という趣味を得たことで限定的な外出が可能になった僕は、大学退学とともに免許を取らせてもらって、北海道で職を得て、思った以上にトントン拍子にことは進みました。
はじめのうちは職場での体験や北海道という新天地での暮らしに心を癒やされ、今ではパジャマで外出しても気にならない程度には醜形も自己臭も、ついでに統合失調症も回復していきました。
ですが、職場でのパワハラや低賃金と、なによりも一人暮らしの寂しさを埋めるために競馬にハマってしまい散財。今でも素寒貧、親の援助のもとなんとか暮らしています。
誰かの人生を、生きてきた
思うに、僕の人生は親ありきであり、他人ありきです。それは充分に親や人に愛されなかったという実感を伴う「喪失感」から来ることは間違いないです。中学受験だって突っぱねればよかったし、いじめっ子に反抗して、相手を思わず殴って退学になったとしても今のような時代ならやり直せたと思います(本当は地元の中学に進学したかった)。でも、できなかった。できやしなかった。そんな強さがあれば、僕はこんなことで悩んでいないことでしょう。
後悔、失敗、挫折。なんとかしてポジティブに転換するには難しい感情が、今の僕には渦巻いています。
誰かの期待って、キリがないのです。相手は「大丈夫なんだ、じゃあもっと」と求めてくるからです。それよりも、自分と他者に境界を引いて、「ここから先には入ってくるな」と突っぱねたほうがどれだけ建設的でしょう。ですが僕にはどうしてもこれができなかった。
それはやはり、僕が意識的に「嫌われたくなくて」誰かの人生を生きてきたから、です。特にこの生き方は僕とは相性が悪かった。その結果が今です。
失敗ばかりだったわけではない
唯一、自分の人生を歩めたのが趣味であり、イラストや釣り・競馬といった余暇活動でした。
競馬では痛い目を見て、もう辞めましたが相変わらず馬は可愛いし、競走馬も引退馬も好きです。
イラストと釣りに関して言えば、これらを体験できなかったらと思うとちょっと怖いくらい、僕を支えてくれた大事な宝物です。去年末にはついにコミケでサークル参加デビューを果たし、今年もサークル参加予定です。
自分でした選択って、苦しくても最終的には楽しいんだって、この時学んだんです。自分の意志で何かを決めて、出版物をこさえる。そして実際に頒布して、代金を払ってくれる人に感謝する。そのサイクルは僕が求めていた人生の縮図だったのかもしれません。
もちろん、中学受験をつっぱねて、結果としてFラン大学に入って(もともと勉強が嫌いだったので・・・)ブラック企業に入って・・・同じようなルートはいくらでも考えつきます。
結局、後悔のない人生なんてないのです。それに僕の場合が極端なだけで、誰しも誰かの期待に応えて生きています。
じゃあ、何がいけなかったのか。どこで、間違えたのか。
人生に本気で向き合ったほうがうまくいく人もいる
突然ですが、必死さと自分に対する誠実さって、必ずしも比例しないと思うんです。
僕は、今にも自死しそうな自意識を必死につないで生きてきました。気づけば30代も後半。それでも後悔や苦しみばかりなのは、自己裁量と他人の人生を生きることとのバランスが悪かったからだと思っています。
そして自分に対する誠実さこそが、リバランスの手段です。
自分の人生を生きているようで、目を背けていた。そしてそこにこそ存在していた自分らしさ。
よもや、こんな歳になっても自分探しが終わらないとは思いませんでした。40にして惑わずとは誰かが言った言葉ですが、僕の場合死ぬまでまどっているかもしれません・・・。
いい加減僕は、心の底から気づくべきなのです。自分の人生に責任を持つかわりに、そのリバランスを図るべきなのだと。
人生なんて適当でいいという主張もよく見かけますし、必死過ぎて自分の首を締めてしまう人がいることも理解できるので「ああそうだなあ」と思うのですが、苦しみの理由が僕みたいに「誰かの期待」なら、自分の本心をもう一度しっかり見つめ直すのも、ひとつの手かなと思います。
方法はいくらでもあるでしょう。一番代表的なのは無心で紙に書き出す方法。僕はこうして文章を打ちながら頭を整理しています。
誰にもいい顔はできないよ
なんでこんな文章書いているのかというと、もやもやがあるからなのですが、ではそのもやもやの理由はというと、退職を切り出すべく面談を申し込んでから3週間ほど、会社に「まだ待って」と、足止めを食らっているからです。まあ最悪退職代行でやめちゃえばいいと思います。
もし誰かに生かされていて、誰かの期待に答えなければならない人がこの文章を読んでいたら。
僕の失敗から学んでほしいです。誰かの期待の先に、必ずしも成功が約束されているとは限らないから。
むしろ誰にでもいい顔をしていたら、心が分裂してしまいます。僕の病・統合失調症は、昔は精神分裂病と呼ばれていました。
脅しになってしまいすみません。でも、いい顔の在庫は、限られています。その顔を、どうか大事な人、そしてこれから出会う未来の恩人に向けてほしい。
過去に誰かにあげたいい顔は戻ってきません。これからを生きる、その上で自分の持つ選択肢と自己裁量権をどうか大事にしてください。僕からは以上です。
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