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発達障がいじゃないけどダメですか。

変なタイトルだな。前置きしておくと、私は専門的に障がいについて学んでいるわけでも無ければ、自分や家族が当事者というわけではない。恐らく専門の方からしたら「何言ってんだ?」ってこともあるかもしれないし、不快に思わせてしまう部分もあるかもしれない。もしそうだったら、ごめんなさい。これはただ、私がずっと、ぼんやりと考えていたことだ。

私は小さい時「変わった子」だったらしい。自分でも覚えていることもあるけど、「変わってる」エピソードが色々とある。

幼稚園に入る前くらいはただひたすら小さな丸を紙に描き続けてたとか、全然周りの子と一緒に催しに参加しなかったとか、「ダンゴムシさんとおはなしできるの」って言ってたとか、母親が言っていた。小学校入ってからで覚えているのは、1年生のころ、帰りに花を見たりしては徒歩15分の道を1時間かけて歩いたりとか、駅のホームのベンチに座って本を読んでいたりとか(あまりに帰りが遅いので祖母がめちゃくちゃ心配したらしい)

みんなが持っている、開くタイプの定期入れが欲しくて、でも買ってもらえないから持っていた開かない定期入れを自ら壊して「壊れたから買って」と言ったりとか。お友達が持っている匂い付きの消しゴムがうらやましくて、その子のことがちょっとだけ気に食わないからその消しゴムを盗ってしまったりとか。ふと思い立ってマイナスドライバーで家の壁紙引っかいたりとか。今も、家の食卓の裏側には、幼い私が描いた「クレヨンしんちゃん」の絵がある。エトセトラ。

まあとにかく、そこそこやばいマイペースな問題児だったようだ。ちなみに消しゴム泥棒をして担任の先生に「なんでやったの?」と叱られたときは「私のなかに悪い私と、良い私がいて、悪い私がやっちゃったの」と答えたのを覚えている。

……理由の説明になっていない。

そうなんだね、と受け止めてくれた先生はありがとうございました。

こんな私について、のちに母は「ちょっと頭おかしいんじゃないかと思ってた」と言った。思ってた、ということは、多少なりとも今はそうじゃなくなったということなんだろう。(しかし今でも三兄弟の中で私が一番変な奴というレッテルを家族から貼られている。)

まあそんなこんなで19歳まで成長した私は、とりあえず「定型発達」の子として育ってきた。たぶん、そうなんだと思う。

子どもの発達障がいを診断された親や、また大人になってそれが分かった当事者の声として、よく「自分が悪いわけじゃないことが分かった」「育て方のせいじゃなかった」「怠けているわけじゃなかった」みたいなことを聞く。簡単に言えば診断を受けて「救われた」という声。

診断を受けることで適切な教育や配慮を受けられたり、療育手帳などの公的な証明を得られるというメリットがある。不当に評価され続けるよりも、事情を汲んでもらうべきだと私は思う。実際に周囲からの理解をこれで得られたというのも聞く。だから「気付く」ことは必要なことなんだろう。

ところで、発達障がいと診断されはしないけど、その傾向があることをグレーゾーンという。ボーダーとも呼んだりする。私は去年、そのグレーゾーンのことについて少しだけ課題で調べた。

というのも、私の周りにその「グレーゾーン」であろう子が何人かいたからだ。発達障がいの当事者が周りにいたことはなかったが、そうかもしれない、ならとりあえず片手に収まらないくらいはいた。そして程度は違えど、「周りの子ができることができない」ことについて悩んでいたし、実際に生活の中で困っていた。提出物が出せないとか、時間を守れないとか、まあ色々と。

発達障がいじゃない、程度が軽いから良いかといえば、そうではないというのもその特徴だ。逆に診断を得られないから自分自身のせいだ、怠けているのだ、と理解もなかなか得られないという。

その課題の最後に、私はこんなポスターを作った。

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いま思えば随分とざっくりとしたまとめ方な気もするが、結局私の言いたかったことはこれ。定型発達も、発達障がいも、グレーゾーンも、名前をごちゃごちゃとつけてはいるけど「個性」じゃダメなの?ってこと。

「頭おかしい」と母親に言われたことを、今でも私はちょっと、いや結構根に持っている。おかしいって「ふつう」と比べてってことだろうか。じゃあ私がもし例えば発達障がいなのだと診断されていたら、その評価はどう変わっていたのだろうか。おかしい私は許されていたんだろうか。それとも結局他の子と違うダメな子だっただろうか。もしもだから、答えはわからない。

発達障がい"だから"、出来ないことも怠けているわけじゃないと言われるのだとしたら、定型発達の子の苦手は「怠け」なのだろうか。許してはもらえないんだろうか。

考えてみれば馬鹿みたいな、そしてものすごく失礼な話なのだが。発達障がいやグレーゾーンということについてにわかな知識だけを得た高校生の頃の私は、「もしかして私は」なんて思いあたって調べた。ネットの診断だけじゃよくわからなかったし、違うかもなあという意見で落ち着いたが、なんで調べたかと言えば、それがダメな私の免罪符になるかもしれないと思ったからだ。理由があれば今までの出来ないを許してもらえるのかもしれないと。

そりゃ怠慢が起こすものもあり、当人の努力で変えられる場合もあるだろうけど、それでも得手不得手というのは誰にでもある。発達やその能力には個人差があると、ちょうど教職の授業で習った。同じ人間なんていない。得手不得手の差だって、満遍なくできる子もいれば、差が極端な子だっている。じゃあそもそも、その子に合わせて何が得意か何が苦手かを考えて向き合ってあげることが必要なんじゃないのって思う。

もちろん今の教育で、すべての子どもに合わせて変えることなんて不可能だし、子どもの成長にはある程度のロールモデルがある。だからそのロールモデルに沿って公教育は行うことができる。そしてそのロールモデルから外れてしまったときのために、特別支援教育がある。先天的なものにも後天的なものにも適切な支援がある。だからその一人一人違うよねっていうのは心構えというか、見方として。

「ふつう」ってなんだろうか。ロールモデルに沿って、親や大人の満足いくように、周りから大きく外れることなく進むことだろうか。

それなら、仮に障がいなんて名前がつかないとしても、生きづらさを一切感じたことが無い人なんているんだろうか。

かの有名な金子みすゞは「みんなちがって、みんないい」と言った。私はこの詩が好きだ。出来ることも出来ないこともみんな違う。それで良いじゃないか。この人はこれが出来る、あれが苦手、ここが長所、あそこが短所、そうやってそれぞれ変わるものだ。

子どもと向き合うとき、その「違う」ってことを、肯定的に捉えることが大事なんだと思う。人と違うって短所を超える長所を見てあげることが大事なんだと思う。そしたらきっと、「変わった子」だったあの頃の私も、「ふつうじゃない」あの子も、救われるのかもしれない。

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