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途中で帰りたくなったはずのミッドサマーが忘れられない

酷い悪夢をみた。この映画については記録を書き残すことはないだろう、早く忘れたい、とすべての思考を放棄し食欲も忘れて夜道をよろよろと歩いて帰った。はずなのだけど。

ホラー映画が苦手な人にはむやみに薦められない。不安に脳が冷やされるような感覚、体を伝う冷や汗、鳴り止まない動悸からパニックを起こすのではないかという恐怖で、もう外に出ようと何度も考えながらただ目と耳を塞いで気持ちを落ち着かせなければならない瞬間が何度もあった。

その夜お風呂につかってやっと気持ちが落ち着いた頃、この映画が何だったのかを冷静になって考えるモードに入れた。残り香くらいがちょうどいい香水のような物語だったんだと思う。最初は好きになれなくて酔ってしまい後悔を覚えたはずなのに、しばらくすると意外にもきらめくようなラストノートがほんのりと、長く長く続いていくような。

絶望の果てにやっと見つけた安寧。大事なものを失ったダニーにとっての新しい居場所であるホルガというコミュニティ、この村が普通ではなく特別におかしな「カルト集団」だと呼んでしまうことが、一体誰にできるのだろう。

求めていた安堵や仲間に出会う場所が、たまたま学校であったり、たとえばある政党であったり、会社、サークル、習い事、宗教、毎週通う教会、歌手やアーティストのファンコミュニティ、田舎のご近所付き合いなどであったりする。それぞれの日常に自然に根を生やしているであろう、価値観を共有した集まり。その中に、世の中の全員が理解して共感するコミュニティなんてあるだろうか?絶対的に正しい考えを持つ集団なんてこの世にあるだろうか?カルトを恐れる気持ちはつまり「自分の知らない、自分とは違う文化に生きている」ことに対して奇妙だと感じてしまう相対的で反射的な感覚のことだろう。

そういえば、私は初潮を迎えた日に母がお赤飯を買ってこようとしたことを、そんなのは奇妙だし怖いのでやめてほしいと言ったこととか、小学校の保健体育の教科書にあった性交のイラストにそれが素晴らしいこととして説明が添えられているのを見た時の拒絶感だとかを、この映画を観て思い出した。考えたらそれは当時の私にとって「カルト」と同じだったのだ。人は72歳で生を全うして崖から飛び降りるものなんだよ、と教えられることと何も変わらない。

でも、自分の知らないことをしている・違う考えに基づいて生きる人たちに対して「奇妙だ」とは思ってもそれ自体は恐れるようなことではないはずで、一人の人間が生きていく上で抱える苦しみを軽くしたり、喜びを感じたりする理由になっているならそれは希望以外の何物でもない。ミッドサマーが持つ明るさはここにあると思う。

ありのままを受け入れようだとか、個の時代だとか、自分の考えを持つことが大事だとか叫ばれてはいるけれど、みんなが心底そう願っているかというとあやしい。なぜならそれは実際のところ、結構な重荷になり得るから。

所属できる何かがあるならダニーのようにそこに埋もれて同一化して、その集団の伝統や慣習や儀式に身を預けてしまえば、自分の脳で判断し続けるプレッシャーや、結果がコントローラブルに見える故の責任の重さから解放される。個人の思考をあえて挟まないことによる、他者への委任と救済。無責任とは違う。宗教においては当たり前によくあるこの種の救いは、この先の時代にもっと重要性を増していくような気もする。人がなんでも自分で決められる・できると思ってしまうことは、結果への責任が常に自分にあるという意識も生むが、それに人間は耐え続けていけないような気がしてる。だから宗教も占いも絶対なくならない。人間が(時に勘違いなほどの)万能感を持ちつつあるこの時代だからこそ、敢えてアリ・アスターはこうした集団の文化や宗教などが持つタイプの救いの持つ力を矮小化せずに描いたんじゃないかとも思える。(さらには、自由ゆえに個人へのプレッシャーが強すぎる社会になってしまうと、反動で人は考えることを放棄して他者に委ねたくなる…という心理を利用して成り立つ政治もあるという警鐘でもあったかもしれない。)

最後にふとよぎったのは、もしかしたら、この映画はすべてダニーの見ている幻覚だったのかもしれないという可能性。絶望の中でも無意識に残っていた「生きたさ」が、悪夢のような現実から逃げてどんな手を使ってでも生きろとダニーに命令した結果、ドラッグ常用者になっていたのでは、と。ホルガでも、ドラッグでも。いずれにしても絶望の先に偶然見つけた場所が新しいユートピアになるという、一見後ろ向きなモチーフの中の、あくまでもパーソナルな安寧。

たとえ相手が自分を傷つける存在であっても失うのは怖い、孤独になってしまうよりはいいだろうという半ば自傷的な思考からついに抜け出すことができたダニーは、大事にされないのにずるずると依存していたクリスチャンを燃やす。狂気だろうか?そうは見えなかった。別れに涙を流しながら最後に微笑んだダニーは過去のどんな時よりも健康的で、正気を取り戻した一人の人間だった。

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