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恋愛を自責で捉えて「生きる」を説く

旅するメッセンジャーのMoekaよりお届けします。

愛と共に人生を生きるとは?

生きることに誰かへの「愛」は活力を与えるものだと思っている。
愛を全て自責で捉えるとしたら、下記が私の考えである。

◉「愛する」という行為は、大切な人の持つ全ての事柄を自分毎のように背負って生きられるか?の覚悟であり、
◉「愛される」という行為は、自分の人生を好き勝手に終わらせることが容易にできなくなり、生き続けることに責任を持つことであると考える。
Moeka

んー。要するに、家族を作るということは、生きる上で人生が豊かになる手段のうちの1つであるが、(家族を作ることが必ずしも誰にとっての幸せではない)その豊かな人生を手に入れるための覚悟と責任が伴うので、その一歩を踏み出す勇気のある者を、私はとても尊敬する。

生きることが、どんなに苦しくて辛くて、自分が何のために生きているか?わからなくなることがふとした瞬間にやってくる。

あなたは、誰のために生きているのか?何のために生きているのか?問われた時に、明確な答えを持つ者を私はとても、羨ましく思っていて、微笑ましいことだと思っている。そう思える人がこの地球上で増えても増え足りることなんてないだろう。

「愛される」・「生きる」という行為

自分は恋愛コンプレックスだとよくSNSで発信しているが、上記が理由であり、恋愛という領域に簡単に踏み込むのが怖くて難しい。自分以外の誰かと決断を下して人生を歩んでいく、すなわち、私が得意とする論理的で数値的ではない「感情」という見えない流動性のある水のようなものをどうやって2つ混ぜ合わせていくか?の答えがない問いかけが苦手だ。

かといって、おそらく人並みに恋愛をしてきた身だとは思っていて、恋愛の他も色々経験したと思う。

モテる・モテないの領域ではなく、自分自身の問題だということは十分に承知している。だから正直にいうと、告白されるという行為が苦手で、例えその人のことを大切に思っていたとしても、自分の責任問題によりYESと簡単に答えることが極端に難しい。すなわち、自分の人生に責任を持つ=相手のために自分の人生を投げ出さずに生き続けるか?という「愛される」告白にYESというのが難しいということだ。反対に、私の場合、好きと言うこと「愛する」はできる=大切な人の全てを受け止めることの方が簡単だ。

うーん。よって、好きとは言うけど、「付き合って」までは絶対に言えない。付き合うという行為は「愛す、愛される」の関係で成り立つので、愛されることの方が重く感じる。愛することは自由で、愛されることは、責任を伴うという自論だ。

「愛される」という行為は、自分の人生を好き勝手に終わらせることが容易にできなくなり、生き続けることに責任を持つことであると考える。

これは、恋愛に限った話ではなく、動物に生まれてきたのなら、自分の人生を勝手に終わらせるべきではない。ただ、育ててもらった家族の他に、自分の生きる責任をもう1つ増やすことが恋愛や結婚だと思うというのが上記までの話だ。

「愛する」・「生きる」という行為

ここからは「生きる」ことについて綴る。
「生」があるのなら「死」はつきものであり、生きている限り「死」といつも隣り合わせである。私たちが生きている今は、本当は誰かの生きたかった人生なのかもしれないということをいつも心に留めながら生きている。

しかし、そう思いながら生きたとしても、「生きる意味」がなかったら私たちは「生」を続けるのが苦しくなるのだ。だから、私たちは人生をどう生きるか?に悩まされる。生きるための1つの手段が家族を作ることだと述べたが、他を述べるとするなら、私が考えるのは下記だ。

①仕事に精を尽くすこと
②社会貢献をすること
③周りの人に親切に接すること
④自分の趣味を楽しむこと
⑤家族を作ること
Moeka

おそらく人により、様々であると思う。自分の人生の楽しみ方を自ら見つけ、1日1日色のある毎日を積み重ねて豊かな人生にしていけば良いと思う。

私は家族を作ることが最大の幸せだとも思わないが、どうして世の中では、仕事の時間よりも家族との時間が大切だと言われるか?には理由があると思う。他の選択肢は自分の代わりとなる者がいるか、自分自身だ完結できるものだ。

家族を作るという行為だけは、自分1人では完結しない。人は皆、結婚をして家族となる時、大切な人の持つ全ての事柄を自分毎のように背負って生きられるか?という「愛する」覚悟を持つであろう。

しかし、残念なことに人は事故に遭わない限り、同時に死ぬことができないのだ。すなわち、どちらかが、「愛する」ことを全うできずに先に逝き、「愛される」責任から逃れる。どちらかが、残されたことにより「愛する」対象を失い、生きる気力を失う。
これは本当に動物に生まれたことにより、仕方のないことであり、家族を作る人間は皆、受け止めて生きていく覚悟を持つ必要がある。
「愛する」対象を失った者は、⑤家族を作ること(家族と共に生きること)という生きる1つの手段を失ったとしても、生きていくために①〜④を充実させる必要があるのだ。

私の生き方

私がこの考えが芽生えたのは、祖父の死と、ホスト夫婦の生死の彷徨いを経験したからだと思っている。円満で幸せな夫婦2人が最後まで2人とも幸せに生きる方法を私は知るために、そして地球上のみんなが、幸せに生きる方法をいつも模索しながら発信する存在でありたいと思っている。

自分の生き方を述べるとするなら、24歳で不動産を購入したのも、「例え、自分が先に死んだとしても家族が困らないためのちょっとした贈り物」であり、余命宣言をされようが、少なくとも家族よりも長生きができれば、私が娘でいて妻・母でない限り「生」を全うしたと胸を張って死んでしまうだろう。だから、苦手な恋愛を克服して、好きな人を今日も探すのです〜!!
(こんな生死について深く語りますが、基本的に明るい人間です。笑)

世界中の人たちが自分らしく生きて、自分の心を満たして他人に寄与できる親切心だけで成り立つ世の中にすることが私の生きる意味です!
読んでくれてありがとう♡

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