愛知県美術館コレクション展「追悼特集 設楽知昭」を見て 秋庭史典
1 展示の概要
はじめに、展示の概要を記しておきます。
画家設楽知昭(2021年7月逝去)の展覧会が、2022年10月29日(土)から12月25日(日)のあいだ、コレクション展の一部として、愛知県美術館(10F展示室4)で開かれた。会場で配布された出品リストには、次のように記されている。
「昨年3月に愛知県立芸術大学を退任後、7月に急逝した設楽知昭(1955-2021)。人が世界を「見る」意味から問い直し、自分の着衣や鏡に描いた作品、世界をドームに見立てた立体と絵画、約5×9mの《透明壁画》など23件の所蔵品ほかを展示します。」
さらに会期中の12月9日(金)18時30分からは、「放課後のはらっぱ」展(2009年8月から10月・愛知県美術館+名古屋市美術館)開催時、その関連事業として、10月18日に(午後2時からと4時からの2回)名古屋市美術館講堂で行われた「幻灯会=透明壁画・人工夢」の再現が行われ、当時の資料のコピーも配布された。そこには次のようにあった(以下全文)。
「透明壁画は透明のポリエステルフィルムに画かれています。ほぼ一メートル四方の大きさのフィルム四十三枚で構成されています。愛知県美術館では高さが五メートル、幅九メートルほどの展示になりました。画いたのは二千五年[ママ]の夏です。一日に一枚ぐらい、テンペラ絵具を指や掌に付けて画きました。シリコンゴムで表面をコーティングしてあります。時には画かれた絵の上にフィルムを重ねてイメージが繋がるようにすることもありました。展示に際しては、裏返した画面もあります。二千五年の秋にギャラリー矢田(人工夢)で展示しました。翌年の春、札幌芸術の森美術館(北の創造者たち)でも展示しました。それぞれ違う組み合わせです。編集と言っても良いかもしれません。
幻灯会では、それぞれの画面を六センチ四方のフィルムに変換して、三十コマを幻灯機で投影します。十分ほどの上映になると思います。解説、音などは付きません。
人工夢とは、「美術、絵画とは人工的に夢を造ることではないか」という仮定で行われた大学のゼミ授業のタイトルです。見た夢を再現するのではなく、あくまでも人工的に夢を造るのです。夢はもうひとつの人間の生きる世界かもしれません。つまり、ことさらに分析的に心の闇のように扱うのではなく、もうひとりの私があるというように考えてみても良いかもしれません。」(以上)
出品リストから、展示された作品のタイトルと発表年(リストでは「制作年」)だけ、抜き出しておく。まず、「展示室4」の作品。以下、すべて作者は「設楽知昭」で、
「目の服・上衣」(1993)、「鏡 1986」(1986)、「鏡ヨリ モノタイプ(手と目/頭部・胸)鏡」(1989)、「鏡ヨリ モノタイプ」(手と目/頭部・胸)1-10」(1989)、「版画集 フレネルレンズ視−フレネルレンズに基づく四つの寓意的な版」(1995)、「ノーザンステーションの模型」(2001)、「ノーザンステーション」(2001)、「ホテルパシフィカ」(2001)、「レセプション」(2001)、「母子手帳をください」(2001)、「男、女、子供」(2001)、「こんにちはとさようなら」(2001)、「バーン」(2001)、「駆ける」(2001)、「以前乗ッタ事ノアル船ヲ見タ」(2001)、「EQUINOX 2000」(2003)、「ドーム」(2003)、「ドーム画」(2003)、「恒星」(2003)、「食堂、Folios」(2004)、「portrait 二」(2007)、「海豹」(2009)、「くまのプーの話」(2012)、「空と炎」(2011)、「火口」(2012)、「透明壁画、人工夢」(2005)
また今回、愛知県立芸術大学設楽研究室出身の画家、鋤柄ふくみと坂本夏子の作品が、設楽の作品と並べられた(「前室2」)。作品は次の通り。
設楽知昭「オオサカ」(2010)、鋤柄ふくみ「雑誌15_01」(2009)、鋤柄ふくみ「ミシン女」(2010)、坂本夏子「Tiles, 髪」(2007)、坂本夏子「Painters」(2009)
展示壁には次のような解説があった。
「展示室4の小特集に因み、鋤柄ふくみと坂本夏子の作品をご紹介します。二人とも愛知県立芸術大学および同大学院(修士課程を鋤柄は2007年、坂本は2009年に修了)で設楽に学び、設楽が作品を発表していた白土舎で初個展を行っています。
鋤柄の2点は2010年の初個展出品作で、《ミシン女》は自分の身体の何倍もある人体のような布をミシンで縫い合わせている女性が描かれ、画面には印刷物の断片がコラージュされています。2009年の《雑誌》ではそのコラージュのもとになったような雑誌に描きこんだ水彩画で、印刷されたイメージと筆触とが反応し合い、別世界が生まれています。
坂本の2点のうち《Tiles, 髪》(2007)は同年の卒業制作や翌年の初個展でシリーズとした、化粧室や浴室をモチーフとした作品で、一枚ずつ描かれたタイルが空間を歪めていきます。2009年の《Painters》は大学院修了制作で、作者の分身のような女性たちが、フローリングの室内と自分の過去作品2点の内外でその空間を描いており、2点の隙間から覗く絵にはこの《Painters》の左端が既に描かれている、という複雑な構成です。
この4点とほぼ同時期の2010年に設楽が描いた《オオサカ》と並べてみると、各人が自分の新しい絵画をつくり出そうと、師弟という枠をこえて切磋琢磨しているかのような迫力が感じられるのではないでしょうか。」
(坂本さんは2012年に博士課程も修了されています。)
2 なぜ装置を作り続けたのか
2.1 はじめに−「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」を作り続けたのはなぜか
設楽知昭の作品を語るとき、もはやそれが「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」[1]であることを指摘するだけでは足りない。なぜ画家が「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」を作り続けたのか、この問いに答えようとしなければならない。なぜなら、本人に直接尋ねることができなくなってしまったからだ。
展覧会も同じである。作品を見せるだけでは足りず、この問いに対する何らかの答えを用意する必要がある。このように言うと、いや、本人に直接尋ねることができない以上、それは謎にとどまるほかない、外部がとやかく言うことではない。そう考える人もあるだろう。もちろんそれでもよいと思う。ただ、自分が画家の作品について書くことを求められた以上、そのこと(なぜ画家が「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」を作り続けたのか)について、答えは出ないに決まっているにせよ、それでも、残された資料や先行研究をもとに画家との対話を続けたい、と考える。しかし、どこから始めればよいだろう。今回は、コレクション展で展示されていた《目の服・上衣》(1993)について、ジャクソン・ポロックとの関連から述べている、ブレンダ・ミッチェルの論考を参照することから始めたい。
2.2 ミッチェルの論考から
画家としての設楽知昭を考えるとき、ふつうなら、その仕事を美術史の文脈に置いてみるのだろう。わたしにはその視点はなかった。そこで、美術史家ブレンダ・ミッチェルによるテキストを参照してみる [2]。そこから、冒頭の問いに答える手がかりを見つけてみたい。
ミッチェルは、設楽の作品を、チベット仏教−これについては『絵の幸福』でも紹介済み−とならんで、ヨハネス・フェルメール、マルセル・デュシャン、ジャクソン・ポロック、そしてヨーゼフ・ボイスという、いわゆる美術史の巨匠たちと関連づけながら語っている[3]。ここから始めてみたい。ミッチェルは言う。
「設楽初期の、より表現主義的な絵画とドローイングは、アメリカの抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックならびにドイツの作家ヨーゼフ・ボイスとの際立った関連を示している。」(Mitchell 2004, p.4)
初期の表現主義的絵画とは、今回のコレクション展冒頭で展示されていた、1993年の《目の服》を指す。ミッチェルはさらに言う。
「《目の服》(1993)において作家[設楽]は、ボイス風にカンヴァス・スーツをまとい、ポロック風にそこに絵の具を撒き散らしたのである。」(Mitchell 2004, p.4)
「ボイス風」の「カンヴァス・スーツ」とは、ボイスの「フェルト・スーツ」を、また「ポロック風に絵の具を撒き散らし」は、ポロックの描画におけるアクションを指している。前者つまり「フェルト・スーツ」は、それがボイスの臨死体験とそこからの生還についてのメタファーであることから、ミッチェルはそれを、設楽のチベット仏教(「死者の書」)への関心を引き合いに出すために導入している(ゆえにこれ以上は触れない)。後者についてのミッチェルの見解はこうである。
「ポロックのモニュメンタルなドリップ絵画は、行為を通じて自己自身を定義するという実存主義的な原理を反映しているのに対し、設楽の描かれたスーツが明らかにするのは、外部のイメージと反射にフォーカスすることにより知られる自己の触診 [探求]である。」(Mitchell 2004, p.4)Whereas Pollock’s monumental drip paintings reflect the Existential principle of defining one’s self through action, Shitara’s painted suit reveals an exploration of self informed by a focus on exterior images and reflections.
両者の違いはなんであろうか。ミッチェルがKingsleyのテキストから引用している、ポロックの言葉が参考になるだろう。
「わたし[ポロック]がわたしの絵の中にいるとき、わたしは自分がしていることに気づいていない。わたしが何をしようとしていたのかを理解するのは、「[絵と]知り合いになった」時期とでもいうのか、その後でしかない。」(Kingsley 230, 引用はMitchell 2004, p.4)When I am in my painting, I’m not aware of what I’ m doing. It is only after a sort of ‘get acquainted’ period that I see what I have been about...”
おそらく、ポロックは描画中に反省的意識を持たないが、設楽の場合は医者が触診するように、自身が置いた絵の具とその反射から(設楽は服を着て鏡に向かって描いていたので、鏡における反射ということになる)冷静に・集中して次の一手を考えていた、ということなのだろう。絵を描くことが「自己理解」の作業である点は両者に共通しているが、設楽の場合、それは自己自身による自己の定義でなく、いったん「鏡」と「服」により媒介された自己におそるおそる探りを入れることである、と言われているようにみえる。
2.3 ミッチェルは正しいか
では、この見方をわたしはどう判断するのか。ポロックについては措くとして[4]、設楽本人の言葉を参照しながら、考えてみよう。設楽が《目の服》について記した次のようなテキストが残されている(恥ずかしながら、わたしはこのテキストを2021年の秋まで知らなかった)。
「私は、絵を描くため(まさにそこに描くため)に作られた服を着て、鏡の前に立ち、鏡にも服にも手を伸ばし、描いてゆく。鏡に映った自身の姿を、単純になぞるのではない。手を伸ばし。描くときに、視ることも高まる。鏡の上の痕跡が服に反映し、服に描かれたものが鏡に映り、視ることと描くこととは重なってゆく。手を伸ばし触れることで視、視ることで触れてゆこうとするのである。
鏡は、空間に伸ばした手と視線を反射し、私と空間の中間に立ってその痕跡を残すことになる。
服は、空間に入り込み、より視ることを純化する装置であり、私と空間を同一のものとしようとする。
服も鏡も、重要な要素ではあるが、それ自体は制作の目的ではなく、過渡的なものといえる。私自身が、視ることと視られること、描くことと描かれることの間に入り込み、途方にくれながらも、試み続け、その痕跡を提出しているのである。」
(1995年INAZAWA現在・未来展③ イメージの森パンフレットより。引用は『Lady’s Slipper』6, 小特集「設楽知昭」1997年, p.4)
難しいテキストである。「鏡は、空間に伸ばした手と視線を反射し、私と空間の中間に立ってその痕跡を残すことになる。/服は、空間に入り込み、より視ることを純化する装置であり、私と空間を同一のものとしようとする。」この二文、とくに後半の一文があるために、テキスト全体が像を結ばない。ここで「空間」と言われているものがはっきりしないからである。順番に考えてみよう。
「鏡は、空間に伸ばした手と視線を反射し、私と空間の中間に立ってその痕跡を残すことになる。」こちらは理解可能な気がする。描くとき、自分の周りの広がりに手を伸ばすのは自然なことだからだ。私の周囲にある広がり、その途中に「鏡」が立ち、手と視線の痕跡を残す。
では、「服は、空間に入り込み、より視ることを純化する装置であり、私と空間を同一のものとしようとする。」というときの「空間」とはなんであろうか。もちろんたった一文のあいだに「空間」の意味が変わるはずはないだろうから、これも通常の意味での「空間」つまり周囲の広がりのはずである。さらに、「服」が「視ることを純化する」というのはわかるような気がする。服に描くために、「視ること」に集中するようになるからだ。
では「服」が「空間に入り込み」「私と空間を同一のものにしようとする」とはどういうことか。空間を周囲の広がりと考えると、もしかしたらそれは、服(つまりカンヴァス)がなければとりつく島のない周囲の広がり(空間)というものに限定を与え、描く自分とその広がりのあいだを結びつける、そうして、視ることに集中させる、という意味なのかもしれない。その結果、自分は「鏡」と「服」のあいだで翻弄されることになる。さしあたり、こう考えてみる。
すると、ほんとうに重要なのは、最後の一文にあるように、服でも鏡でもなく、「私自身が、視ることと視られること、描くことと描かれることの間に入り込み、途方にくれながらも、試み続け、その痕跡を提出している」ことの方である(服も鏡もそのための道具にすぎない、とはいえしかし、それらがなければ痕跡もないという意味で、それらが自分を構成するものであることに変わりはない)。表向きは、「私自身が」「入り込み」「途方にくれ」「試み続け」「その痕跡を提出している」ということだが、実際には、服と鏡によって「視ることと視られること」のあいだ、「描くことと描かれること」のあいだに放り込まれ、途方に暮れさせられ続けたあげく、ようやく痕跡を通じて知られるのが「私自身」ということだろう。そうした私自身の苦闘の痕跡(の一部だけ)を作品として展示したのが、《目の服》だということになる(一部だけというのは、展示された『目の服』が、鏡ならびに身体を欠いているから)。
では、「外部のイメージと反射にフォーカスすることにより」「自己の触診」を行っている、というミッチェルの指摘は、正しいことになるのだろうか。
結論を急ぐ前に、さらにもうひとつ、設楽の発言を引いてみる。これは先程の引用を掲載していた雑誌『Lady’s Slipper』のインタビューでの設楽の答えである。設楽に向けられた質問は、「直接触るってことで二元論みたいなことを一気に飛び越えたいみたいなところはあったんですか。」である。
「服に描くときに鏡を置いて描く場合もあるんだけど、こっちで描いたものが、鏡には描いていないんだけど鏡にも映ってきたり、次には鏡に描いてみたりっていうように、いつまでたっても一つにならないで、かといって、きっぱり二つにわけられないで、やっぱり、どこまで行っても二つのまま裏表になることを繰り返す。それは、認識論的に世界のことを言いなさいっていわれたとき、僕にいま一番信じられる形かなって気がするんです。」(『Lady’s Slipper』6, 小特集「設楽知昭」1997年, p.5)
ここでは、鏡と服のあいだで、どこまで行ってもふたつのまま裏表になるのを繰り返しているのは認識論的に見られた「世界」、つまり認識する私との関わりの中で理解された世界であると言われている。その世界のありようが(一部だけ)転写されたものが、展示されている《目の服》なのである、と(一部だけというのは、対になる鏡と身体を、展示された《目の服》は、喪失しているからである)。
これを先の発言と合わせれば、《目の服》に痕跡として残されているのは、自分自身の苦闘であると同時に、何度でも裏表になることを繰り返す世界のありよう、その二つであることになる。ミッチェルの説明は正しい、でも半分だけだ(世界について触れていないから)、ということになる。
2.4 冒頭の問いへのさしあたりの答え
ここで冒頭の問いに戻ることができるだろう。なぜ設楽が「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」を作るのか。理由は、その作業を通じて自分と世界のありようを明らかにしたいから、と思われる。また、そのような装置を作り続ける理由は、その装置から結果した自分と世界のありようには、際限がないからだ、ということになるだろう。(ただこれも、ある時期までの作品についてしか言えないことのように思われる。また、以前にも触れたように[5]、設楽の作品は、常に私的ななにかを含んでおり、絶対に解読はできないようになっている。)
2.5 絵の中にいる(あるいは入る)
ここまで検討したことから、もうひとつ、設楽の制作に関して重要なことが出てくる。それは、ある時期の設楽の作品は、なんらかの仕方で表現された自分(と世界)である、ということだ。つまり、作品のなかに設楽自身がなんらかの仕方で〈いる〉、ということである。〈絵の中にいる〉というのは、そういうことだろう。
ミッチェルはこの〈絵の中にいる〉という点について、設楽をポロックと対比したが、わたしが〈絵の中にいる〉と聞いて思い浮かべるのは、ポロックではなく、森村泰昌(1951-)である。設楽よりも少し年長のこの作家が、ゴッホになって登場したのは1985年のことだった(『肖像・ゴッホ』)。それを設楽がどう評価していたのか、当時設楽の周辺にいた人たちは耳にしたであろうが、わたしは知らない。
1980年代半ばといえば、設楽が制作していたのは「石膏刷り」のモノタイプである。90年代には「西日本」の作家として『版画藝術』[1]に取り上げられたり、哲学者篠原資明の著書『五感の芸術論』[6]にも取り上げられたり、2000年代に入ってもマキシ・グラフィカが京都市美術館で行った展覧会(2001)[7] に出展したりなど、設楽と関西とのつながりは決して弱くはないが、設楽が森村についてどう考えていたのかはわからない。
けれどもおそらく、両者では〈絵の中にいる〉目的や意味が異なっていたと考えられる。現時点で森村がどういう説明を用意しているかはさておき、当時の森村の発言では、彼が絵の中に入るのは、すでにある「名画」を理解し解釈するためだったはずである[8]。他方、設楽が〈絵の中にいる〉というとき、そうした目的はないようにみえる。
そのことは、今回のコレクション展で展示されていた、《版画集 フレネルレンズ視−フレネルレンズに基づく四つの寓意的な板》(1995)について設楽が後年記したテキストを見ることで、間接的に−というのは後年の発言であるから−うかがえる。
「フレネルレンズを覗くと景色が不思議に見えます。内部に入って、つまりランプの位置に視点を持つことが出来たら、どのように世界が見えるだろうかと思います。東西南北を見渡す灯台になった気分はどのようなものだろうか、この作品[《フレネルレンズ視》]は、《歩く灯台の私》(2002年、500x800mm、ポリエステルフィルムに油彩)とも繋がります。」
(「2015年、愛知県美術館の収蔵に際してのメール」としてコレクション展第4室に展示)
ここにあるように、設楽が中に入りたいのは、単純に(また上で考えたように)それにより自分を別様に構成し、そこから別様に世界を見たいから、である。したがって、そのときには、必ず「何か」が介在物となっている[9]。つまり、裸の眼では見ていない(《目の服》が鏡と服を介在させていたのと同じである)。
《フレネルレンズ視》(あるいは《歩く灯台の私》)で設楽が入っているのは灯台のなかであり(1882年にフランスの物理学者オーギュスタン・ジャン・フレネルが考案した、球面レンズより薄くて軽いそれは、遠くに光を届ける必要のある灯台にはうってつけであった)、設楽はこのレンズを通して世界を見ている。球面レンズの表面を細かく分解して平面に配置したような断面をもつこのレンズは、綺麗ではないが、独特な像をつくることができることで知られている[10]。
もうひとつ忘れてならないのは、このレンズが灯台に設置され、回転すること、つねに動いている点である。つまり設楽の〈中にいる〉は、ただ入るだけではなく、出入りを繰り返す運動でなければならないということだ。すでに記したように、設楽は『版画藝術』[1]のなかで、「版画の不思議さや魅力は、イメージの代理物としてではなく、私と作品の間にあって、逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」(p.71)であるところ、と述べているが、「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」である版画と、ぐるぐると回転する=あちらとこちらが目まぐるしく入れ替わる=そのたびに光が遠くまで突き抜ける灯台とが、設楽のなかで近しいものとして考えられていたとしても、不思議ではない。
「歩く灯台になって海岸を行く夢を見た
私の眼は灯台のフレネルレンズになり、
回転しながら光を放ち見ている」
(1995年 版画集「フレネルレンズ視」白土舎、引用は『Lady’s Slipper』6, 小特集「設楽知昭」1997年, p.5)
2.6 三種の〈絵の中にいる〉
この〈絵の中にいる〉[11]を考えることは、設楽、鋤柄、坂本、この三者の関係を考えることにもつながる。「展示の概要」に記したように、今回愛知県美術館10階の「前室2」で、三人の作品が並べられた。解説には、「各人が自分の新しい絵画をつくり出そうと、師弟という枠をこえて切磋琢磨しているかのような迫力が感じられる」とあった。
三人の作品は、Gallery G(名古屋市)などで行われていた「絵の回路」展(設楽研究室関連作家の作品が展示される)などでこれまで何度も並んでいるので、それ自体は取り立てて珍しいというわけではない。愛知県美術館10階のコレクション展という場で並べられたのが初めてというに過ぎない(愛知県美術館地下のギャラリーでも並んでいたことがある)。また、師弟という枠を超えて切磋琢磨していたのも、この2名だけではない。他にもたくさんの卒業生がいて、それぞれの仕方で深い関係を築いていたことを忘れてはならない。
以上を補足したうえで、三者の関連について〈絵の中にいる〉という視点から、ごく手短に触れてみたい。これまでわたしがnoteに記してきた数少ない記事を参照する。ただ、それぞれの記事を書いたのはすでに今からずいぶん前のことであり、鋤柄、坂本両氏について取り上げた作品も、かなりの過去に属する作品ばかりである。わたしがここで触れるそれぞれの考えも、すでに10年近く前のものであり、現在の両氏の立場を説明するものではない。その点はお断りしておく。
まず坂本だが、展示解説に「2009年の《Painters》は大学院修了制作で、作者の分身のような女性たちが、フローリングの室内と自分の過去作品2点の内外でその空間を描いており、2点の隙間から覗く絵にはこの《Painters》の左端が既に描かれている」とあるように、前室2に展示された《Painters》では、作者の分身のような女性たちが、絵の中に登場している。
だが、それ以前にわたしが重要と思うのは、坂本が《画家の網膜のためのドローイング》(2016)で暗示している3次元のグリッド、座標と呼ばれるものである[12]。それは、カンヴァスの奥にあって(つまり絵の中にあって)画家と絵の中をつないでいる(トリシャ・ブラウンのイマジナリー・キューブに似ている、もちろん直接の関係はないだろうけれども)。画家は自在にこの3次元グリッドの表面から奥までを、絵筆をもって移動するのである。
ではなぜそのような描き方をしているのか、について、わたしは坂本の講演録などを手がかりに、次のようにまとめていた(お時間がある方は、もとの記事を参照していただきたい)。
「大きさも中身もどうなっているかわからない意識ある容器(=自分)を探る、そのために絵を描く。それは《訪問者》でのように、絵が成立する限界を測定しながら、同時に、意識ある容器としての自分自身の限界をも測り、それを拡張しているということなのでしょう。」
「先に挙げたドローイング(《画家の網膜のためのドローイング》)には、座標上の点を移動する坂本さんの何本もの腕が描かれていました。ということは、坂本さんの絵がそこにあり、そこに問いへの答えとして(一つ以上の)絵画空間が成立しているとき、その空間のひとつひとつには坂本さんがつながっていることになります。たとえ《Painters》でのように、その姿が明示的に描かれていなくても、です。」
鋤柄については[13]、わたしは次のようにまとめている(これも詳細は記事をご覧いただきたい)。
「奥方向だけでなく、縦横無尽に掘りめぐらされた穴によって生まれた内側の空間から、今度は反転して外へと何かが染み出していくのです(いかに柔軟に掘りめぐらされているか、またいかに柔軟に染み出していくかは、線の動きから感じられると思います)。この往還を何度も繰り返してゆくことからできていくもの、それが、鋤柄さんによって絵と呼ばれている、ということになります」
「したがって、鋤柄さんにとっての絵とは、四角いキャンバスという枠の中に収まる必要もありませんし、平面の画像と考える必要もありません。繰り返しますが、それは、内側を掘り進み、外側へと染み出すことを重ねてできていく分厚い「モノ」です。そこから現れてくるのが、たとえば[……]作品(《穴》2018年)なのだと思います。またそうしてできた空間のあちこちに鋤柄さんは居て、動きながら絵の中のさまざまな人たちや、さまざまなものたちと関わり合っているのです。自分と関係なく距離のあるものは、絵とは呼ばれないのです。」
「ゆえに鋤柄さんはこれを、そのなかに自分が入ることのできるもの、たとえば、「家」のようなもの、あるいは「墓」のようなもの、いろいろな言葉で説明してくださいました。それ以外にも、「お面」のように(《顔のほらあな》2014年)、その内側と一体化することでそこに描かれたものと対話できるもの、と言います。冒頭に挙げた本人の言葉では、「沼」と呼ばれていますが、そのようなドロっとした感触、自分もなかば埋まりながら動き回るという、モノモノしく、決して写真画像で置き換えることのできない関わりが、そこにはあります。」
このように見てくると、三者のそれぞれが〈絵の中にいる〉仕方には、当然のことではあるが、かなりの違いがある。その違いをより明確にすべきかとも思うが、もはやその余裕がなくなってしまった。今後の課題としたい。最後に、こうした展示が生前にあればよかったのに……と思ってしまったことを、書き添えておく。
見出し画像
[1] 『版画藝術』(巻頭小特集「版画の現在地点・西日本編」)90, 阿部出版, 1995, p.71
[2] Mitchell, Brenda (2004), Light Boxes Dark Rooms, De Pree Art Center and Gallery, pp.4-5 ちなみにこのテキストは、小川信治・設楽知昭・山田亘という日本特に愛知県に関連のある作家3名を扱った展覧会「Light Boxes/Dark Rooms」カタログに記されている。
[3] ミッチェルが挙げている残りの巨匠たちとの関連はどう理解されるだろうか。設楽が名古屋港の倉庫で等身大の人形をつくり、それをポリエステルフィルムに描いたことを、ミッチェルはフェルメールによる「カメラ・オブスクラ」の使用に準えている(ミッチェルが参照している設楽の作品は、2001年の『落下スル私ヲ再演スル』[英語タイトルは、I am falling ]である。このあたりの作品制作方法については、『絵の幸福』pp.113-122で、設楽自身が詳しく述べている)。だがそこで重要なのは、通常カメラ・オブスクラから連想される線遠近法の使用ではなく、できあがった画面の「静かで時間を超越したsilent and timeless」性格の方である。ミッチェルはまた、静かで時間を超越した、禅の公案のように謎めいたcryptic画面を、デュシャンの『大ガラス』、さらには如拙『瓢鮎図』(15世紀はじめ)に関連づけている(ミッチェルによれば、設楽自身が、これらの作家に影響を受けたと述べた、ということだ)。たしかに、今回のコレクション展に展示された作品のうち、2001年から2004年にかけて制作されたものは、そのように、静かで時間を超え、しかも謎めいた佇まいを有している。しかしながら、その後の作品を見ると、1990年代までの「逆転や裏返しや突き抜けを繰り返し続ける装置」であることと、2000年代前半の禅の公案のように謎めいていることとが、ともに暴走しながら溶解する、そんな作品となっているように見える。逆転や裏返しや突き抜けは絵の各所で生じるようになり、謎めいた画面は謎めいたまま、ただし沸騰した姿で静止する。また余談になるが、デュシャンについて設楽がどのように考えていたか、直接話を聞いたことはない。ジョルジュ・アガンベンは『創造とアナーキー』(アガンベン、ジョルジュ(2022)『創造とアナーキー−資本主義宗教の時代における作品』岡田温司・中村魁訳, 月曜社)のなかで、アリストテレスを引きながら、「外的な目的(作品の生産)にねらいを定める制作(ポイエーシス)」と「それ自体のうちに(善く行為することのうちに)目的をもつ実践(プラクシス)」を区別し、さらに「この二つの様態のあいだに」「雑種的な第三項を忍び込ませ」たのが「典礼とパフォーマンス」、芸術でいえば「アヴァンギャルド」(訳者解題では1909年の「未来派宣言」が例に挙げられている)であるとし、「そこでは行為それ自体が作品として呈示されることを要求する」(同p.29)とする(もちろんそれは無理筋なのだが)。そのうえで、アガンベンは、デュシャンが「アヴァンギャルドによる典礼のなかで、わたしが芸術機械と呼んだものが臨界にまで達したことによって、芸術は袋小路に陥ってしまった」ことを「理解していた」とし、デュシャンはこの「作品−芸術家−行為からなる機械を破壊、あるいは不活性化するために」「何かしらの使用の対象[便器など]」を美術館に持ち込んだのだ、と言う(同p.30)。これに倣えば、『目の服』の頃の設楽は、あえてこの不活性化された図式のうえで制作することを試みているようにも見える。
[4] この点については、筧菜奈子(2014)「ジャクソン・ポロックにおける無意識−1933-44年のイメージの変遷をめぐって」『あいだ/生成』4, あいだ哲学会, pp.28-48を参照のこと。ポロックは「無意識」を意識して描いた(設楽の「人工夢」もそうである)。
[5] 秋庭史典(2016)「絵画という営み−オオギリの思い出」『瞼 まぶた 設楽知昭』(アーティストブックレット6)不忍画廊
[6] 篠原資明(1995)『五感の芸術論』未来社
[7] Maxi Graphica編(2001)『Extension Maxi Graphica』カタログ
[8] 森村泰昌(1998)『踏みはずす美術史−私がモナ・リザになったわけ』講談社現代新書
[9] 作品はあくまで「寓意画」であり、実際のフレネルレンズ越しの景色がつなぎ合わされているわけではない。「鏡」「服」と同様、フレネルレンズも、普通に見ることとは違う次元に設楽の意識を持っていくための仕掛けとなっている。当時の設楽は、鏡+モノタイプ、(想像上の)フレネルレンズ+モノタイプ、人形+ポリエステルフィルム(→タペータムパネル)などを用いていたため、直にカンヴァスと対することはなかった。だが、次の設楽の発言などをみると、この頃の作品と後年の作品、たとえば、カンヴァスに描かれた《そらうみ》(2008)などとは、やはりつながってもいるのだな、と思う。その発言とは、《目の服》(1993)についてのものである。「この作品は、服であるよりも風景画に近く、さらに、私にとっての山水となるべきものです。実際に身につけて制作しますが、このとき私は山水の世界にあるのです。私のいう山水は、伝統的な中国、日本の水墨画だけを指すのではなく、時間の制約から解き放たれ、自在に空間を旅することの絵画世界と考えます。この絵画世界を浮遊するものは、いったいどんな存在なのでしょう。私は目の存在に象徴されるべき、意識とよべるものであると考えます。」(『なごや文化通信』1995年12月号より。引用は、『Lady’s Slipper』6, 小特集「設楽知昭」1997年, p.4)
[10] 桑嶋幹(2020)『よくわかる最新レンズの基本と仕組み』第3版, 秀和システム
[11] 設楽が「絵の中に入る」に類する言葉を、いつから発していて、いつころには使わなくなったかは、きちんと調べなければならないことだと思う。発言のあいだにある微妙な違いについても。たとえば、次のような発言。「私達は、世界を私達固有の色彩の幅で見る。その色彩を納め、そこからも眺めうる場所としてこの部屋(壁)は制作された。私はその全体が大きな眼球であることを想像する。その部屋には私達が棲んでいるのが見える。そして、私達が目にする全てのものと解けあっているのが見える。シタラトモアキ」(SHITARA FRSCO 白土舎, 1994.9.10(土)-10.15(土))/次は本人の言葉ではなく引用。「また「FOLIOS-佐久島の恋」は、アートプロジェクトの形式を援用しながら、「絵画の中に入りたい」という設楽が、逆に絵画から恋人たちを外界に引っ張りだしてしまったという、少々強引で愛嬌に満ちたものとなった。」(高橋綾子「”二つ折り”の作家試論−1990-1999-2008年のシタラトモアキ」『SHITARA 2008人雲』展リーフレット)/さらに次は、『目の服・上衣』について画家が後年に行ったコメント。「「目」と「服(私のからだ)」と「まわりの世界」、この三つの関係が、普段は「目・からだ」と「まわりの世界」であるのに対して、この作品の場合は「目」と「からだ・まわりの世界」になるのではと思います。そういう感覚です。
これは服の形をしていますが、「絵画」です。絵は私とまわりの世界の中間にあるもので、人間の代替物とも言える存在だと思います。」(2014年、不忍画廊へのコメント、今回のコレクション展・展示室4で紹介されている。)/「石膏の表面に転写された絵の具は鏡の表面にあったものです。「こちら」と「むこう」の境界としての描写であり、「私の姿」というものは消滅しています。ひょっとすると、石膏に刻まれた「顔」・「頭部」は、「私の姿」の復元といえるかもしれません。」(2015年、愛知県美術館の収蔵に際してのメール、今回のコレクション展・展示室4で『鏡 1986』(鏡よりモノタイプ、石膏刷り)と同じ展示ケースのなかで紹介されている。)/ちなみに、櫃田伸也退職時に開催された展覧会「放課後のはらっぱ」(2009)のカタログには、櫃田が所有していた設楽作品2点が収録されている。そのタイトルは、いずれも《回転スル人》(1984年)であり、絵は「人間の代替物とも言える存在」という、後年の言葉と呼応している(宮村・鈴木編(2009)『放課後のはらっぱ−櫃田伸也とその教え子たち』あいちトリエンナーレ実行委員会, p.42)
[12] 坂本さんについてのnote
「絵の思考」とその魅力-坂本夏子さんの絵について
https://note.com/fmak_2/n/n1f9a4ae1d66a
[13] 鋤柄さんについてのnote
膜と家—鋤柄ふくみさんの絵について
https://note.com/fmak_2/n/n06dcf4ccae10
[付記]
この記事を書いた後に、次の二つのサイトを拝見しました。どちらも重要な視点を提示されているので、是非参照してください。
「OutermostNAGOYA 名古屋×アート、舞台、映像…」(井上昇治氏による)「追悼 設楽知昭 愛知県美術館で2022年10月29日-12月25日」(2022年11月11日)
URL: https://www.outermosterm.com/memorial-exhibition-shitara-tomoaki/
「設楽知昭展展評他 - 追悼に代えて」(石崎勝基氏による)
URL: https://uchuronjo.com/art/shitara/shitara_index.html
井上氏の記事では、仏教の視点からの考察が行われています。これはわたしにはない視点でした。2010年代後半からの作品を考えるときにも、重要な視点になるのでは、と思います。ごく一部を引用しておきます。関心のある方は、必ず全体を参照してください。
「つまり、設楽さんにとって、絵画とは、自分の存在と世界との関係を探究することなのである。そして、自分が触知している(描いている、存在している)から、世界があるとすると、それは仏教の唯識論に近づく気がする。」
また、石崎氏によるテキストの数々は、画家と同時代の貴重な証言でもあります。
そのなかに、次のような一節があり、同じことは今回の展示からも感じられました。
「手製の服を着た状態でその服に描いていくという『目の服』では、当然、目と手が支持体に相対する関係は通常の紙やキャンヴァスに描く場合のように距離をおいたものではありえず、とりわけ手の角度は位置によって制約を受け、しかもそれは位置ごとに変わることになる。こうした点でこの作品は、設楽における距離や視覚/触覚の問題を説明するかっこうの例となっておかしくない。しかし実のところ、距離をおいて展示された状態では、ものとしてのありかたが強く訴えすぎて、距離の微細なゆらぎを感知させるとはいいがたい(実際に服を着てみた時どう感じるかはまた別かもしれないが)。近代的展示の形式にのっとり、平面としての紙なりキャンヴァスに封じられた画面に距離をおいて対した時にこそ、その距離自体の横滑りが感覚的に発現するようなのだ。この点、また<目>や<眼球>への固執からして、視覚と触覚の擾乱といっても自然発生的なものではなく、設楽もまた、おそらく近代的視覚の呪縛から逃れているわけではあるまい。むしろ視覚の過剰による視覚の崩壊、それを観念としてではなく感覚的に呈示することが要なのだろう。」
https://uchuronjo.com/art/shitara/199702_shitara_ls_6_p6_7.html
(これも、今回たびたび参照している、『Lady’s Slipper』6, 小特集「設楽知昭」1997年, pp.6-7に掲載されているものです。ウェブで読めますので、必ず全文を参照してください。)
秋庭史典
1966年生まれ。博士(文学)。名古屋大学大学院情報学研究科教授。専門は美学。現在は、未来社会における幸せとは何か、そのために美学や芸術学は何ができるかという視点から研究を行っている。
レビューとレポート第43号