経験と表現の沁みわたる響きあい ——「Women’s Lives 女たちは生きている:病い、老い、死、そして再生」展評 香川 檀
女性活躍とか、女性のキャリア支援とか、巷に掛け声はとび交うけれど、現実はそんなに「キラキラ輝いて」いるわけではない。家事に仕事に育児や介護と、人生、息つく暇もなく、気がつけば経年劣化したカラダが悲鳴をあげている。熟年期を迎えた女たちの実感は、だいたいそんなところではないだろうか。女性は人生のなかで、出産や介護や看取りといった人間の生と死にじかに向き合う——という役目を担う——ことが多い。ために、「病い、老い、死」という、一般に人生のダークサイドと考えられているトピックはいやでも身近になるし、それだけ身体をめぐる生物学的な知の権力による生の政治学(バイオポリティクス)にも晒されやすいのではないだろうか。
今年(2023年)10月~12月に開催された「さいたま国際芸術祭」で、市民プロジェクトの一環として開催されたグループ展「Women’s Lives 女たちは生きている」(10月9日〜22日/さいたま市プラザノース、ノースギャラリー)はそんな女性の生きざま白書が出発点になっている。女性作家8人によるこのアート展は、病気や加齢や死というダークサイドをさながら触媒にして、自身や無数の女性たちの日常の経験を表現し、歴史や異文化にも視野を広げ、最後は「再生」という救済の景色で締め括っている。キュレーターの小勝禮子は、かつて栃木県立美術館で学芸員として「奔る女たち——女性画家の戦前・戦後 1930―1950年代」展や「前衛の女性1950―1975」展など、いくつもの女性美術家の展覧会を企画した実績をもつ。私は、小勝さんとの共著でジェンダーとアートをめぐる往復書簡『記憶の網目をたぐる』(彩樹社、2007年)という本を出したこともあって、ずいぶんと長いお付き合いになる。4年前には都内の美術館で彼女がキュレーションした女性美術家のグループ展「彼女たちは叫ぶ、ささやく―ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」(2019)に招かれてトークをしている。そのときは、専門のドイツ美術から女性アーティストの例を引いて、表現者としての女のハイシーズンは60歳を超えてから、という威勢のいい話をしたのだが、これは実を言うと「自分に元気をつける」ためのものでもあった。(当時の私は、死の床にある母の看取りの日々にあり、トーク当日も病院から美術館に直行したのだった。)そんな思い出のある女性作家展の出品作家のうち、3名が今回の展覧会にも出展しているというので、懐かしくなって足を運んだ。今展の出品作家は、60歳を越えたベテランから30歳代の若手までと年齢層が幅広く、世代もその表現手法もさまざまだ。8名それぞれの作り出した世界を、会場構成の順を追って辿ってみる。
山岡さ希子(1961年〜)は、パフォーマンス・アーティストとしても活動しているが、今回は、社会への直接的な介入を示すビデオ4点を中心としたインスタレーションを構成した。《パブリック・ダブルA〈個人とその社会〉》(2012年)、《パブリック・ダブルB〈社会に関わる個人〉》(2012年)、《ザ・ボディ・メインテナンス》(2018年)、《アドヴァイザーとしての死》(2023年)は、いずれも作家によるインタヴューを記録したもの。個人と社会との関係を問う作品では、「あなたにとって仕事とは何ですか」「家族とはなんでしょう」という質問への応答が集められる。あるいは「〈死〉について考えたり感じたりしていることを話してください」という問いへの、人々の反応が収録される。印象的なのは、介護施設でアルバイトをした若者が、そこでのお年寄りにまつわる経験を語るくだりで、その人の目をとおして観客は老いについて考えさせられる。会場の壁は、作家による人物の顔のドローイングで埋めつくされ、その上に、訪れた人が答えたアートに関するアンケート用紙が貼り出されている。作品と観客とのインタラクティヴな関係性も加味されているのだ。
松下誠子(1950年〜)の表現世界は一転して、布や羽毛やパラフィンなど柔らかで儚げな素材を使った立体作品が並ぶ。〈家〉〈毛布〉〈枕〉といった私的でドメスティックなものもあれば、〈銃〉という攻撃的な武器もあり、いずれも作家が女性の解放や癒し、そして平和を願って造形したシンボリックな意味をもっている。例えば、パラフィンを鳥の羽で覆い尽くした《セキュリティ・ブランケット》は、「安心毛布」」とも訳され、もともとは幼児が安心感を得るためにいつも手にしている毛布のことだという。制度に拘束されて生きづらい女たちが、束の間の安息と連帯を得ることができる「赦された庭」なのだという。会場の床に増殖したように広がるのは、パラフィン製の透明なクッションのような《すべての私たちの女たちの枕》で、これも毛布と同様、体をしばし横たえて休息したくなる、脆いけれど優しい作品だ。〈枕〉のなかには紙片が入っていて、それぞれに短い文章が記されているという。傍に置かれた冊子によってそれらの文章が読めるようになっていて、シャネルやサッチャーといった有名人と並んで、作家の母親のものとされる「あなたの純粋性はただの純粋培養。本物を知りなさい。」という言葉も見える。すごい母親! としばし感嘆。
続く一条美由紀(1960年〜)のインスタレーション《ページの最後はプリンがいい》は、作家自身の内面と、他の女性の人生へのファンタジーとが織り合わさって描かれたような一連の絵画と、鋭く突き刺さるような片仮名のテクストから構成されている。一条が描く女たちはみな、頬杖をついたり人形を見つめたり、大股で走ったりと意味ありげな身振りをしていて、辛辣なテクストは彼女たちの独白なのかどうか、判然とはしない。例えば、ゴム手袋のようなものを片手で差し出す中年女性の絵のそばには、「ウツクシイコトバノオクニヒソム ジコマンゾクノ アザトサニ ムシロミニクイママノホウガ マシダト オモウ」と書かれてあって、絵と言葉との関連は観客の想像にまかされている。そして最後にこんな言葉と出会い、胸を突かれる。「サイゴマデモッテイタイ鼓動ガアル」「ソレハホントウニチイサナ誇リダケド イツカ会エルアナタヘノ贈リモノトシテ」—— ドイツで現代アートを学んだ作家が、帰国後の長いブランクののちに活動を再開した、現在の前向きな心境が窺い知れるようだ。人生の最後は甘くて美味しいプリンがいい、そんな肯定的なメッセージがずっしり重たい。
広島で生まれ育った岸かおる(1956年〜)は、3人の子育てを終えて作家活動に入った遅咲きのアーティストで、作品のテーマは原爆や、福島の原発事故といった科学技術の進歩が引き起こした重たい問題を扱いながら、それを菓子や編み物といった料理や手芸の方法で表現していくギャップ、つまりコンセプチュアルな価値転倒が身上だ。本展に出品された《spare-part》(2013~23年)は、ビーズ刺繍と木目込みの技法で人間の心臓をかたどったオブジェたち。手の込んだ豪華な工芸品のような作りものの心臓は、心臓移植手術を受けるための高額な費用をシンボリックに表している。日本の移植医療がたち遅れているために、億という資金を用意しなければ手術を受けられないことへの疑問から、着想した作品だという。人間の身体パーツへの関心は、もうひとつの私的な作品にも繋がっている。岸の母親が高齢になって認知症になり、その介護を経験したなかで母の精神活動や記憶を想いえがいた作品《in her midst—彼女の世界》(2023年)である。写真のプリントや布でつくられた、ふわふわして美しい〈脳〉のオブジェを囲んで、母親が記した日記や家計簿が展示されている。脳にコラージュされた家族写真は、彼女の子供時代からの記憶を表しているのかもしれない。ばらばらにされた〈臓器〉のイメージは、それ自体が〈死〉の暗示的意味をおびている。にもかかわらず、身体への即物的なまなざしを通して、老いや病いに至るまでの一人の女性の人生を、かくも情感豊かに表現できるということが驚きだった。
これまでの4人の作家は、いずれも60歳代かそれ以上の世代であったが、展覧会の後半は彼女らからバトンを受け継ぐように、30〜40歳代の作家によって構成されている。
菅実花(1988年〜)は、女性や乳児の、人間そっくりの精巧な人形を被写体とした写真によって、女性の「産む性」について問題提起した。《The Future Mother》シリーズ(2016~2017年)は、男性の性処理のために製造・販売されているラブドールがもし妊娠してマタニティ・フォトを撮ったらどうなるか、という設定で作られた。生殖を考えない、女性身体の身代わりとしてのラブドールが、今度は女性の身代わりとして妊娠・出産してくれる。そんなSF的な生殖医療の未来を見せられることで、生身の女性たちはそれを「肩の荷が降りた」と喜ぶのか、それともラブドールの美しい妊婦姿を自分へのエンパワーメントとして羨望するのか——。いずれにせよ、この作品は未来を鋭く指し示すものなのだろう。それとは対照的に、《Pre-alive Photography》シリーズ(2019年)は、19世紀後半の欧米で盛んに行われた「死後記念写真」(Post-mortem Photography)という、死んだ直後の亡骸を美しく撮影する風習を真似て、その時代の写真技法である湿板写真の手法で、乳児の人形を撮ったものである。使われている人形は、「リボーンドール」というリアルな赤ちゃん人形。もともと子供用の玩具だったものを人形作家が1点ものにリメイクするようになり、2000年代に入った頃から、子供を亡くしたり授からなかったりした女性が、好みの外見を注文して購入するようになったという。不在の子供の身代わりとしての、リアル人形。亡き子を悼んで、その生の証を残そうと撮った死後写真の湿板技法。生と死(あるいは無生物)のはざまに居る人形が、写真のちからで命を吹き込まれて“生まれ直す”、そんな祈りにも似た「生誕前記念写真」である。
同じように「産む性」にフォーカスしながら、お産の文化や医療行為を科学的にリサーチしたのが本間メイ(1985年〜)の作品である。東京とバンドン(インドネシア)を拠点に活動する本間は、自身の出産体験から、分娩や授乳にともなう「痛み」がどのように文化や社会によってコントロールされるかを、比較文化的な視点から考えさせる。《Bodies in Overlooked Pain》(2020年)は、西洋医学と男性医師によって取って代わられた伝統的な産婆の知識などを、3人の妊婦のパフォーマーたちが演じてみせるビデオ作品。日本では、なぜ無痛分娩を選ぶ女性が少ないのか、も問題のひとつとなる。やはりビデオの作品《Mother’s Milk—Floating Cells into Offspring—》(2022年)は、アートと科学の視点からリサーチを行なうバンドンのプロジェクトと協働で、「母乳」は本当に乳児に最適な栄養源なのか、痛みを伴う授乳行為の意味とはなにか、母乳から培養した幹細胞の意義とは、と問題提起する。そして、出産経験をもつ母親たちへのインタヴューをとおして、授乳する幸せな母親イメージ、という文化のステレオタイプを問い直すのである。これと合わせて興味深いのは、モニターの脇に展示されていた《Changes in the mammary glands》(2022年)日本語で「乳腺の変化」と題された布製の作品である。これは本間が見つけた、第二次フェミニズムの頃の出版物で、女の身体を知ろう、という啓発書にあった挿絵をもとに作られている。妊娠、出産とともに乳房が大きくなり、授乳期が終わると小さくなっていく様子が、乳腺を示す刺繍の増減によって分かりやすく示されている。ちくっと刺す刺繍針の感覚が、授乳の痛みにつうじるのだという。ストレートな身体感覚と医科学の知見とが融合した、女の生の一断面だ。
菅や本間が出産をめぐるテーマを扱ったのに対して、地主麻衣子(1984年〜)は生者と死者をつなぐ場所である「墓」というものに注目する。5つの映像からなるビデオ・インスタレーション《わたしたちは(死んだら)どこへ行くのか》(2019年)は、第1章から第4章までが日本国内の墓地や埋葬文化をめぐるドキュメンタリーである。第1章は東京の谷中霊園が舞台。墓の管理を請け負う老舗の「お茶屋」の店主が語る、親族と連絡もつかない、という今どきの墓事情。第2章は、地主の母の故郷である福島県喜多方市での、子供時代の墓参りの記憶。後継がいなくなれば「墓じまい」しなくては、と心配する母親の言葉がこの作品を構想するきっかけになったという。第3章は、目線をひろく社会に向けて、日本に在住するムスリム(イスラム教徒)の人たちの墓事情について、インタヴューしたもの。イスラム教では死者を土葬することになっているが、日本ではそのための土地がなかなか見つからないという苦労話。第4章は、長崎県の寺で発見された朝鮮半島出身者の遺骨をめぐる、日本の近代史の影の部分に迫る内容になっている。そして最後の第5章で、母との思い出のある彼岸花をモチーフとした作家の心象風景のような美しい映像と、蝉や秋の虫の音が流れ、現代人の「死後のかたち」をめぐって観客を深い瞑想に誘うのである。
彼岸花の「彼岸」は川の向こうを意味するというが、東アジアや日本に伝わる古代の異界伝説では、それは海の向こうにあるともいう。日本画家の須恵朋子(1975年〜)が母親を亡くして以後、10年間も通いつづけているのは、沖縄の離島で「神の島」と呼ばれる久高島である。ここは、海の彼方の異界ニライカナイにつながる島と考えられており、祝女(ノロ)祭りがあることでも知られている。その聖地は男子禁制であり、古代の母性原理が支配しているのだ。須恵は母親を看取ったあと、自分のからだが固まったようになり、絵が描けなくなってしまった。だが、久高島の存在を知って、そこで紺碧の海と向き合うなかで、すーっと肩の力が抜けたのだという。《ニライカナイを想う》と題された数点の絵画は、いずれも吸い込まれるような青で描かれた海と空と砂浜の風景で、一見するとマーク・ロスコのような抽象絵画にも見える。だが、よく見ると砂浜の凹凸や海中の珊瑚礁のようなまだら模様が見えて、岩絵具ならではの触覚的な表現も認められ、臨場感のある崇高性につながっている。この島は近年まで風葬が行われていたというが、それは没後に海に還るためであったのかもしれない。現代の日本でも、心の故郷として海への散骨を希望する人は多い。死者の魂が彼の地に還っていく、そこでまた「再生」を果たし新たな生命につながっていくのだ、と想うことで、見送る人は救われるのにちがいない。
8人8様の世界を巡り歩きながら、それぞれの作家の経験が、たとえば母親の記憶、出産をめぐる思いと身体の痛み、といった断片的なフェーズながら、そこかしこで不思議な共鳴を作り出していることに気づく。それはかならず、観る人のなかの記憶に触れてくる。そこに重ねて、ドキュメンタリー・ビデオや写真、ドローイングや絵画、刺繍や木目込みといった手芸という表現手法でもまた、響き合っている。フェミニズムと美術のテーマに関心をもってかれこれ40年も経つけれど、考えてみるとこういう作品たちによって、したたかに生きていく力をもらっている。その経験と表現の響きに快く身を浸しながら、人生いろいろ大変だけど、「どっこい、アタシは生きている」と呟いて、思わずニンマリした秋の日だった。
写真撮影:菅実花
写真提供:「Women’s Lives 女たちは生きている」展
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香川 檀(かがわ まゆみ)
表象文化論/ジェンダー美術史、武蔵大学人文学部教授。
著書に『想起のかたち——記憶アートの歴史意識』(水声社、2012年)、『ハンナ・ヘーヒ——透視のイメージ遊戯』(水声社、2019年)、小勝禮子氏との共著『記憶の網目をたぐる——アートとジェンダーをめぐる対話』(彩樹社、2007年)など。近年は、現代アートに表現された死生観に興味をもっている。
さいたま国際芸術祭2023 市民プロジェクト「創発inさいたま」
Women’s Lives 女たちは生きている―病い、老い、死、そして再生
会場:さいたま市プラザノース ノースギャラリー
会期:2023年10月9日(月)〜10月22日(日)会期中無休 (終了)
開場時間:11:00~18:00
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