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「リテラルネス」から彫刻を考える――『彫刻2』を手がかりに 勝俣涼

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 叢書『彫刻』シリーズの第2号となる、小田原のどか編『彫刻2』は、2本のテキストの翻訳を軸とした特集を組んでいる。第一特集「彫刻、死語」は、イタリアの彫刻家、アルトゥーロ・マルティーニ(Arturo Martini, 1889-1947)の著作『彫刻、死語(La scultura lingua morta)』(1945)の訳出を軸とするものである。第二特集「新しい彫刻」は、アメリカの美術批評家、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909-1994)の論考「新しい彫刻(The New Sculpture)」(1949)の訳出を軸としている。いずれの特集についても、訳者と寄稿者によって、さまざまな観点からテキストが検討されている。第一特集では、訳者の森佳三による解題と、金井直、池野絢子による論考が、第二特集では、訳者の坂井剛史による解題・論考と、近藤学、筒井宏樹による論考が収録されることで、本書は彫刻を考える上で歴史的に重要なテキストの翻訳紹介にとどまらず、それらを読むことを通じた複数の批評実践が交わり、さらなる問題提起へと開く一冊となっている。
 2つの特集名/標題は、一見して、対照的なものと見受けられる。つまり、第一特集では彫刻の「終わり」(死)が告げられ、第二特集では彫刻の新たなる門出=「始まり」が展望されているかのようである。一方では彫刻の限界が、他方では彫刻の可能性が、看取されているように見えるのだ。編者が巻頭言で述べるように、本書において、ともに1940年代半ばから後半にかけての時期に発表された2つのテキストは、「語りを二分する」対象としての彫刻を考えていくための端緒となっている【註1】。
 興味深く思ったのは、マルティーニとグリーンバーグ、その両者の(少なくとも標題から比較するかぎり)対照的な議論が、ともに彫刻特有のものともいえるある特性をめぐって展開されていることだ。すなわち、彫刻が「物体」という現実的なものと隣接している事態を、いかに位置づけ、評価するか、という問題である。
 一般に、絵画に対して彫刻というメディアは、「芸術」と「現実」の区分が比較的不安定なものであるだろう。絵画の場合、描かれたイメージを縁取る矩形のフレームが、キャンバス内部を現実空間に対する「別の」審級(芸術空間)として切り離す、明確な境界として認識される。彫刻においても、台座によってそうした効果を支援することは可能であるだろう。しかしそれでもなお、彫刻は現実空間から、そう容易く自由にはなりえないように思える。正面性が強く、鑑賞する位置が安定して定まりやすい絵画に対し、彫刻はその周囲をめぐり歩くことができるゆえに、観者の身体との関係に応じて、あるいは周囲の環境条件の知覚的な移ろいに応じて、その相貌は次々と変遷する。そしてこうした相関性は、彫刻が、個別具体的な観者の身体と同じ空間を共有しているという事実を、意識的・感覚的にも前景化するだろう。


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 マルティーニの『彫刻、死語』においては、まさしく個別具体的な現実対象としての人間や動物といった主題に従属する「彫像」のあり方が批判される。「芸術作品の個性となる基本要素」であり、芸術家が「自らの内奥」から引き出すべきリズムは、「創作に先在する主題」によって、十全な展開を妨げられているという【註2】。また別の箇所でマルティーニはこうも述べている。「魂なきものは、人間あるいは動物の形状と結びつくことで、彫刻の圏内に入ることができる。切り離されると、もはや意味をなさない」【註3】。人間や動物の形状は、いわば不活性な「魂なきもの」の隠れ蓑として先取りされた主題であり、この隠れ蓑が取り外されてしまった後に残るのは、続くマルティーニの言葉でいえば「季節の移ろいによって侵食された石」でしかない【註4】。創作に対して外的な要素への依存が、彫刻を芸術として不完全なものにしており、そうした外的要素=人間や動物の主題は、それが外部性の極限ともいえる、芸術の創造行為によって練り上げられるよりも前の現実的な生(なま)の物体(ここでは「石」)とほとんど共犯関係を結んで――「魂」の偽装を目論んで――いる、とも解釈できそうだ。
 特定の主題への隷属、そしてこの制約と結びついている、「物体」の現実性への従属。マルティーニの批評基準において、彫刻作品は自身がその素材(物体・物質)の「ままである」状態を乗り越えられないかぎり、望ましい芸術へと高められることはない。「絵画においては、ある色が色調(トーノ)を生み出すと、創造的価値となる。ところが、彫刻においては、自由を欠いているために、すべてが元の状態のままである。フォルムは、あるヴォリューム、すなわち無形の量、ただの粘土のままである」【註5】。そしてマルティーニは、『彫刻、死語』の標題と直結する表現を用いながら、真に生きたものになりえていない、彫刻という存在を診断する。「詩、音楽、建築、絵画は、古語と同じように、生活に即して、後に続く俗語に翻訳された。彫刻のみが、何世紀にもわたって不変であった。〔中略〕彫刻はそのままに留まっている。俗語を持たない、すなわち人々の間で決して自然な語となることがないであろう死語である」【註6】。
 この「そのまま」性は、そうした言い回しが使われる文脈の相違を差し引いても、彫刻をめぐるまた別の議論を喚起するだろう。というのもそれは、アメリカの美術批評家、マイケル・フリード(Michael Fried)が「芸術と客体性(Art and Onbecthood)」(1967)において、1960年代当時隆盛していたミニマリズム彫刻を批判する際に手がかりとした、「リテラリズム(literalism)」という概念と無関係ではないと思えるのだ。「文字通りの」「ありのままの」「そのままの」を意味する「リテラル(literal)」という形容を、フリードはミニマリズム作品へと批判的に適用した。「ありのままの」物体のようであり、作品自体としては内的に空虚なミニマリズム(リテラリズム)彫刻の存在様態は、作品の外部に依存するものと見なされる。


リテラリズムの感性は演劇的(シアトリカル)である。というのも、そもそもそれは、そこで観者がリテラリズムの作品に出会う諸々の現実的な環境にかかわっているからである。〔ロバート・〕モリスがこのことをあからさまに示している。以前の芸術においては、「作品から受け取られるべきものは、厳密に[その]内部に位置している」のに対して、リテラリズムの芸術の経験は、ある〈状況 situation〉における客体の経験である――それは実質的には定義上、〈観者を含んでいる includes the beholder〉のである。【註7】


 観者との関係性へと投げ出された彫刻は、目の前にあるという現前性を強調する。本稿で先に述べたように、彫刻は往往にして、それが観者と同じ空間を共有している、という感覚を呼び覚ますだろう。フリードは「リテラリズム」の作品群が帯びる「擬人性」を指摘してもいるが、それはそれらが作品−観者の現実的な関係をことさら強調するタイプの作品であるために、観者の身体と共有される「人間」めいた性格を際立たせるからだろう【註8】。ここには動物と並んで「人間」を、彫刻の特権的な不変の主題と(批判的に)見なしたマルティーニの思考と、遠からぬものが感じられる。
 フリードはグリーンバーグの高弟として知られ、先に触れた「リテラリズム」批判は、そのモダニズム批評を継承する態度と地続きのものである。実際、「芸術と客体性」におけるリテラリズム作品の現前性をめぐる分析は、グリーンバーグが1967年に発表した「彫刻の近況(Recentness of Sculpture)」を足がかりとしている。


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 こうしたことを踏まえるなら、『彫刻2』の第二特集の軸となるグリーンバーグのテキスト「新しい彫刻」もまた、「リテラリズム批判」を遂行するものと思われるかもしれない。しかしながら、ここが本書における訳出の意義でもあるのだが、必ずしもそうなってはいないのである。必ずしも、というのは、グリーンバーグの「新しい彫刻」には、3つのバージョンがあることに由来する。3つのバージョンとは、(1)1949年の初版、(2)その直後に執筆された同年の論考「私たちの時代の様式(Our Period Style)」と(1)が一本にまとめられた1958年版(タイトルは「私たちの時代の彫刻(Sculpture in Our Time)」)、(3)58年版をベースにタイトルを「新しい彫刻」に戻し、批評選集『芸術と文化』(1961)に収録された61年版である。グリーンバーグの著作のまとまった既存の邦訳としては、『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年)があるが、これに収められた「新しい彫刻」は、(3)をベースにしたものとなっている。しかしながら、(1)の49年版と(2)の58年版(およびこれと大きな相違はない(3)61年版)の間には、大幅な内容の変更が施されており、今回『彫刻2』に訳出されたのは初版の(1)49年版である。これにより、「新しい彫刻」という同じ標題ながら、内容が一致しない2つのテキストが、ともに日本語で読めることになった。
 この内容変更は、彫刻をめぐるグリーンバーグの批評態度の重要な転回を徴づけるものであり、その諸相については、本書所収の訳者解題や論考でさまざまに興味深い検討がなされている。ここでは、「リテラル」であること(リテラルネス literalness)をめぐる評価に着目したい。グリーンバーグは、ルネサンスからロダンまでの間の彫刻は「一枚岩(モノリス)的で肉体性を重視する古代ギリシア−ローマの彫刻(カーヴィング)と塑造(モデリング)の伝統」に固執していたと述べ【註9】、これを理由に――あえて結びつけてみれば、マルティーニの批判を思い起こさせるような語り口で――、その時代の彫刻の限界を分析している。


 他のどの芸術に比べても彫刻は、模倣する対象から――すなわち主題から――離れている度合いが少なかった。また、たとえば動物のイメージを丸彫りの石材に移し替えるのは、平らな表面や語に移し替える場合に比べて抽象の力を必要としなかった――こうしたこともまた数世紀にわたって彫刻に不利に働いたのである。彫刻はあまりにリテラルな媒体であった。【註10】


 現実対象に束縛された「リテラルネス」が彫刻の不利益となる、こうしたかつての状況は、しかしながら、「新しい彫刻」の言説において転換を果たすことになる。モノリシックに閉じた堅固な量塊からの脱却が、そのポイントとなる。グリーンバーグによれば、「一枚岩的なものは、何かを再現していることをあまりに強く匂わせてしまう」のだが【註11】、キュビスムのコラージュを起点とし、ロシア構成主義などを通じた「絵画的で線を主体とする」新しい「構成(コンストラクション)」的な彫刻において【註12】、その限界は乗り越えられたという。というのも、構成的な彫刻においては、もはや石などの単一の素材に留まることなく、複数の異質な素材を組み合わせることができるからだ。
 こうして、モノリシックなものを、そしてそれに伴って対象再現性を克服した彫刻は、「リテラルネス」という特質からその不利益な部分(主題との共犯関係)を取り除くことに成功する。そして、このいわば「還元されたリテラルネス」は、物質的量塊の現前や自然主義に陥ることは周到に避けつつ、現代の「最新の実証主義的な感性」に応えることができるとされる【註13】。「新しい彫刻」の冒頭部で述べられているように、同時代の感性が「美的経験にますますリテラルな効果を求め、イリュージョンとフィクションを受け入れるのをどんどんしぶるようになって」いたのだとすれば【註14】、「新しい彫刻」はこうした感性の要求と合致する形式と見なせるだろう。
 「リテラルネス」にある可能性を見出す、この49年版の「新しい彫刻」における態度はしかし、「モダニズム」や「視覚的イリュージョン」といった概念によって支えられる、その後のグリーンバーグの思想的変遷の過程で否定されていくことになり、58年版の「新しい彫刻」はそれを反映している【註15】。先述したように「新しい彫刻」では当初から、キュビスムやロシア構成主義を先駆とするコンストラクションの可能性が展望されていた。美術史家のアレックス・ポッツ(Alex Potts)は、しかしグリーンバーグがそれと同時に、「新しい彫刻」がフォーカスする地理的・社会的状況における、その限界を察知してもいた兆候を看取している。ポッツによれば、その逡巡は「まるで彼〔グリーンバーグ〕が、『手ごたえのある新しい世界』を創造するロシア構成主義者のプロジェクトを再演するような試みは、それが同時代の資本主義下にあるアメリカで笑劇として繰り返される際にはうまくいかなくなると、すっかり気づいているかのよう」であった【註16】。手ごたえのある=触知しうる(palpable)、リテラルな物理的現実性はいずれにせよ、「新しい彫刻」の後のバージョンにおいては後退し、触覚性は視覚性にその地位を明け渡している。 


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 ここまで『彫刻2』における二つの特集を、「リテラルネス」をめぐる状況的な評価という観点から読んでみた。これらの特集に加えて本書では、鈴木一平の詩「忘れる碑」、小松理虔+津田大介+小田原のどかによる鼎談「情の時代の「公共」「彫刻」をめぐって」、大槻とも恵による論考「核災害後の「未来」の表象と子ども救世主(チャイルド・リディーマー)――福島に現れた《サン・チャイルド》像を再考する」、七搦綾乃へのインタビュー「彫刻でなければならない」が収録されている。いずれの内容も、さまざまな切り口で彫刻というトピックにアプローチしており、「彫刻」なるものと対峙する契機が複数的なものであることを改めて実感させられる。
 大槻の論考では、ヤノベケンジによる彫刻作品《サン・チャイルド》のイメージをめぐる考察が行われている。《サン・チャイルド》は、ヤノベが2011年3月11日の東日本大震災を契機に制作した、子どもの姿を象った大型の彫刻であり、全3体が存在する。2018年に福島県福島市の教育文化複合施設「福島市子どもの夢を育む施設 こむこむ館」の前に「復興のシンボル」として設置された1体は、展示されてまもなく、メディアを通じた批判にさらされ、除幕からおよそ一ヶ月のうちに撤去される事態となった。その焦点となったのはとりわけ、子ども像が着用する、放射線防護服を思わせる衣装や、その胸部に取り付けられた放射線測定器(ガイガーカウンター)の造形である。そうしたイメージが、風評被害に繋がるのではないか、あるいは測定器が「000」の数値を示す表現が、事実(自然放射線もある以上、空間線量がゼロになることはありえない)に反するといった声があがっていた。
 この出来事については、鼎談「情の時代の「公共」「彫刻」をめぐって」でも言及されている。そのなかでは、公共彫刻の問題が、熊本県水俣市の「水俣メモリアル」や、長崎の北村西望《平和祈念像》(1955)とそれに続く大型公共彫刻である富永直樹《母子像》(1997)といったモニュメントの事例、また戦争遺跡や震災遺構の保存をめぐる議論や、資料展示のあり方、そして「あいちトリエンナーレ2019」(本鼎談もその関連イベントとして実施された)内の企画「表現の不自由展・その後」で展示されたキム・ウンソン、キム・ソギョン《平和の少女像》をめぐる反応などを実例に議論されており、これらと直接、間接に接続する形で、《サン・チャイルド》が取り上げられている。
 本鼎談には、公共彫刻のあり方を考える上で数々の有益な視点が示されているので、全容についてはぜひ通読していただきたいが、ここでは、公共彫刻の設置に関する決定プロセスに触れられた箇所に着目したい。津田は「意味性が強い彫刻を公共の場所に置くときに、その文脈をどう伝え、合意形成をどうつくっていけばいいのか」を考えることの必要性に触れ【註17】、また小田原は、公共空間における造形物の設置に際して、コンペを通じて議論がなされることを提案している。
 小田原は《サン・チャイルド》の撤去について書いた別のテキストをウェブ版『美術手帖』にも寄稿しており、公共彫刻の設置が行政の長による密室的なトップダウンで進められることの問題を、過去の事例を踏まえつつ指摘していた。そして「公共空間に置かれた作品は美術館や芸術祭とは異なり、造形表現に込められた暗喩や明喩をめぐる約束事を共有した人ばかりが見るわけではない」こと、それゆえ「公共彫刻の恒久設置には、美術空間と公共空間の性格の違いを踏まえ、住民のコンセンサスを得ることが必要」であると述べている【註18】。《サン・チャイルド》の測定器が示す「000」の数値は、その場所の状況や実際の対象を事実的に写し取った、言い換えれば「文字通り(リテラル)」に記述・描写したものではなく、「放射能の心配のない世界を取り戻した未来の姿」を象徴的に表す比喩表現である【註19】。しかし小田原が指摘するように、意味解釈の約束事を承認してはじめて通用する「比喩」は、その解釈共同体をともにしていなければ成立せず、比喩を意図したものが、ともすれば事実的なディスクリプションとして受け取られてしまう場合もあるだろう。
 マルティーニに立ち戻れば、『彫刻、死語』の一節には、彫刻が主題に隷属していることから、「隠喩が不可能」であると指摘する箇所がある【註20】。一方ではリテラルネスと隣接しており、他方では、芸術空間の約束事にもとづく解釈――表面上の情報の背後に、何か「別の」意味があると考えること――を想定した表象としての性格がある。こうした二重の相貌を際立って備えるのが、彫刻というメディアであるのかもしれない。だからこそ、公共彫刻の設置にかかわる意思決定のプロセスが、より重要な問題となるだろう。 


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 大槻の論考は、《サン・チャイルド》のもつ表象としての性格を分析し、批判的に論じたものとなっている。そこで参照されるのが、「チャイルド・リディーマー(子ども救世主)」というイメージ類型と、クィア・スタディーズの学者リー・エデルマン(Lee Edelman)による「再生産的未来主義(Reproductive Futurism)」という概念である。「再生産的未来主義」とは、未来にまつわる表象の多くが「子ども」の姿と結びついており、こうした「未来」=「子ども」の短絡が、異性愛規範(生殖・再生産)を強化し、非規範的な諸々の可能性を排除するイデオロギーとして機能する様相を指すという。それを通じて表象された「未来」のイメージとは、大人たちが考える正しい価値観や社会構造を、子どもの姿を通じて再生産、継承するものとなる。「チャイルド・リディーマー」については、教育学者・フェミニズム研究者のマデレィン・グルメ(Madeleine R. Grumet)らの議論が参照されている。それは大人たちが犯した罪や過ちの救世主として「子ども」の形象が動員され、未来における罪の贖いというタスクを子どもたちが背負ってくれるよう託す、都合の良いエゴイズムを示すものとされる【註21】。
 大槻は《サン・チャイルド》を、戦後日本が経験した復興の(経済発展の陰で抑圧されたものは忘却する形での)成功の記憶への固執に連なる仕方で、「新しい科学技術によって「現在」の問題は全て解決されるという未来主義的な発展史観のみが反映」されたものとして読む【註22】。大槻の論考は、この子どもの顔に施された傷の表現を、「現在」における「不安」を一手に引き受け/清算する行為者の徴として考察するものといえるだろう。
 さらに大槻は、《サン・チャイルド》の姉のような存在として作られた少女像《サン・シスター》と、これに装飾が加えられて「生まれ変わった」《フローラ》に触れている。神話からとられた女神フローラへの変身物語は、「西洋列強(西風)によって開国(開花)を迫られた日本が、先進国(神)の仲間入りをした歴史」と重ねられ、また「持続可能な時代に向けて開花する希望」を託されている【註23】。大槻はここに、開国=開花を迫る欧米列強(精霊クローリスの女神フローラへの変身を媒介する、西風の神ゼピュロスに喩えられている)を男性化し、開花する日本を女性化・幼児化する、ジェンダー化された歴史観を看取している。また、こうしたストーリーにおいては、「開花」や「生態系」のイメージと女性を結びつける表象を通じて、生殖を前提とした異性愛規範が踏襲されるとともに、「女性と自然は新たな資源の生殖と再生を要求される」支配関係のうちに留め置かれることになる【註24】。 


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 この意味で《サン・シスター》と《フローラ》は、出生や発達の表象を担う彫刻といえるが、こうしたイメージは、「彫刻」という営為そのものにかかわっている事柄かもしれない。本書を通読してみると、このイメージは、ふたたび立ち戻るが、マルティーニの言説とも無関係ではないように思えてくる。すでに見たように、『彫刻、死語』はある側面で、彫刻の限界について書かれた著作であり、グリーンバーグやフリードとの比較を強調するならば、彫刻の「リテラルネス」を批判するものだったともいえる。しかしその一方で、そうした限界を乗り越える契機もまた、同書には含まれていることに留意すべきだろう。金井直が述べるように、「本書がまとう「彫刻否定論」的な外被を真に受けてはならない。予期に反して、たんなる弔辞には留まらない抑揚や閃きが、たとえば、種子、繭、子宮といった語とともに、彫刻実践に繰り返し与えられている」【註25】。
 「死」(語)のイメージに逆行するような、発生的なイメージを喚起するそれらの概念は、「造形的子宮」と呼ばれる構想にかかわっている。森の論述を引くなら、その構想についてマルティーニが言及した「ミケランジェロのトリック」というテクストにおいて、「「物体」は、「子宮」内部で発芽して消える「種子」のように自らを無にすることで、「空間」を生み出すと説明されている。つまり、マルティーニが最終的に求めたのは、「物体」に留まる彫像ではなく、「物体」から現れる「空間」であった」【註26】。
 「子宮」や「種子」とのかかわりを通じて、外的現実性に隷属するリテラルな「物体」は「空間」へと昇華される。マルティーニのこうした発生的構想を担うのは、マッスの「内部から」生じた筋肉に比較できる張りの表現や、酵母の作用によって自然に膨らんだような、内発的生成を示す造形であり、それは古代エトルリア人の彫刻制作を「ラビオリづくり」に喩えることで指し示されてもいた【註27】。
 池野絢子は、マルティーニがエトルリア彫刻の造形を手がかりとして、「空虚な彫刻」である「壺」に「彫刻の起源」を見出した経緯に着目している。そして、マルティーニにとって壺の形態とは、「人間」の形態と類似するものであったという。池野はこの壺=人間の形象の生成に、マルティーニにとっての「彫刻」のメディア史的な起源(第一の起源)を見出すと同時に、不定形な土から壺が作られること、またそれが内に抱える空虚が、胎児が成長する母親の胎内と比喩的に対応させられていることから、「個としての人間=彫刻の存在の起源」(第二の起源)を看取している【註28】。
 既述の通り、マルティーニは動物と並ぶ「人間」の主題に彫刻が拘束されていることを、否定的に評価していた。その消極的な「人間」像は、現実対象としての人間の「外観」を、主題として直写的(リテラル)に写し取り、材質の物質性と共犯関係を結んでいた。これに対し、筋肉の膨らみや発酵作用に喩えられる、自然=自発的な力により内側から生成する壺のような人間の形象は、発生・出生の比喩(「子宮」という形象)に助けられることでいわば「リテラルネスを超克する」基軸となるものだったのではないだろうか。ここには、対照的ともいえる「自然」概念――一方には不活性で物質的な自然、他方にはある種のロマン的な、創造的な充実を宿す自然――を看取することができるかもしれない。
 「自律的な彫刻」という近代的なモデルが、自然概念のこうした相克、そしてロマン的に類型化された身体表象を媒介として成立していること。もちろん、これが諸々の近代的な彫刻概念の一例ではあるとしても、そこに伏在する表象の力学を感じ取ることは可能だろう。


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 以上で触れたように、「彫刻、死語」という標題の印象に反して、マルティーニは独自の理路と制作実践に依拠しつつ、彫刻に自ら発達する「生」を与えようとしていた。こうして振り返ってみると、筆者にとって『彫刻2』の読書体験は、生活に即した「俗語」になりえていない彫刻を批判したマルティーニや、リテラルであることにこそ同時代の生きた感性との適合を見た(1940年代末の)グリーンバーグ、あるいはヤノベらの言説や表現を実例として、さまざまな角度から彫刻の「生」のあり方について考えさせるものだった。本書所収のインタビューで、「木彫ではあるけれども、木以上の存在になって、自分にとっても見る人にとっても言葉や文章や知識が追い付いてこないものにしたい」と自らの制作を語る七搦綾乃の言葉もまた【註29】、この点で示唆に富んでいる。
 ピュグマリオンの神話が象徴するように、「彫刻」なるものが仮象と現実、「魂なきもの」と魂を備えるものといった諸々の境界で揺動し、「生/死を与える」営為と容易には切り離しがたい存在ないし言説空間であるのなら、私たちはそれをどう捉え、個々の制作や思考に接続していくことができるだろうか。筆者も書き手のひとりとして、引き続き、この問いに向き合ってみたい。




【註1】小田原のどか「刊行によせて」、『彫刻2』、書肆九十九、2022年、7頁。
【註2】アルトゥーロ・マルティーニ「彫刻、死語」森佳三訳、同上、37頁。
【註3】同上、34頁。
【註4】同上、35頁。
【註5】同上、49頁。また、この箇所で触れられている「ヴォリューム」と「フォルム」の関係については、森佳三による解題に詳しいので、合わせて参照されたい。
【註6】同上、78-80頁。
【註7】Michael Fried, “Art and Objecthood,” Art and Objecthood: Essays and Reviews, Chicago and London: The University of Chicago Press, 1998, p. 153. 訳文は下記を参照し、部分的に改めた。マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子・藤枝晃雄訳、『批評空間(第2期臨時増刊号)モダニズムのハード・コア――現代美術批評の地平』、太田出版、1995年、71頁。
【註8】フリードはまた、ミニマリズム(リテラリズム)作品の多くが「中空」であることを引き合いに、内側をもっているというその特質が、擬人性を露骨に示すのだと指摘している。次を参照。同上、74頁。
【註9】クレメント・グリーンバーグ「新しい彫刻」坂井剛史訳、『彫刻2』(前掲)、284-285頁。
【註10】同上、285頁。
【註11】同上、289頁。
【註12】同上、287-288頁。
【註13】同上、289頁。
【註14】同上、279頁。
【註15】この変遷の内実については、坂井剛史による訳者解題や論考、近藤学による論考で考察されているので、参照されたい。次を参照。坂井剛史「「新しい彫刻」解題」、『彫刻2』(前掲)。坂井剛史「虚構の奥行きの空間から現実の空間へ――「新しい彫刻」をめぐるグリーンバーグの理論的変化について」、同前。近藤学「絵画の危機、彫刻の優位――1940年代末のクレメント・グリーンバーグ」、同前。
【註16】Alex Potts, The Sculptural Imagination: Figurative, Modernist, Minimalist, New Haven and London: Yale University Press, 2000, p. 180.
【註17】小松理虔+津田大介+小田原のどか「情の時代の「公共」「彫刻」をめぐって」、『彫刻2』(前掲)、475頁。
【註18】小田原のどか「拒絶から公共彫刻への問いをひらく:ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって」、ウェブ版『美術手帖』(https://bijutsutecho.com/magazine/insight/18635)、2023年1月24日閲覧。
【註19】「YANOBE KENJI」(https://yanobe.com/works/855)、2023年1月24日閲覧。
【註20】マルティーニ「彫刻、死語」(前掲)、40頁。
【註21】次を参照。大槻とも恵「核災害後の「未来」の表象と子ども救世主(チャイルド・リディーマー)――福島に現れた《サン・チャイルド》像を再考する」、『彫刻2』(前掲)、514-519頁。
【註22】同上、556頁。
【註23】「忘れない力と繋げる力-《サン・チャイルド》と《フローラ》」、『Kenji Yanobe Supporters club』(https://yanobe.hatenablog.com/entry/2018/04/16/141627)、2023年1月24日閲覧。
【註24】大槻「核災害後の「未来」の表象と子ども救世主(チャイルド・リディーマー)」(前掲)、563頁。
【註25】金井直「「死語」の隣景――アルトゥーロ・マルティーニ『彫刻、死語』と『対談集』の照合」、『彫刻2』(前掲)、190頁。
【註26】森佳三「『彫刻、死語』解題」、『彫刻2』(前掲)、149頁。
【註27】次を参照。同上、134-135頁。金井「「死語」の隣景」(前掲)、210-211頁。
【註28】次を参照。池野絢子「彫刻の二重の起源――1920年代のアルトゥーロ・マルティーニ」、『彫刻2』(前掲)、238-241頁。
【註29】七搦綾乃(インタビュー)「彫刻でなければならない」、『彫刻2』(前掲)、590頁。




勝俣涼
1990年生まれ。美術批評・表象文化論。主なテキストに、「彫刻とメランコリー――マーク・マンダースにおける時間の凍結」(『武蔵野美術大学 研究紀要 2021-no.52』、武蔵野美術大学、2022年)、「戸谷成雄、もつれ合う彫刻――「接触」をめぐる身体と言語の問題系」(『戸谷成雄 彫刻』、T&M Projects、2022年)、連載「コンテンポラリー・スカルプチャー」(『コメット通信』、水声社、2022年)など。




彫刻2:彫刻、死語/新しい彫刻 書肆九十九


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