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「争わない」は正しいのか?

わがままに生きると気持ちがいいらしい。
私は根っから小心者で、園児の頃から他人の顔色を伺っていた。匿名であるnoteの投稿ですら、「だと思う」「だと考えられる」と、濁して考えを書き残す。
たまに、とんでもねぇ持論でも断言して言い切る文章を読むと、こうもスパッと言えたら気持ちええやろなぁと、草葉の陰で見上げてしまう。
いじらしいくらいに小心者だ(真に小心なら、こんな駄文垂れ流せないだろうが)。

リクルート社の採用では、選考で悩んだ場合、より欲望の強い人間を選ぶと聞いたことがある。
一般的にビジネスの場では、自分の欲望を自覚できていて、周囲にもストレートにそれを表明できる人間の方が強そうに思える。
いや、ビジネスのみならず、人生や社会という戦場においてもだ。そのように強く前に出られる方が、得るものが大きいのではと思える。

私も「自分を解放する方法を身につけて、明日から毎日ハッピー!!」になれるよう、自己啓発でも読んでみるのがいいだろうか。
一瞬考えが浮かぶが、そこまでの瞬発力もない。本当に、「欲望を曝け出せる方が人生ハッピー!!」なのかが気になる。
今回、その検討について書く。

今回のテーマは「欲望」をどう評価して、どう扱うかだ。
欲望は人を強くして、人を活動的にする。その一方で行き過ぎた欲望 - 強欲は忌避される。強欲なジャイアンよりも、寛容なデキスギくんが慕われる。
強欲で独占的なジャイアンに対抗するには、下々で「強欲は悪」だと集い、強欲の排除に動くのがいいだろう。ここに「欲望は悪」とする道徳則が萌芽する。
ある種の道徳は集団で利益を分かち合うアルゴリズムであり、ニーチェはこうした下からの道徳を、奴隷道徳と名付けた。

村社会のような閉鎖的な集団では、共同体を守るための道徳が発達する。
過去の日本は共同体的であり「出る杭は打つ」が強くあった。私が他人の心持ちを気にしすぎてしまうのも、この伝統を引き継いでいるからかもしれない。
謙虚であることは結構だが、「他人の迷惑にならない」を至上命題に生きていると、自らの人生を進めるスピード感に欠けることもあるだろう。欲望と謙虚さを一本の線の上に置くならば、私はもう少し、自分の欲望に正直になりたい。

欲望の否定は、奴隷道徳の教義だが、他の道徳では欲望を肯定する。
ニーチェは言う。「強くありたい・美しくありたい・賢くありたい」と願い目指すことは、かつて美徳であったのだと。それが貴族道徳。
私はこの貴族道徳の考えに目をむけるべきなのだろう。

「より良くありたい」と願うことは、他者を蹴落とすことに直結しない。
むしろ、高くあることで他者を引き上げ、救うこともできる。
平和を望むなら、自らが誰も傷つけないように振る舞うだけが、答えではない。自らで困っている人を助けたり、弱きの手本や憧れになるように、自分を高く律することもできる。

日本は、というか、同じ人間が吹き溜まっている場では、欲望が否定されがちだ。ゼロサムゲームの場においては、誰かの勝利は誰かの負けとなる。
だから他人を牽制するようになり、奴隷道徳が強められていく。それが悪く変質すれば、変わろうとする人を否定する、歪んだ正義感に変わっていく。

欲望は悪ではない。
世界は広く、ゼロサムゲームであるとは限らない。
欲望の方向性、あるいは使い方によっては、世界を広げ、人々を引き上げることもできるだろう。

方向性によっては、誰かと対立することもある。
しかし対立そのものも悪ではない。
考え方や生き方が違えば、対立もある。
動けば棒に当たることもあるが、修復できるならそれでいい。

私はもっと賢くなりたい。
より賢く、より強く。周りの人の信頼を得られる力を手にしたい。
その欲望を肯定したい。

「争わないこと」は正しいかもしれない。
でも、それよりも優先させるべきこともあるのではないか。

吹き溜まりの潤滑油ではなく、自ら動く調停者へ、探検家へ。
新しい自分を目指したい。



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最後までご覧いただきありがとうございました!
最近のネットニュースでは、「正義の暴走」なんかがよく取り立たされます。そうした正義が悪だとして、より良い正義の姿は何か、考えてみたくなり書きました。
本文中でも取り上げましたが、ニーチェの『道徳の系譜』はまさに正義を考える上で、外すことのできない名著ですね。下手な自己啓発よりも、ガツンと視点を変えられると思います。未読の方は是非手に取ってみてください。

これからも週に一度、世界を広げる記事を書きます!
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どうぞまた次回!


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