私の人生(長めの自己紹介)/三塩菜摘
改めてプロフィールをこちらにまとめたいと思います。(編集中)
プロフィール
0歳〜14歳:
習い事も部活も学級委員も全力で忙しい子ども
子どもの頃を思い出すと、色んなことをやっていたなぁと思います。
部活は金管バンドでトロンボーン・吹奏楽でフルート。
学級委員は小中学校合わせて4〜5回くらい務めさせてもらいました。
習い事はスイミング・合唱・英会話・吹奏楽団・習字・学習塾など多かった。
忙しい日は部活帰りにお母さんが車で迎えにきて、車でおにぎりを食べながらスイミングへ行き、その後22時まで塾。のようなスケジュールでした。
塾はテストの成績順で前から席が決まっていく進学塾で、後にかなりのストレスになっていきますが、地頭で何とか前の方に座っていた。図工と美術以外はほぼオール5でしたがこのおかげで自主勉強をする習慣が抜けていきます。
勉強しなくても成績がいいので部活や学級の取り組みに打ち込む日々。
しかし勉強が複雑になっていくにつれ、(当たり前ですが)成績にも影響が少しずつ出てくるし、部活やクラスもうまくいかなくて混乱していきます。
15歳〜19歳:
不登校からの引きこもり。自殺することを考える日々
きっかけはいくつもあって、当時の私の言語化能力では「学校へ行きたくない」としか言えませんでした。
改めてなぜ学校へ行かなかったのか、引きこもったのか、大人になって分析した文章にまとめてみたいと思います(別記事)。
両親うまく対処できず、精神科や心療内科にたくさん連れて行ってもらいましたが、投薬も通院も続かず、結局一言も両親と話さなくなる日々が続きます。
高校は昼間定時制の学校に入り、二学期までは毎日通いました。
話す友達や先生たちもいましたが、なぜ学校へ行く必要があるのか答えが見つからないまま、長期休み後に引きこもりを再開します。
学校に友達はいたのですが、落ち着きたい時にどこにいたら分からず、お昼休みはこっそり、唯一窓があって外が見える個室のトイレの中でご飯を食べていました。
帰宅のチャイムが鳴った瞬間に、一番早く乗れる電車を目指して歩いていた日々を思い出します。その時の光景を思い出すと「焦り」「不安」「いやだ」という感情まで思い出します。とにかく辛かったです。
19歳〜21歳:
海外へ行くという希望を見つけて第二の人生を始める
何度も死にたいと思い、後悔と不安な日々を一人で過ごしました。
昼夜逆転の日々を送り、親も兄弟も一言も話しませんでした。
診断を受けるまで病院に通い続けられませんでしたが、躁鬱や鬱の症状がピッタリ当てはまるような毎日でした。
絶望している一方で、いつも生きる希望を探していました。
探してもやっぱり見つからなくて、突発的に身投げして死のうとした日を今も覚えています。
あんなに長らく死にたいと思っているのに、いざ死のうとすると死ねない。
むしろどうにか生きられないかと道を探している自分に気付きます。
死ぬことを諦め、何をしていれば生きていけるか考えるようになりました。
そこで私を救ってくれたのは「また音楽をやりたい」という思い。
後悔し続けて何年も音楽を避けていたけど、中学生の時に祖父に買ってもらった総銀のフルートを引っ張り出し、また吹いてみようという気持ちが湧きました。
演奏者になるキャリアは難しいので、何か音楽に関わる活動ができないかと思った時に、中学校に来ていた「リペアマン」の人たちを思い出した。楽器を修理してくれる仕事の人たちです。すぐネットでリペアを学ぶ学校を探し、楽器を吹く実技試験があることを知り、練習を始めます。
希望を見つけたこと、死ねなかったことでやっと母親に久しぶりに会いに行って(家の階段を下りてリビングに行くだけですが)謝りに行った日を覚えています。久しぶりに見る母の顔は覚えている母の顔よりも老けていて、それだけ長い月日が過ぎていたことに衝撃を受けました。
体験入学にも行き、あとは試験を受けるだけだったのですが、近づくにつれ学校の中のヨーロッパの研修プログラムに惹かれている自分に気付きます。
だったら海外留学ができる環境にまず身を置いてみようか、と進路変更して給付奨学金のある大学へ進学することにします。まずは外に出て歩くことから始め、辛くて泣きながら鉛筆を持って勉強をしました。無事入学し、留学も決定します。
フロリダの留学は、私の人生に必要なものでした。
多様性を認め、人と違ってもいいし年齢も関係ない、人生は楽しむものだというアメリカでの経験、こんなに充実した日々はありませんでした。
帰国後もう一度留学の機会を探していて、シアトルのリーダーシップ研修の機会に恵まれます。(詳細はこちら)
ここで、もやもやとしていた思いを少しずつ言語化していくことができるようになり、「教育活動をしていきたい」と決意をするのでした。
21〜22歳:
アメリカでの出会い。東南アジアで活動する
シアトルでSocial Entrepreneurship(社会起業家精神)を学び、社会起業家の存在を知り、社会人起業家向けのプログラムに参加していた方にどうしても話が聞きたくて、シアトル郊外を歩きながら一人で会いに行った日を覚えています。
会社の理念に一目惚れのような感じで惹かれ、一度日本へ帰国してからベトナム新支部に会いに行くことを決めます。
当時は大学卒業直後で、社会人経験もなく英語力も未熟な私を受け入れてくれたボスたちに感謝しかありません。
エリートな皆さんたちと仕事する経験は刺激的で、ついていけなくて土日も仕事していました。オンラインでアメリカや日本にいるビジネスパートナーの皆さんともお仕事させてもらい、すごく充実した日々でしたが帰国を決意します。
23歳〜:
「日本・教育・社会課題」のキーワードで出会った地元愛知県のNPO法人に参画
25歳:
父を突然亡くす
27歳〜:
「課題は教育だけじゃない」政治家として活動を決意
29歳〜:
NPO法人代表に就任、政治と教育の軸で活動
最新の活動についてはHPやInstagramから
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