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「ぷるぷる」×「ちょっと休もう」× #FFE4B5 / しの

 どうしてか、何をしても上手くいかない日というのはある。

 今日はパンプスを左足から履いたからかも、とか、起きる時間が2分くらい遅かった、とか。どうでもいいことに、上手くいかない理由をこじつけて、正当化したい自分が情けない。
 いつもはしないようなミスを連発した。新人ならまだしも、そうとは言えない歳になってきている。凡すぎるミスに、頭を下げながらも自分がみっともなく思えて仕方がない。
「……すいませんでした。」
 一緒に頭を下げてくれた先輩に謝ると、肩を軽く2回ほど叩かれた。
「そういう日もあるよ。」
 いっそ責めてくれれば楽なのに。
これからは絶対にこんなミスはしない、と心に決めながら、そんなことを思う自分の狡さにも落ち込んだ。
 “ノー残業デー”というありがたい日にあやかって、今日は早めに帰ることにする。といっても、帰る準備を始めたのは短針が8を指したころだ。いつもよりも2時間は早い。いつもなら、どんな日だろうが針が10を指すまで帰れない。
 でも、今日は特別だ。だらだらと仕事をしてもいいことなど何もない。落ち込んでいる自分に追い打ちをかけないために、さっさと会社を後にすることにした。
 1日働いた足はいつも通りむくんでいる。むくんで苦しい、という感覚は、働き始めてから知った。
 歩けば歩くほど、パンプスが張り付いてくるようで窮屈感が苦しい。大嫌いな黒いパンプス。歩きやすいけれど、飾り気がなくてつまらない。シンプルすぎても、良いことなんてない気がする。何事も、ほどほどが一番なのだ。
 暗い街には、足元からむっとした熱気が立っている。吹いている風は少しだけ冷たくて、そのちぐはぐさが気持ち悪い。早く家に帰りたい。疲れた足を一所懸命に動かして、進んでいく。一歩ずつ「疲れた」が蓄積されていって、胸の奥底がずん、と重くなった。
「……ただいまー」
 家に帰って誰かの存在を感じられるというのは、なんだかほっとするのだと身に染みる。特に、こんな日は。足を踏みいれると、ふわっと夕飯の匂いが鼻をくすぐって、胃が反応してくぅーと軽い音を鳴らす。どんなに落ち込んでいても、腹は減る。こんなとき、ごはんを準備してくれる誰かがいることの幸せを改めてかみしめるのだ。
「おかえり。お風呂、先に入るでしょ?」
 奥から顔を覗かせた母さんがにこにこと尋ねてくる。
「お兄ちゃんも、もう帰ってきてるよ。」
 なるほど。どうやら、それで機嫌がいいらしい。ノー残業デーは家族でご飯が食べられるから、と母さんはいつも嬉しそうにしている。あんたたち、外で食べて来てもいいのよ、なんていいつつ嬉しそうだから、やっぱり家に帰ってきてしまう。それは兄ちゃんも同じようで。お互いの外せない付き合い以外は、家で食事を摂るのが当たり前になっている。
 リビングに顔を出すと、すでにパジャマに着替えた兄ちゃんが胡坐をかきながら耳かきをしている。
「おかえりー」
 ぼうっと少し口をあけながら、気のない言葉を投げかけてくる。脊髄反射で会話をするなといっても、なかなか改善しない。こんな奴でも外面はいいから、とりあえず恋人は途切れたことが無いらしい。世も末だ、と気の抜けた兄ちゃんの顔を見るたびに思う。
 荷物を置いて洗面所に行くと、すでに私のパジャマが準備されていた。母さんは、私のことを甘やかしすぎだと思う。生活の全てのことは、母さんがいないと何もできないだろう。それでも、小さなトゲがどっぷりと刺さっているような今日みたいな日は、こんな当たり前にある優しさが嬉しい。気にかけてもらえている、という事実がそこにある。ピシッと揃えられたパジャマに鼻を寄せると、清潔なお日様の香りがした。
 たっぷりお湯が張られた湯船に身体を落とすと、腹のそこから息が漏れ出た。
「はぁ~」
 気持ちがいい。膨れた足にじんわりと熱が伝わって、ふわふわと身体から力が抜けていく気がする。湯船にずぶずぶと身体を沈めていくと、温かくとなんだかほっとする。頭にもじんわりと熱が伝わってきて、頭がぼんやりとしてくるのが分かる。
 瞼が重い。それに抗う術を私は持っていなかった。
 目を開くと、周りは見たことのない景色に埋め尽くされている。私はどこか知らない水の上をふわふわと漂っているようだった。湖なのか、海なのか分からない。ただ水の上だということは確かで、身を任せていた浮輪に改めて沈み込む。
 裸で?さっきまでの状況を思い出して、自分の身体を確かめると今日身につけていたシャツにスーツを着ていた。少しでも体型が崩れるとすぐに分かってしまうスーツは苦手。最近では、ウエストについた脂肪をごまかすことも出来なくなってきた。
「痩せなきゃな~」
 真っ白な空に向かってつぶやく。今週で何回目か分からないセリフは、あまりにも説得力に欠ける。
 身体を預けていた浮輪をじっと見ると、プリンのような柄がついているのが分かる。そういえば、大好きなプリンを食べたのはいつが最後だったろう。
そんなことを考えながら、ふわふわと流れに身を任せる。
 ふわふわ。明日は頑張らなきゃな。ふわふわ。ずっと眠っていたい。ふわふわ。
 止めどない欲望が、流れと共に溢れてくる。頑張ってるよ、と小さな声が聞こえてくる。大丈夫だよ、囁く声がする。そうだよね、頑張れるよね。今はちょっと疲れているだけだ。目を閉じると、スッと小さな雫が頬を濡らした。
「寝てないよな~?」
 兄ちゃんの声が思い切り響く。びっくりして目が覚めて、危うくおぼれそうになった。家の湯船でおぼれるなんて、恥ずかしすぎて勘弁してほしい状況である。あまりにも音沙汰がない私を心配して、声を掛けてくれたようだった。
「寝んなよーあぶねーからなー」
 どうしてこの人は、家だと一気にあどけなくなるんだろう。
「ね、寝てない!!」
「……うそつけ。」
 ハッと鼻で笑う声がする。なんとなく悔しくて、思い切り舌を出してやる。見えてないのが残念なくらいに、厭味ったらしい顔をしているのが自分でも分かる。
「ビール冷えてるわよ~」
 兄ちゃんの声の後ろから、母さんののんびりとした声が聞こえる。
 今日の私はちょっと疲れすぎていただけ。少し休めば、明日には元通りだ。
「すぐ行く~」
 母さんの声に応えながら、さっと体勢を整える。明日になったら、いつもの私。
 だって、いつでも休める場所が私にはあるんだから。

https://twitter.com/mishika_3_2/status/936781405329092608

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