「鍵」×「ゴッホの絵のお盆のランチ」× ♯94251F / しの

 こつん、と乾いた音が落ち着いた茶色のツヤを持つテーブルの上で響く。

 店にいる人たちには聞こえていないのか、気づいていないふりをしているのか。ふと周囲を見渡しても、視線を上げる人はいない。それぞれが手に持ったケータイとか、文庫本とか、そんなものに夢中になっている。
「とりあえず、ランチセットでいい?」
 私の返事を待たずに、彼はさっさと店員に注文をする。Aセット、ドリンクはコーヒー、ホットで。私の意見を聞いてくれたことなんて、あったのだろうか。

 今日は控えめにいっても、残暑が厳しい。クーラーが効きすぎていない店内に、長そでのシャツ。私の状況を察するに、アイスがいいとは思わないところが、彼らしいと言えば彼らしいのかもしれない。
 初めてこの店に来たときもそうだった。彼のおすすめの店だから、絶対に気に入るはずだから、と。出会ったばかりで私の好みなんか知らないはずなのに、何故か彼は自信満々だった。私は手を引かれるままに、店内に足を踏み入れた。

 何をするときでも、私のことを嫌いという態度をどんな時でも前面に押し出してきて隠そうともしない人が存在する。挨拶なんて基本的に返ってこないし、話しかければ溜め息をこぼす。グループで話していても、私が口を開くたびに嫌そうな顔をするのだからたまったもんじゃない。

 ああ、彼は私のことは嫌いなんだと思っていたら、どこで仕入れたのか私のお気に入りのキャラクターグッズなんかをくれる。ついでに、食事でもどう?なんて。思春期交じりだった10代の私は、それだけで嬉しくてすぐに頷いてしまったのだ。思えば、私には単純で可愛いところがあった。それが無くなってしまったのは、重ねた年齢のせいか、付き合った人間のせいか。

「お待たせしました。ランチセットです。」
 目の前にゴッホの絵の額縁をお盆にしたなんとも奇抜なランチが置かれる。真っ青な皿にはナポリタンが山のように盛られて、申し訳程度のサラダがちょこんと隣に添えられている。ふわふわと緩く立ち上がる湯気に食欲がそそられる。早速食べようと、テーブルに置かれたフォークに手を伸ばすと彼は何故か深刻そうな顔で話を始める。
「お前と別れる理由は5つある。」
 あ、私、今別れ話をされてるんだ。目の前に置かれたナポリタンは目に入らないというように、つらつらと話し出す。
「まずな、お前は表情が分かりにくい。」
「いただきまーす。」
 たくさん盛られたスパゲティは一見まとまって見えるのに、なかなか言うことは聞いてくれない。フォークを突き刺すと、隙間にふわっと熱気がのぼってくる。
「なんで俺が話しかけても嬉しそうな顔してくれないわけ?」
 目の前で、肺から息をすべて吐き出したようなため息をする。はやく食べればいいのに。一口にまとめて口に放り込むと、丁度よいトマトの酸味が広がる。
「ん~美味しい。」
「俺が女の子と遊びに行っても、別に不満そうな顔してくれないし。あれ、結構傷ついてたんだけど。」
 そういえば、一回もお小言って彼に言ったことないものね、と適当に頷きながら粉チーズを振るう。最初に彼から連れてきてもらった時から思っていたことだけど、やっぱりここのランチは美味しい。これで800円というのだから、なかなかにコスパが良いだろう。お盆の奇抜さと店内のシックさがマッチしていて、そこもなんだかんだお気に入りなのだ。
「あとは、お前が俺の家で作ってくれる料理が塩辛い。なんであんなに醤油入れるわけ?指摘したら直してくれたけど、そのあとそっこー戻ったよな。俺の話聞いてるの?」
 聞いてるわ。あんたの言うとおりに作ったら、次は味が薄いとか文句言ったんだろうが。思い出したら腹が立ってきた。もくもくと口を動かして、怒りを噛み砕いていく。
「なんかさ、可愛くないんだよな。お前。」
 ごくん、と思ったよりも大きな音が自分の中から聞こえてくる。そんなことは今に始まったことではない。私に可愛げがないことも、愛想がないことも。そこが良いんだよな、といって笑ってくれたのはあんたじゃなかったのか。
 私の惰性か、彼の飽き性か。というか、もともと彼は私を対等には見ていなかった。
「心理学的にさ、最初に冷たくすると女って落としやすいらしいぞ。」
 付き合いたてのころ、彼が友達と話しているのを耳にした。ある意味、私は実験動物だったらしい。
「なんとなく、瀬戸って可愛いじゃん。見た目は、まあまあ。愛想がないから浮気の心配もない。大人しそうだし、俺のいうこと聞いてくれそうだしな。」
 ハハハっと彼の大きな笑い声が廊下まで響いてくる。なんとなく、納得もした。だって、彼は目立ちたいような人だもの。私は、彼が好きになるような女とは言えない。ひんやりとした壁にもたれかかると、熱くなった身体を一瞬で冷ましてくれた。
「とにかく、俺とお前は合わないと思っていたわけ。それでも、俺はずっとお前と一緒にいてやったんだよ。」
 一息に言うと、汗をかいたグラスを持って一気に煽る。のどをごくん、と鳴らして、またため息をついた。これで10回目、いやもっとかな。そういえば、私は彼ののどのラインは好きだった、とふと思い出す。
「まあさ、お前を傷つけるつもりはないんだけどさ。」
 思ってもいないくせに。あんたが守りたいのは、プライドだけだろ。言いたい言葉をぐっと飲み込む。……こういうところがダメなのかもしれない。
「つーことで、別れてくれない?」
「それ、食べないの?」
 彼の前に置かれたナポリタンを奪って自分の前に置いて、フォークをさす。
 そんな顔、初めて見たかも。
 馬鹿みたいに口を開けた彼の顔と、真ん中に置かれた鈍く光る鍵。彼の下に置かれたひまわりの絵はいつも通りに、控えめに鮮やかで。

 最後に一つ。この店を教えてくれたことだけは嬉しかったと彼に伝えることにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?