インストールだけじゃ、ものたりなくない? ー森美術館のワールド・クラスルームー

森美術館のワールド・クラスルームを観たときのMETA的な感想を述べてみる。

※森美術館開館20周年記念展ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会 みんなで学ぼう、アートと世界 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/

本テキストはアーティストや展示作品の感想ではない。キュレーションそのものの感想でもない。強いて言えば構造の感想である。

一言で言うと、

「インストールされた。」

そんな感じだ。

・・・
私は展覧会のインストーラーのスタッフとして関わることがある。
インストーラーとは、展示空間にどのようにして作品を搬入し設置するかを考え、作業を実際に行う仕事。

作品を会場にインストールすることで、展覧会ごとに展示空間を様変わりさせることができる。キュレーションに基づき、壁面や作品をレイアウトすることで、鑑賞者の空間認識さえも変化させることができる。その空間自体が、作品を引き立たせ、鑑賞者を魅了する機能となる。
・・・

ワールド・クラスルームでは、展示作品を国語・算数・理科・社会といった各教科に分類した展示だ。

キュレーションのコンテキストから見出された情報と、複数の表現と解説がもたらす情報、その膨大な情報が、私の頭の中に流れ込む。

わかりやすさを求めたテキストは、各アーティストの頭の中を捨象しつつ、他者への伝達に特化したプロンプトを書き起こしているようにみえる。あわせて、学びと啓蒙を促す解説は、だれかの頭の中に"だれかの頭の中"をインストールする装置に見えてくる。

展覧会である以上、個人がその情報を受け取るかどうか、自由に選択できるプラットフォームが構築されているのは承知している。

その上で、
思ったことを書いてみる。

①脱物質化していくアートに込められた表現が、そもそもアートでなければ、成り立たないのか?ということである。要するに「アートじゃなきゃ(表明)できない、という社会」が前提にある、ということ。

②そのアートが放つ自由な表現を、私たちが自由に受け取って良いという"私の自由"が、私の中で追いついていない、ということ。
私の無意識下にある自由には枠があって、その枠からはみ出すには「それっていいの?」のような、社会や誰かに承認されなければ、その自由に足を踏み出すことができない感じがするのだ。あわせて、数多くの作品とキュレーションの思惑を乗せた情報が、次々とたたみかけるように目に入ってくることで、自分の頭が飽和し処理できない状況になってしまう。とても自分の感覚と思考で咀嚼するなど無理な量だった。

③脱物質化した表現は、アーティストが直接言葉にして伝えるほうが、伝わるのではないか、ということ。
ただし、アーティストが直接言葉で伝えようとしても、そんな話は鑑賞者にとって見知らぬだれかであって、そこまで他人の頭の中を知りたいとは思わないだろうということ。

④展覧会タイトルにある「クラスルーム」のキーワードが眼に止まったとき私は"自分の望んでいる時間とタイミングの選択の自由を奪われた気分になった"こと。
子ども時代を日本で育った場合、同じような経験があるのではないだろうか。

・・・

"自分が子どもの頃に感じていたモヤモヤ"が頭の中に浮かぶ。

それは、自分が欲していた時間とタイミングは、学校の時間割に上書きされていた事実に。

「おなかが減った」(今何か食べたい)
「トイレに行きたい」(今したい)
「呼吸が苦しい」(今休みたい※喘息持ちだった)
「お尻がモゾモゾする」(椅子から立ちたい)
「今は聞きたくない」(教室から出て行きたい)

これらは、

「いけないこと」であって、
「我慢すべきこと」であって、
「そういうあなたではダメだ」
そうなるように、世間は私を変えようとしていた。

そういう考えを持った"だれかの頭の中"を、
私の頭の中に
「インストールされた」

この枷のようなものは、
今も私の中で存在している。

・・・

作品を目にする。
キャプション読む。

展覧会、ワールド・クラスルームの空間にいると、
どこか、私に何らかのテキストをインストールしようとしている匂いを漂わせていた。
それは、強制的ではないが暗黙を匂わす毒親を必死に観察し、その不条理を理解しようともがいていた子ども時代のように、モヤモヤが渦巻いていた。

【結論】

私にとってのアートって、私の感情の肯定への入り口であって、そこに至るための思考だと思う。

※私の感情や情動の構造について書いたものは以下。https://note.com/mishi_aki/n/n462d330edd5d

展覧会を通して、私の頭の中へだれかの思考(キュレーション)をインストールをされることは、どこか怖さにつながると思ってしまった。

あわせて、子ども時代に自由を自分で受け入れるマインドを養っていなければ、アートを啓蒙する行為は、ただの権威の構築でしかないのでは、とも思った。

そして、モヤモヤの感情が残った。
受験勉強の詰め込みのように、もしくは、毒親といるような感覚、あえて、私の判断や選択、本質を考える時間を与えさせない一方通行な感じがして、胸焼けが残った。

率直に言えば、疲れた。

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