福地村事件見た、日本死ね。
福地村事件は明確に噛みついてくる毒牙、いや毒画である。
保育園入れなかったどころではない。どす黒い感情に支配される感覚。人に潜む魔のようなものが集団というミノに隠され放出される。
「朝鮮人は害悪」という新聞が報じた「標識」をもとにアクセルを踏み続ける大衆。それに逆らえない主人公たち。
暴動は暴動を呼び、平気で10数人が死ぬ。真っ向の差別感情という血の海に屍が浮き輪のように浮かぶ。
アカデミズムの大敗
村長(理事長?)はあの時代に高い金を出して大学に行った知識人である。
デモクラシーの考えを学び、国民運動とは暴力によってなすべきものではない。と結論付けた。
ところが、村民の暴動は一切止められなかった。一人としてである。
それでも言の葉を紡げ
では、アカデミズムとは、言葉とは、結局暴力に屈してしまうのか。弁護士会が10年努力した統一教会へのバッシングがたった1つの安倍晋三首相への暴力によって達成されてしまったのは記憶に新しい。
明確に反駁したい。なぜなら福地村事件が我々のもとに届いたのは他でもない言葉、文による新聞記事だからである。
言の葉は微弱で、面倒で、冗長で、遅効だが、誰もが諦めてはいけない。人は生まれた瞬間に表現者であり、教育者だからだ。暴力に訴えて人を殴るのであれば、それは獣である。
総評
今まで見た映画で一番の衝撃だった、差別感情や歴史、悲劇、胸糞等を見たかったらぜひ見てほしい。劇薬である。
これに、目を瞑ることは許されない
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