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『釣り』| 短編

 俺の叔父さんは海釣りが趣味だった。俺が帰省した時ですら、いつも決まって家を留守にして、日本中の海に行っているものだった。

 対する俺は、インドア派もこれ以上ないほどのインドア派で、夏場の外出なんてありえなかった。これは三十超えた今だって変わっていない。動画見てゲームして、タイムラインを巡回して、また動画見るの繰り返し。こんな生活を続けていたもんだから、いつの間にかここまで肥えてしまったんだとも思う。叔父さんとは似ても似つかない、ぶよぶよな腹と腕周り。

 ただこんな俺でも、学生の頃はそれなりにモテていた。今よりは運動のできるデブだった。通学のチャリンコで毎日の運動習慣が着いていたからだとは思う。なにせ彼女がいた。クラスじゃ地味目な子だったけど女子からの支持が厚くて、なんでか俺に告ってきた。勿論嬉しかったから、俺はOKを出した。


 高二の夏、彼女と上手くいってなかった俺は、帰省先の地元でいつもと違うことがしたくなった。婆ちゃんに聞くと、叔父さんが明日も海に行くらしく、俺は着いていくことにした。

「釣りに行くのか。お前が」

目をまん丸にした親父が、半笑いで問いかける。

「やめとけやめとけ。倒れるぞ」


 翌朝。俺は寝ぼけたまま、パジャマを着替えた。対する叔父さんは、俺が起きた頃には既に車のエンジンをかけて、クーラーをきかせ始めていた。身支度も終わり、俺が車に乗り込むと、中はひんやり快適だった。が、叔父さんの白いワゴンは、砂を被っているのと年季が入っているのとで、お世辞にも綺麗とは言えなかったし、なんか変な匂いだってした。

「買い替えれば」

俺の提案にうんともすんともいわず、叔父さんは車を走らせた。しかし、海に向かうはずの車は何故か山へと走り出し、狭くて急な坂道を登り出す。俺は不思議に思って、叔父さんに行き先を確認しようとしたが、叔父さんの低く長い痰の絡んだ咳が、それを許さない雰囲気を醸し出す。また叔父さんの目は据わっていて、なんならそこだけ見る限りは居眠り運転しているようにも見える。


 次に車が止まったのは案の定山の中、それも海が見えないほどの小路の奥深くだった。そこでは虫が酷くとんでいて、四方からのセミの声がうるさくて、かと言って木々から離れると、全身からの汗が止まらない。否、この汗は怖くて出ているのかもしれない。

叔父さんは俺の震えにも目を留めず、釣具を持ったまま、ひょいひょい草を掻き分ける。やっぱり怖かったが、でもふと空気が妙に涼しくなったのを感じて、俺の気持ちも自ずと和らぐ。


 川だ。幅7-10mくらいの、深さは膝元くらいのせせらぎが、急に眼前に現れた。叔父さんはその流れの淵にまで足をすすめると、釣具を出すわけでもなく、ただ腰を下ろして汗を拭いた。

「ここ、魚いるの?」

「……魚はいない」

「じゃあなに」

「かっぱ」

「は?」

「ウソ、人魚」

「いやいやいや」

「人魚はほんとだよ」

目が据わっているというのは語弊がある表現だったと、俺はその時気づいた。叔父さんの目はただただ真っ直ぐひたむきで、どうやら川中のそれを捜しているようだった。

「五年前の夏、急に出てきやがったんだ」

「人魚が?」

「ああ。それで『海の魚を食わせてくれたら、お前を夫に貰ってやる』だと」

叔父さんの離婚は、俺が小学生か幼稚園の頃だったか。もう覚えていないけれど、なんとなくそれ以来、叔父さんの家での肩身は狭くなっていった気がする。

「まさか、それっきり?」

「ああ」

「熱中症かなんかの、幻覚だろ。蜃気楼とか」

俺のその言葉に、叔父さんはだんまりを決め込んだ。そうして上流と下流を交互に見渡してから、

「だといいんだけどな」

と笑った。


 白のワゴンは、2人を乗せて海を目指した。

「これ、綺麗だろ」

叔父さんは、バックミラーに吊られたギターピックのようなものを指差した。

「彼女の鱗なんだよ」

「……まさかあ」

「最初の冬に、様子を見に行ったんだ。そうしたら凍った川の上、雪の中にこいつがあった。あの年は妙に吹雪いたから、きっとどこかに避難したんだろう」

「だったら、川の中にあるんじゃないの。人魚なんだろ」

「......確かにな」

遠くの波は幅広く、先程のせせらぎより壮大に見える。

「もし幻覚だったとしても、それでいいんだ」

「どうして」

「別にいいだろ」


 海は穏やかで、川淵よりも尚涼しく感じた。俺は流石に気疲れして、ワゴンから叔父さんを眺めるだけにした。叔父さんは釣具を抱えたまま、ズイズイ淵まで進んでいく。その目はエネルギッシュに燃えているけれど、獲物を待つ後ろ姿は、どこかで見た墨絵のように穏やかだ。

俺はスマホで、この沖で取れる魚を調べ始めた。しかし出てくるのはカタカナばかりで、写真が欲しい。チヌ、クロ、メバル、アジ……ああなんだ、イカとかタコまでとれるんだ。そりゃそうか、海だもんな――。


 「えっ」

 俺は思わず、声に出して驚いた。やけにデカくて、特徴的な魚......にしては鱗がカラフルで美しく、そして部分的に白く、全体的に柔らかそうな何かが見えた気がした。慌ててページを遡り、上にスクロールして、被写体の正体を確認する。

それは、ハヤブサだった。ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ族の鳥類。メスの体躯は46-51cmにもなり、捕食時はこの写真のように、獲物である魚を水面にたたきつけて捕らえたりもする。頭の毛色が黒いのもあって、どうやら俺は人に空目したらしい。


 俺はスマホを片手に、身を捻って例の鱗を確認した。鱗と言われたから鱗に思えたけれど、こう見るとそれが羽のようにも思えてくる。しかし羽にしては硬く、そしてやっぱり水を弾く素材だ。

「気になるのか?」

「おお、ああ、うん」

叔父さんがクーラーボックスを持って、俺の後ろに立っていた。

「明日も来るか」

「あー…」

「いや、いいよいいよ」

朝早いからなぁ、と頭の汗を拭きながら、叔父さんは助手席のドアを開ける。そこに座らされるクーラーボックスは、このワゴン車に乗せられるのが不愉快そうなくらいに、混じり気ない白一色の、新品そのものだ。

「いつでも気が向いたらでいい」

「そんなに好きなの?」

「落ち着く場所なんだ」

そうじゃなくてとも言えないまま、波音と日照の中で、白ワゴンは走り出す。窓から入り込む潮の香りは、今でも無性に思い出される。


 次の日の朝、結局俺は寝坊した。またその次の日も次の日も、結局俺は寝坊をし続けた。そしてそのまま一年五年十年と月日が流れて、今に至る。あれ以来、俺が叔父さんと釣りに出かけることはなかった。人魚のこと、鱗のこと、ハヤブサのことも、話題にすらしなかった。ただなんとなく、忘れていた。

令和四年の夏は、コロナが終わるのか終わらないのかはっきりしないまま、天気も晴れか雨かはっきりしないままの、あやふやな夏になりそうだ。特別することもないし、今日も明日もこの調子で、去年と変わらず、ごろごろすることになるんだろう。

そんなある日、俺は実家からの一報をきっかけに、この人魚の話を思い出すことになる。それは、叔父さんが再婚すると言う知らせだ。お相手は何周りも年下の、いいところのお嬢さん。写真も見たが、目が大きく、おでこが綺麗で、髪は長く黒く、少しパーマがかかっていて、とても華奢な、絵に描いたような美女だった。例えるならばまさしくそう......人魚姫。


 久しぶりの帰省に、俺の身体はボロボロだった。飛行機から降りようもんなら汗が滝のように流れ出し、ニ歩三歩で立ちくらむ。こっちはどうしてこんなに蒸し暑いんだ。

「彼女もそう言ってたよ」

俺に迎えの車を寄越してくれたのは、おじさんだった。白ワゴンは相変わらず汚くて、変な匂いがする。そして、フロントガラス前の例の鱗が、爛々と輝いている。

「馴れ初めとか聞いていいの」

「秋田の旅館の、若女将さんだよ」

「だいぶ年下だよね」

「兄貴からは、遺産目当てじゃないかって言われたよ」

「俺も親父に賛成だよ、若すぎる」

「でもね、歌が上手いんだ。俺の世代の歌をよく知ってるんだよ」

「計算高いんだよ。そうじゃなきゃ」

「そうじゃなきゃ?」

例の鱗に目が留まる。

「......まさか、人魚だって言うのか」

叔父さんが、やけに優しい声音で問い詰める。俺は言葉が見つからず、ただシートによっかかって、反対車線に目をそらす。


 その沈黙を破ったのは、叔父さんの笑い声だった。

「あーお腹いてえ」

「ええ?」

「まさかお前、まだ信じてたのか」

鱗を指差す叔父さんは、心底おもしろそうにして、一人勝手に引き笑う。

「人魚だって、信じていたのか」

「当たり前だろ!!」

「あー、そっか。そうなんだな、そうかそうか」

笑い声は徐々に萎んでいく。そうして叔父さんは、信号を待つ隙に、愛おしそうに鱗を撫でながら、

「ありがとうな」

「なにがだよ」

「あの日のお前がいなかったら、きっとこうはなっていなかった」

「なんだよ、人を小馬鹿にしておいて」

「馬鹿になんかしてないよ」

「でも嘘ついただろ?」

「嘘か」

とにんまり笑い、そして、

「本当だよ」

と続けた。


 結局、それ以上の話はなかった。俺が問い詰めても、叔父さんは妙に話を逸らすばかりだった。然し彼女は違った。自己紹介をする俺に、彼女は「あなたが例の」と口を隠して驚いた。

「叔父さんからよく聞きました。可愛い甥がいるんだって」

「はあ」

「人魚の話、信じてくださったんでしょう?」

「え? まあはい……まさか本当なんですか」

「え!? いや、いやいや」

照れくさそうに笑う、色素の薄い眼。

「いやいや……本当」

「えっ!?」

「違う、ごめんなさい。本当に、聞いていた通りの人なんだなって」

「何がですか」

「本当に、素敵な方なんですね」


 翌日、俺は関東に戻った。蒸し暑かったのもあって、なんだか狐に誑かされたかのような、そんな里帰りだった。そのあやふやも、こちらの曖昧な夏じゃ相も変わらず解決しない。果たして叔父さんが彼女を釣ったのか、彼女が叔父さんを釣ったのか――なんてくだらないことを考えながら、俺はモンワリした部屋の空気を一新すべく、窓を開ける。

 すると、慣れない雨の香りが鼻を包むのを感じた。どうやら昨夜は大雨だったらしく、その残り香であるようだ。そして俺は、それと同時に、あの日の香りを思い出す。また広大な海の情景と、叔父さんのたくましい背中を思い出す。

突き抜けた笑いが込み上げた。やっと思い出した。そうだ。


 俺が小学四年生の頃、叔父さんは家に篭もりがちだった。ある日俺はどうしても海が見たくなって、親父に懇願して、そうしたら面倒がった親父が、叔父さんに俺の子守りを押し付けた。俺があまりに煩いもんだから、叔父さんもなくなく重たい腰を上げて、白ワゴンを出してくれた。

どうやら叔父さんは、海まで行くのが面倒だったらしく、近場の川――例の川で誤魔化そうとしていた。しかし前日が雨だったので地面がぬかるみ、海に向かうほかなかった。

広くて青い海を見て、当時の俺はもうそれはそれは喜んだ。だが、叔父さんはそうでもなかった。だから俺がせっついた。

「そんなんだと、デブになるよ!」

「そうかもな」

「いつもそうなの?」

「いいや、釣りが趣味だよ」

「じゃあ釣れよ!」

「なんでよ」

「もったいないじゃん、こんな綺麗な海」

叔父さんは舌打ちをして、遠くを見つめた。

「ここは、だいたい釣ったからさあ」

「人魚とかいるかもよ!!」

「人魚だ?」

「めっちゃ綺麗な女の人がつれるかもしれない!」

叔父さんは苦しそうに笑って、

「釣ってどうすんの」

「結婚しなよ」

今思い返すと、とても酷いことを言っている。

「やだよ」

「じゃあ俺がつるよ?」

「つれないよ」

「叔父さんに釣れなくても、俺が先につるもん!で、俺が先に結婚するから」

「いやいやいや」

「俺の方が叔父さんより絶対格好いいもん!」

そこで、叔父さんの目付きが変わったんだ。

「じゃあ、約束な」

「なにが?」

叔父さんは数歩前に歩いてから、海を眺める。俺はそのたくましい背中を、後ろから見る。雨と潮の香りが混ざる。

「お前よりも先に、可愛いお嫁さんと結婚してやるよ」


 つまるところ叔父さんは、俺が覚えていないのをいいことに、俺を弄び続けていたんだ。吊られた鱗もきっと何かの偽物で、全てが盛大なドッキリの、嘘で練り上げられた“釣り”。うざったいことに、釣られたのは俺の方だったんだ。

だけれど、不思議と嫌な気持ちにもなりきれなかった。なんなら、最初に釣られたのは叔父さんだ。俺が外に連れ出したんだし、俺のふっかけた言葉に釣られて、あんな約束をする羽目になった。それであんなに幸せそうに、あんなに格好良く、歳を取った。

俺はそんな考えを巡らしつつ、自分の体を眺める。デブになるよ、だなんて偉そうにせっついて喧嘩をふっかけたのは、どこのどいつだったろうか。

 なんとなく、いつまでもゴロゴロしているわけにもいかなさそうな気がした。今年の夏は、久しぶりに何かしようかなと――スマホを開くよりも早く、俺は家のドアを開けて、散歩に出かける。歩きながら、夏の計画を考える。まずは手始めに、釣りなんてしてみようか。


私は人魚いると思ってる

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