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電車で15分の距離に、お気に入りの場所を作る。暮らしから少しの距離を置くこと。

なんだかひとりになりたいなぁとか、元気を出したいなぁと思うときに、私はよく琵琶湖に行く。暮らしている京都から、電車でちょうど15分。膳所駅を降りて10分ほど歩けば、穏やかにただよう琵琶湖の空気に包まれる。

なぜか分からないのだけど、私は琵琶湖を見るたびにいつも救われたような気分になる。空と湖の境界があいまいな青さがそう思わせるのか、ゆらゆらと揺らめく水面の穏やかさに惹かれるのか。よく分からない。けれど、琵琶湖のおおらかさを感じながら散歩をしていると、琵琶湖に来る前よりもいくぶん心が軽やかになっている感覚に陥る。

この感覚は、大好きな京都ではあまり感じられないものかもしれない。例えば、家から散歩してお気に入りのカフェに行ったとしても、このような救われた感覚になることはめったにない。距離が近すぎるのだ。おまけに知り合いに会ったり、顔なじみになったカフェに行ったりすることで気を遣うことを考えると、完全に救われる、という感覚にはならない。

その点、琵琶湖と私の距離感は、ちょうどいい。京都から大津にJRで行くときには、2つか3つほどの山を越える。トンネルをくぐり、電車の中からうっすらと琵琶湖が見えてきたとき、私はなぜだかホッとするのだ。

電車に乗る、知り合いがいない場所に行く、暮らしから距離を置く。このように、「少し距離があるから」こそ救われることがある。自分の家が暮らしの中心だとして、散歩をしたところでせいぜい半径3キロ圏内。自転車で出かけたとしてもやっぱり近くて、逆に電車で15分以上かかる場所は、気軽に訪れることはできない。だから、「電車で15分の距離に、お気に入りの場所を作る」ことは、私が私を救うために必要なことなのかもしれない。

そんなことを考えながら、ふらふらと琵琶湖沿いを歩く。4月10日、琵琶湖沿いに咲く桜は満開だった。桜の木越しに青く揺らめく琵琶湖を眺める。なんて心地のいい景色だろうか、と心地よさに浸る。そういえば、秋もこの景色に救われていた。同じ景色を季節を変えてみてみると、ささいな幸せに気づくことができる。季節の移ろいを感じられる。この季節の移ろいを感じられてまた、私は救われた気分になるのだ。

暮らしが好きな私でも、たまに距離を置きたくなる。距離を置きたくなることは悪いことではないから、暮らしのほかにも私を安心させられる場所を作っておくのは大切だ。そんな場所が、私にとっては琵琶湖。

青く揺らめく水面を眺めて、帰らないといけないことを少し名残惜しく感じながらも、電車に乗ってまた私だけの暮らしへと戻っていく。

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