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北欧の先住民「サーミ」の人々に会いに、最北端までサバイバルした話

私がサーミに興味を持ったのは、「朝鮮学校と何がちがうんだろう」というサーミの教育現場に対する興味からだった。

サーミの学校教育について詳しく記述されている分厚い本をメルカリで購入して読んでいたときに、サーミの教育においても、生徒数の減少が課題になっていたり、オンライン化や長期休みの間だけの教育もはじめているという取り組みを知ることになった。

朝鮮学校について知らない人のために書くと、朝鮮学校とは、日本の植民地支配によって日本に連れてこられた在日コリアン1世の人々の子孫たちが今も通う学校である。日本で生きていくが、自分たちのルーツ・言葉を学び、アイデンティティを育むための大切な場所である。私も朝鮮学校の卒業生だ。でも、戦争が終わった直後から全国に広がって続いてきている朝鮮学校は、現在生徒数が減少している地域も多く、休校や閉校となった地域もある。
考えたくないけど、このままだったら、自分が将来子どもを通わせたいと思ったときに、その地域にハッキョはあるのだろうか。そんなこともよぎってしまうような、そんな状況であると思う。

在日コリアンとサーミは、横に並べて簡単に比較できるようなものではない。歴史的背景も全く違うし、政府からどのように対応を受けているのか、いろんなものが全く異なる。だから、学校教育についても、簡単に比較して、これが悪い、これが良いと、これもまた簡単に比べれるようなものではない。

でも、「自分たちのルーツ、言葉、文化、アイデンティティを守るため」という根本は変わらないし、それを守ろうとする人がいることは変わらない。

だから私はスウェーデンに留学している間にサーミの人に会いに行きたかったし、どうやって教育を守っているのか、サーミの人々の生活、そしてサーミの学校教育を自分の目で直接見てみたかった。

だから私は会いにいくことにした。

それがこの旅の始まり。




サーミってだれ?

そもそもサーミって誰?
冒頭からそんな大事なことをすっ飛ばして、朝鮮学校やらサーミの教育について書き連ねてしまいました。

サーミの人々について聞いたことはなくても、日本に住んでいると、アイヌの人々については聞いたことがあると思う。
サーミは北欧地域に住む先住民だ。
ラップランド地方、いわゆるノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北部とロシアのコラ半島でトナカイを飼い暮らし、フィンランド語に近い独自の言語を持つ先住民族である。しかし、北欧諸国による制圧と同化政策が続きながら、今ではサーミ語を話せる人は減ってきている。

このような現状の中で、サーミのことば、伝統、文化、アイデンティティを受け継いでいくために、教育の発展をはじめとする様々な取り組みが行われている。

「サーミ 教育」みたいな感じでネットで調べていたときに、サーミの教育を改革していくためのプロジェクトみたいなものが出てきた。

サーミの言語や文化を伝える教育を幼少期にどのように行っていくべきかという内容で、そこにひとりの研究者の人の名前があった。試しにその名前をFBで検索してみると、その人の名前が出てきた。いかにも使ってなさそうなFBアカウントだったけど(笑)、とりあえずためしにメッセージを送ってみることにした。

「自分は日本からの留学生で、こんなバックグラウンドを持っていて、サーミの教育に関心があります。このプロジェクトについてもっと知りたいです」みたいな感じで、突然のメッセ―ジのくせにありえないくらいの長文を送り付けたと思う。笑

そこからたしか数週間ぐらい返信がこなくて、だめかなぁと思っていたら、まさかの返信がきて、この教育プロジェクトに関する会議をノルウェーで3月にやるから、招待するっていう内容だったのね。そりゃもう、行くにきまってるでしょって感じで、すぐに行きますって返事した。
このときに返事をくれて、現地でもとてもお世話になったのが、ヨハンさん。

忙しいヨハンさんを捕まえてゲットしたツーショット

いざ、カウトケイノへ

ノルウェーの北部、公共交通機関がほぼ皆無の地域に、カウトケイノという場所がある。サーミの人が3000人くらい住んでいる場所で、そりゃもう、雪しかない世界のようで、この世の果てみたいに真っ白で、見たことも、感じたこともないような景色が広がっていた。
そのカウトケイノに、「サーミ大学」があって、この会議はそこで行われた。

カウトケイノのの空

そもそも、この場所にたどり着いたことさえも、まず奇跡だった。

私が住んでいるヨーテボリから、スウェーデン北部のキルナまで、飛行機で約2時間、そのキルナからカウトケイノまでは、公共交通機関がなかった。オスロに入ってしまって、そこからカウトケイノ付近まで飛行機っていう手段もあったんだけど、そのフライトが高すぎて、金欠だった私には到底無理な話だった。

この会議はオンライン対応もしていたから、最終的に本当に無理ならオンライン参加も考えた。知らない土地だし、特に真冬で凍るような寒さであるノルウェーだし、英語も通じるか分からない場所でヒッチハイクをするのは無謀であると思った。

でもヨハンさんはなんとか私が来れる方法を考えてくれた。私だって、こんなに忙しい中やり取りしてくれたヨハンさんに対面で会いたかった。
とりあえず現地で自分がなんとかするからキルナまで飛んできなさい、ということで、どうなるか分からないままとりあえず飛んでいくことになった。

実は留学中2度目のキルナ

結局、キルナから、ヨハンさんの故郷であるカレスアンドというところまでバスに乗り、そこで一泊して、翌朝そこからヨハンさんに車に乗せてもらうことになった。このカレスアンドも中々の僻地で、泊まれる場所なんてあるのか謎すぎたけど、なんとか小さな宿を見つけることができた。

次の日、とうとうヨハンさんと初対面をして、カウトケイノまで約2時間くらい、雪しかない道のドライブに同行した。車がないと、本当にこんなとこ来れないな、と身をもって実感した。帰りに乗せてくれる人は見つかっていなかったけど、3日間の会議で仲間たちにきいて、なんとかして探してあげるということだった。(どれだけ優しいのか)


ケチってとったエアビは雪に埋もれていた
これぞ雪のベッド

ヨハンさんをはじめとする100程の会議の参加者の皆さんは、サーミ大学の付近のホテルに宿泊していたみたいだったけど、自分はケチってエアビをとったら、かなり市内から離れていて、どうしてこんなところに取ったんだとヨハンさんに笑われた。笑 (これが最終的に、オーロラをはっきりと見ることができる経験に繋がったんだけどね)

私のエアビまでヨハンさんが車で送ってくれたときに、あまりにも雪が深くてタイヤがはまってしまって抜け出せなくなってしまったのね。

それでエアビの付近に住んでる人たち(みんなサーミ)が助けてくれたんだけど、なんと、ヨハンさんの先祖とその人たちの先祖が繋がっていたらしく(苗字とかから確信したらしい)、めちゃめちゃ嬉しそうに話していた。
ヨハンさんいわく、サーミにとって、共通の祖先を見つけることはすごく意味があることだそう。

私のエアビの立地のせいでタイヤがはまってしまって申し訳なかったけど、そんな祖先を見つけることにちょっと貢献できたなら、ちょっと心が軽くなった。

そんなこんなで無事カウトケイノまでたどりついて、私の3日間のフィールドワークが始まった。

スウェーデンとフィンランドの国境付近

ちなみに全然関係ないけど、ヨハンさんの車に乗せてもらう前日の夜に滞在していたカレスアンドは、スウェーデンとフィンランドのちょうど国境付近に位置していたのね。

これが、本当になんか、心がわくわくして、ぞくぞくして、不思議で、神秘的な経験だった。大きな橋があって、端から端まで渡るとフィンランドからスウェーデンに帰ってこれるっていう場所だったんだけど、走って国を越えるってめちゃ不思議で。いや実は、東南アジアでも国境を足で越える経験はしたことがあったんだけど、このときは真夜中で、人っ子一人いなくて、なんの警備員もいなくて、車もなくて、シーーーンとしていて、ちょっとでも叫べば響いてしまうような、すっごい神秘的な空間だったの。

国と国の分かれ目

3日間の会議に潜入

会議は2023年3月21日〜23日の3日間にかけて、サーミ大学で行われた。普段生活しているヨーテボリでは、一日に何度もアジア人を見かけるのに、ここサーミ大学では、アジア人を見かけることは一度もなかった。
アジア人がいないことを強調したいのではなくて、本当にこの会議はサーミコミュニティ独自のもので、きっと、サーミの人たちから見えている私は不思議な存在だったかもしれない。

ちなみにサーミ大学には200人くらいの学生がいて、サーミの先生になるための、免許をとることができる。カウトケイノはかなりの僻地だから、ここに住んでいない学生もいて、オンラインのプログラムや、期間限定のプログラムで勉強している人もいるらしい。


サーミ大学


サーミ語にもいろんな種類がある
スウェーデンやノルウェーなど、多くの地域からの参加者が集まった

この会議の趣旨としては、5年にかけて行われてきたSAMOSプロジェクトの実践報告が主となっていて、研究者や教員からの報告が続いた。このプロジェクトは、サーミの独立した教育システムを確立することを目標にしていて、様々な幼稚園で新しい教育的取り組みが行われてきた。サーミは北欧諸国の中でも独立したサーミ議会を持っていて、そこから今回のプロジェクトにも資金が出ているらしい。

SAMOSプロジェクト


サーミの教育学について(Sami pedagogy)

3日間通して強調されていたことは、「サーミ語を教える教育」ではなく、
「サーミの教育学によって、独立した方法で子どもたちを育てる必要がある。サーミの考え方を使って、その教育を強化していく」ということだった。

ノルウェーのやり方からサーミのやり方へ。
サーミのシンボルを作る。
サーミの哲学に戻ることが大切、ヨーロッパのやり方に染まらないように。

そんなひとつひとつのことばから、強い意志みたいなものを感じた。
どれだけ多くのものを奪われても、無くならないものたちは、こういう、繋いでいこうとする強い意志たちが存在するから、ずっと無くならないんだと思う。

でも今、ほとんどのサーミの子どもはサーミの幼稚園に通っていない。もっと若いサーミの学生が必要で、もっと雇用するべきであり、サーミの教育に関心を持つ人を増やしていくべきであると強調されていた。

実際に幼稚園でどんな取り組みが行われたのか?

ノルウェーのAltaにある幼稚園では、子どもがテントで自分の力で火をおこしたりできるように練習したり、(先生は安全のために近くにいるだけ)自分でナイフを持ってムースの肉を切ったり。トナカイのいる場所へ連れて行ったり。サーミの伝統歌謡であるヨイクを歌うことで、子どもたちを惹きつけたり。とにかく、自然の中で、サーミの大切にしている環境でこどもを育てることが大事にされる。そしてもちろん、サーミ語もだ。秋にきて、そのときは喋れなかったひとりの男の子がいまはサーミ語を話しているらしい。

サーミ学校ももちろんあって、そこでは就学児が学べる環境が整っているけど、あえてそこから幼児教育にも目を向けるって、すごい取り組みだなって思う。でも朝鮮学校の幼稚園に通っていた自分の視点からみると、幼稚園から自分の母国語を学べるって貴重な経験だったから、そこに目を付けるのはすごく大事なことだとも思う。

サーミ語を話せるにも関わらず、スウェーデン語やフィンランド語を話す若い人もいて、それに向かって、「私たちはサーミ語を話すべきだ!」という、高齢者たちの存在がある。

日本にいる在日コリアンもそうだ。朝鮮学校にいかない子どもが増えてきているし、朝鮮語を話せない子のほうが多いと思う。でも、1世2世、そして3世4世へと受け継がれてきているアイデンティティを守ろうとする気持ちは誰もが持っている。

ネットワークを引き続き大事にして、言語と文化を守り、将来の世代につなげていきたいというふうに、この会議は締めくくられた。

私を助けてくれたヨハンさんは、このプロジェクトのリーダーだったから、基本的に司会の立場で会議を進行していたんだけど、物静かでおとなしそうなのに、ずっとずっと、サーミのものを守るって、強い口調で話していたのが印象に残った。自分たちの文化を守るんだっていう意志がある人が集まって、こうやってそれを共有する場があること自体が、未来に向けて強い結束力を持ち続けていける要因になるんだと思う。

伝統衣装を身にまとう人々

サーミの打ち上げに紛れ込んだ

会議のおわり、ヨハンさんがテントで打ち上げをするからおいでよと誘ってくれた。テントの中は、本当に凍るくらい、めちゃ寒かった。

Probably the coolest kitchen in the world


サーミの人たちだけの打ち上げに紛れ込ませてもらって、みんなこちらをちらちらを見ているけど、特に話しかけてくれることもなく、無視することもなくって感じだった。

料理もおいしかったし、ヨイクを歌い始めることとか、みんなお互いの名前を知ってて、知らなくても紹介し合ったりとか、すごく、在日コリアンの同胞社会みたいな感じがした。伝統衣装を着ている姿も、見せる用ではなくて、本当にそれを日常として着ていて、ヨイクも、本当にそれがみんなの日常の中にあって、本当にそこに存在している「コミュニティ」という感じがした。

そこに生活がある。論文の中で読む「サーミ」という「人々」ではない。そこに当たり前に生活がある。同じようにそこで生活を営んでいる人々である。なんかでも、なんか興味もって話しかけてくれるかなぁっていう淡い期待もあったんだけど、この旅の中で一度も「Where are you from?」ってきかれることはなかった。多分、ヨーテボリの留学生活だと、そうやって聞かれるのは当たり前で、聞かれて聞き返すのが当たり前だから、その状況にとても慣れていたんだと思う。
だから、誰からも、そこまで大きくは注目されず、来た理由とかも聞かれないことに対して、すこしの寂しさというか期待外れみたいのもあったけど、でも当たり前だよね。

なんかこう、せっかく来たからもっとサーミの人たちの輪に交じって会話にも入り込みたいっていう希望もあったけど、きっと久々かもしれないサーミの人たちの再会の宴の日に、こんなやつが割り込んでいくのは失礼なのではないかっていう、まあ話しかけれないことに対する理由付けではあるけど、でもすこし、コミュニティに入っていくにつれての「礼儀」や「わきまえ」みたいのも考えた。

でもそんな中でヨハンさんはずっとこちらを気にかけてくれて、あいさつをサーミ語じゃなくて英語でするように促してくれたりとか、本当に細かなところまでも気遣いをしてくれた。そのおかげで、近くにいた若いサーミの人と話したりとか、デンマークから来ていた学生と話したりとか、その会話の中からもいろんな気づきを得ることができた。

コミュニティの宴会っていいなあ。むしろ会議より、こうやってコミュニティを結び付ける宴会とかの場って、めっちゃ貴重なんじゃないかって思う。
在日コリアンの焼肉会だってそうだもんな。


トナカイの皮でできた毛布


トナカイのお肉と、その他のなにか
トナカイに追いかけられた


その日の夜にみたオーロラ

おわりに

スウェーデンの最北端を越えてさらにその北、サーミの人々が住むカウトケイノという都市まで旅に出た。

ネットでたまたま見つけたJohanさんが、丁寧に返事をくれたこと。

たまたま3月に、5年間もの教育プロジェクトの集大成の報告会議があったこと。 交通機関がほぼない場所だけど、自分の車に乗せてくれるということ。 帰りはどうなるか分からないけど、3日間の会議で、車に乗せてくれる人を一緒に探してくれるということ。

いろんな偶然と、運と、人々の優しさと、勇気と、いろんなものが重なって、この旅に行くことができた。


やっぱり、”その場所”に行って、人々と触れること以上に価値のあるものはない。 

論文で読んでいた”サーミの人々”が、目の前に100人以上いて、普通に生活していて、たくさん助けてくれて、車の中には現代のサーミpopみたいのが流れていて、一緒にご飯を食べて、そんなコミュニティに混じって、宴会にも紛れこんで、”いつもの日常”に混ぜてもらって。

本当にそこで暮らしている人がいる。
歌っているヨイクは見せ物のためじゃない。
着ている服は観光客に見せるためじゃない。

自分たちのためのものなんだ。

そう感じながら、論文や本で読んでいた以上に、自分たちのルーツと言葉、文化を守ろうとする、ものすごく強い団結力と、意志、そんなものを感じまくった3日間だった。

どうにかしてでも現地までいかないと後悔しそうと思ったのが、こんなにも丁寧で優しく接してくれたヨハンさんに絶対会いたいっていう気持ちだった。人に会いたいという気持ちで、旅に出て、そこでまたいろんな人に出会って、またその人たちに会いに戻ってきたい、そう締めくくられた旅だった。

ルーツを守るために活動し続ける人がいる以上、絶対に言葉と文化は無くならない

そのために教育プロジェクトを動かして、幼稚園の教育システムまで細かく確立していく運動は、本当に貴重だ。

世界の果てみたいな、雪景色に囲まれた異世界みたいなカウトケイノが、本当に大好きになった。キャビンの周りは何もなくて、ほぼ誰も住んでいなくて、何も聞こえなくて、空には星空とオーロラだけがくっきりとみえる。 本当に、異世界みたいだった。

行くきっかけも、理由も、行き方も、自分で計画して、そこに人々の親切と優しさと運がついてきて、成り立たせたという自負。

いままでのどんな旅よりも、価値あるものでした。

おわり。


サーミの旗


サーミの旗と共に

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