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就職氷河期という氷河を彷徨った自分 改訂1



1995年


1995年17歳で統合失調症を発症。
当時、山一證券という大手証券会社が倒産したのをよく覚えています。
そして17歳の自分は自分が働くイメージが全く湧きませんでした。だから抑うつ状態になり、自殺企図もしました。

1998年

その後二浪して関西の夜間大学に入学。世間知らずな自分はマスコミに興味を持ち、マスコミ志望をしていた。

2001年

しかし就職が近づく3回生の秋、再び抑うつ状態。実家に帰省。学年末試験は不受験。休学。入院。
うつ状態での入院は3ヶ月程度で終わりました。入院前に処方された抗鬱剤の副作用で排尿が止まり、高熱が出て緊急入院でした。自分は死んだと思いました。目が覚めると病院の白い天井、天国は白いんだと思いました。隣に母親が居ることに驚き、母親も死んだのかと思い
「おふくろも死んだの?」
と思わず聞いてしまいました。
「目が覚めましたか」と入ってきた看護師の前で
「勝手に殺さんで」
と母親はおどけていました。
休学が決定して、退院した後にやることがない自分。何かやりたいことはないのかと両親に問い詰められ、写真とバイクが浮かんだ。写真は現像代がかかりすぎるので却下された。そしてバイクの免許を取りに行った。免許を取る過程で向いていないということは重々分かった。しかし免許は取れた。このころからだんだんハイになっていった。兄貴が仕事に行っている間にやることがなく自分を持て余していたので、衝動的に兄貴に無断で兄貴のバイクを運転した。そういう時は悪いことが起こるもので、帰り道でコケた。傷もつきました。兄貴は激怒。父親も激怒。学校や会社ではありませんが無期限の謹慎処分です。病院以外外出禁止。もしかしたらこの時も抗うつ剤を飲んでいたかもしれないのでその反作用でハイになったかもしれません。
写真もダメ、バイクもダメとなった自分に浮かんだのはサーフィンでした。
というのも高校も海の近くだったので高校をさぼって海を見てました。
高校の時に入院、通院していた病院も海の近くで、よく帰りに海を見たいと両親にお願いしていました。そんなある日、大切なバイクをコカされて激怒した兄が
「そんなに海が好きだったらサーフィンやってみたらいいじゃん」
と声をかけてくれました。
しかし条件としてサーフィンはバイトをして自分の金でやること。
バイト先までの通勤手段は兄貴の車を借りていいという寛大な兄。
そんなこんなでバイト探しをして、ほどなくリゾートホテルのプールの監視員に採用された。バイト期間はいわゆる夏休み。7月~9月。バイトでもいろいろあったがバイトの最終日。これからサーフィン三昧だ「やほー」と兄貴の車をぶっ飛ばし、自損事故。。。水門に激突。頭部をフロントガラスに強打。サングラスをかけてなかったら失明してたかもしれないと救命医に言われるくらい、ガラスの粉がサングラスにびっちりついていたそうだ。
この辺で気づくべきだったが、まだ抗うつ剤を飲んでいたかもしれない。自分に必要なのはむしろテンションを下げる薬だったと思う。
今振り返るとすべての根源は不安だったと思う。
その不安は「これからどうやって生きていこう」という不安だ。
この不安が解消されないと自分の人生は安定しないのだろう。
それは今でも同じかもしれない。

2002年

次の春には復学しましたがハイテンションは続いていました。そして選んだバイトは鳶職。慣れない肉体労働と夜間大学の両立は厳しかったです。
買い物依存症にもなっていたのでカードで毎月何十万という請求書が来ていました。次第に大学にも行かなくなり、自室にこもってチャットをしていたのを覚えています。そして統合失調症が悪化し幻聴が聞こえ、自分で救急車を呼ぶ事態となりました。急遽、地元から親が駆け付け、緊急入院。大学も再休学。そして帰省。自宅療養。世の中には携帯電話があふれパソコンもWindowsが出てきて誰でも簡単にインターネットに接続できる世の中が到来してきました。そんな中、自分はまだ自分の人生で何を為すのか、何を為したいのかわからないままでした。2002年日韓ワールドカップの熱狂とともに自分のハイテンションも限界を突き抜け精神崩壊の一歩手前まで行っていたのではないかと振り返ります。

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和平安楽
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