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Shape of waterーー言葉。通い合う心。

「話し合えば、分かり合える」と、
昔、つきあっていた人が、よく言っていた。


「そういうからには」と、
最初、私もその人のやり方に合わせて、
何でも話し合えば、
より、お互いのことが分かり合えると思っていた。


でも、しまいには、不毛な気持ちになった。


言葉をいくら連ねても、
分かり合えない部分は、絶対的に残り続けた。


互いの違いを理解することは良いことで、
その意味で、正直に話し合うことは、大切。


そのうち、各人の「違い」はなくならないし、
分かり合えない部分は残るという事実を、
しっかり受け止める、尊重することの方が、
関係はうまくいくと思うようになった。




先日観た映画「シェイプ・オブ・ウォーター」。


恥ずかしくなるくらいに、
私好みのファンタジーロマンスものだった。


異形であると同時に、高貴で稀有な生き物。


だれにも理解されがたい、不可解で、孤独な存在。



そして、孤独な女。


彼女は、さえないけれども平凡で平和な日常と、

生活の中のささやかな幸せに生きている。

何かが欠けていると感じながらも。


唖の彼女は、
他の人間とは、手話でコミュニケーションをとる。



同じく、人間の言葉を持たない異形の彼とは、
身振り手振り、しぐさ、表情、音で、
意志疎通をするようになる。


伝えたい気持ち、受け取る気持ち、

通いあう心が、

それを可能にしていた。


二人は、やがて、お互いが唯一無二となる。


異形の生き物と、障害をもつ女性。


「人間社会」の周縁の存在である、疎外されている二人。


そんな二人には、
未来には、結ばれない運命が待ちかまえていた。


最後に、二人が結ばれるのは、監督の観客へのサービス。ファンタジーならではのハッピーエンド。


このエンディング、
二回観て、
二回とも、
なぜか涙が知らぬ間にこぼれていた。


コミュニケーションと、
ディスコミュニケーション。




私たちは沢山の言葉、音で、
当たり前のように話し合い、
呟き、叫び、呼びかけ、答えている。


だけど、そのおしゃべりが、
むなしくなるくらいだった。


話す行為は、
イミのない、
表面上の心の通わないサインのときもある。
社交辞令、型に過ぎないのかもしれない。
そこに心が、本心がこもっていないならば。


本当に語りたいことは、言いたいことは、
ずっと心の内にある。

モノローグ。


口で話していることと、
別のことを心の中で思いながら、
お互い、
相手に口だけ動かしてるとしたら?。


そんなことだって、多いだろう。

コミュニケーションが惰性になってしまうと。


そんな無駄口が、
心の通わない社交辞令がうっとうしく感じるくらい、
シェイプ・オブ・ウォーターの二人を見ていたら、
「心を通わす」ということを思った。


孤独と孤独が引かれ合い、一つになる。


私を理解できる人は、この人しかいない。
そう思った瞬間に得る、出会えた喜びと、
いつか失う不安と恐れ。


こんな障害の多い二人でも、結ばれようとする。


思えば、恋愛とは、

異質なもの同士が出会って、

異質な中にも互いに通じあう点で共鳴し、

一つに同調しようとする行為なのかもしれない。


言葉というコミュニケーションに限界を感じたとき、

それ以外のコミュニケーションや信頼関係というのもあって、
そこにも頼ることになる。


しかし、

人というのは不思議なもので、

言葉だけでも、ダメで、

言葉以外だけでも、ダメで。


結局、心ってどこにあって、

どうやって伝わって行くものなのか。


そんなことを思った映画でした。

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