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中上健次の「岬」~母性と野蛮~。

(人によっては、不快な気持ちになるかもしれません。あくまで、一個人の意見、ひとつの表現として、お読みください。)

中上健次の「岬」を読み直して、以前ではわからないことも共感出来て、刺激になった。

文体や描写が巧い。短文で、呼吸するようにリズムがある。でも、人物の動作や言動でうまく印象を残しながら切り取っていく。この濃さはなんだろうと思ったら、「野蛮さ」「無秩序」だった。アウトローに近い。その集団でしか通じない論理なのかもしれないが、世間のサラリーマン的な倫理や秩序では測れない、独特の行動様式や人物像。

特に、秋幸の母親の強さ。女性原理、母性原理の強さ。シングルマザーになった今、特に、秋幸の母親の論理が感覚としてわかった。すべての諸悪の根源ともいえるけど、すべてを生み出している、母親の存在。父親の違う子供を産み、さらには父子家庭の男と再婚する。上の兄姉たちは早々と自立させられ、「棄てた」と子どもたちは責めるが、その母親もそんな幼少期を歩んでるから、なんとも思わない。「産んでもらっただけでも、感謝しろ」と。

ここから、また、脱線する。

「母親として、責められる」ということ。それを、この夏、私も経験した。七十代の両親に「母親として」の私のあり方を非難された。年取った親にそんなこと言わせること自体が、親不孝と、うちの親は思っているようだ。

そんな言葉をあびながら、ふと思った。すべての人の中に、母親に甘えながら責めるような感覚が残ってるのではないだろうか、と。

子供だった自分の立場から、「母親はこうあるべきだ」という感覚。所詮は自分の小さな観念に過ぎない意見。みんなの中の、子供だった自分が集まって、やいやい言っているイメージ。

その子の母親でもなんでもなく、その子に対し実際はなんの責任ももたないのに、私を「母親」として責めることができる他人の鈍感さ。その中に「母親とは何か」とか「親とは何か」とか、自己の経験によって凝り固まった常識に過ぎない何かがある。

うちの親も、ほんとうには、親とはどういうことか、わかってない二人だと知った。世間様の枠組みや世間体で物事を測って、自分たちの思い通りにならないと、悪態をつく。自分たちは、迷惑をかけられた、と。

そんな両親の姿を見て、逆に、大人になった自分を感じた。

もう、私も一人の子の親であり、この子を守るためなら、親兄弟に責められようとなんとも思わない、自分だけの「ただしさ」を育ててきた。肚の中に子どもがいるときからずっと育ててきたそれは、年を追うごとに、図太い強さを持ちはじめている。

人が生まれてくることへの全肯定。生まれないより、生まれてきただけでも、幸せだろう。

幸せになるために、両親が揃ってないとダメだとか、この親では不幸だとか、貧乏では可哀想だとか。そうやって、「世間」や「常識」の世界に生きる人たちは、責めるけど。

生きていれば、いくらでも巻き返せる。自分で。

そもそも、この世に生まれ出ない、存在しないことと、生まれ出て苦労することと、どっちがいいかと尋ねられれば、生きていることを選ぶだろう。

生まれてこなかったら、喜びも悲しみも、そんな感情すら味わえない。存在する権利すら与えられないのだ。

私を、誰も責められない。私がすべての責任ではないから。

本来は男親の責任もある。しかし、たいていはすべて、女親の母親に帰される。男親の責任すら、「そんな男を選んだ、あんたが悪い」と言われる。その二重三重の圧。言う方は、好きなだけ、自分はなにも責任を負わない場所から批判できる。

だからこそ、母親は強くなる。強くならざるをえない。そしてそれこそ、すべての秩序やルールを無視してでも、地を這ってでも、子供と自分を生かそうとする母性がどんどん膨らむ。面は人好きするような笑顔でも、肚の底では野蛮が渦巻いている。

子の生殺与奪権をもつ母親という生き物の凄まじさ。

人になんと言われようと、私もまた、今後も産むときは産むし、堕ろすときは堕ろすだろう。産んでも何か言われ、堕ろしても責められるのが必須ならば、なにをどうしても関係ない。私が決めることなのだ。そして決断に対し、責任をおって生きていく。

秋幸にしろ、まじめにおとなしくしてるけど、内側にフツフツ野蛮性があって、それとどう折り合いを付けるかを、じーっと耐えている。

本人には、大きな事件は起こっていない。起こっていないけれども、何かが起こってしまった後の世界で、みんな黙って耐えながら生きている。時折、あふれ出る情念に振り回されながら、心の中で泣きながら生きてる。ここからどこかへ出たい、自由になりたいと思いながら、ずっと同じ土地の中で、顔つき合わせて生きている。秋幸の側からみたら、こんな世界。

彼の母親の側からみたら、どんな世界か。『鳳仙花』が母親の生い立ちの物語だけど、やはり浄瑠璃の世界なんだろうなあ。中上健次が考え、想像し、形作った母親の世界だから、やはり息子が考えた物語なのだろうし。

それでも、あの母性原理を、他者として、息子として、浮き彫りにして描いた感性はずば抜けている。

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