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メンタル疾患から少しずつ回復したお話3(資格取得〜正社員就職・再発)

途中、それなりに辛い話が出てきます。
トラウマを掻き立てられたり、気分が落ち込む可能性のある方は、1と3(この記事)は読むのをオススメしません。

大丈夫だよ。
という方だけ、読み進めて下さい。











同僚のパートのおばちゃんから背中を押され、国家資格取得のための予備校に通い始めた私は、学ぶことの喜びを感じる事ができるようになっていました。

既に大学を卒業して4年が経っていました。

発症して、長い治療期間をへてからの学び直しだったので、その分野へ挑戦出来るまで回復した自分を噛み締めながら、勉学に励む日々でした。

しかし、そんなに人生は甘くありません。

最初はぐんぐん伸びていた成績も、
9月で頭打ちになり伸びなくなりました。

そりゃそうです。元々苦手意識の強い分野なのですから。

これからの伸びで合格ラインに乗れるかがかかってくる。そんな時期から伸び悩み、周りの受験ムードに押され冬には

また社交不安が強くなりました。

教室に居れなくなり、授業を受けれなくなり、予備校には通うものの自習室にひとり籠って自習する日々が始まりました。

人がクスクスと笑っていると
自分の悪口を言われている気がして、
その場を離れるようになりました。

被害妄想まで強く出はじめ、

最終的には、予備校に通わず、卒業試験の時と同じように自宅で勉強をする様になりました。

国家試験会場にも、行けるか行けないか、微妙なラインでした。

臨床心理士の先生と、
試験会場に行って、マークシートを塗りつぶして帰って来るだけでいい

そんな約束をして、試験に臨みました。

結果、何とか合格!

ずっとコンプレックスだった資格をとる事ができました。

資格を取れた事でとても舞い上がっていたのでしょう。

私は両親の反対を押し切り、資格を使ってクローズドで正社員として就職しました。

資格を使って働くことをあんなに怖がっていたのにも関わらずです。

自立したい。
早く1人前になりたい。
当時予備校で出会った彼とゆくゆく一緒になるためには、今ゆっくり休むなんて言えない

そんな強い思いと会社のネームバリューにつられ、社宅が月1万で住めるとの理由からその会社に決めました。

しかし、その会社は業界の中でも利益至上主義の競走力を持つ会社でした。

社員にも切磋琢磨し、利益を追求させる。

そんな社風でした。

保守的で、変化を嫌い、のんびりしている私とは真逆だったのです。



新入社員としてたくさんの同期と本社での2ヶ月の研修を受け、いよいよ現場に送られる日が来ました。

現場で私は「全然使えない困った新人」でした。

仕事の覚えが悪いだけでなく、
何よりミスが多かったのです。
そして、業務が立て込んでくるとパニックを起こす。

怖くて仕事を任せられない、という周りの判断が下るのにそう時間はかかりませんでした。

新入社員研修での成績が良かったので、最初は「期待の新人」として温かく迎えてくれた分、態度の変化が激しく、余計に戸惑いました。

この仕事は向いてない
とても苦手だ
どうしよう出来ないかもしれない

そんな不安を常に抱きながら仕事をしていたのです。それはミスもするし、パニックにもなっていたのは、当たり前かもしれません。

それに、元来のADHD傾向も相まって問題はより複雑になっていました。

でも、その時の私にはそれに気づけませんでした。

そんな日々が続くと、現場から追い出そうと一致団結したいじめが始まりました。

無視
業務に必要な持ち物を隠される
重要な物を盗んだように偽装工作をされる
セクハラ(股間をお尻に当てられる)

しまいには、現場にヘルプできたスタッフに

「あいつはdoormat(ドアマット)だから」

と、意地悪なパート社員が堂々と説明をするまでになりました。

(doormat:人に踏みつけられてもじっと耐えている人、邪険に[人に利用・ひどい仕打ちを]されても黙っている[不平を言わない]人、いつもやられっぱなしの人に使う英語の比喩。自宅に帰って意味を調べて泣き崩れました。)

それでも私はその現場を離れるのを怖がっていました。いじめだけでなく長いサビ残や、片道1時間半もかかる通勤に耐えられず、社宅とは別に自腹でこっそりアパートを借りてまで、そこにいたのです。

今考えるとちゃんちゃらおかしいですが、その時はその場から逃げる事が出来ませんでした。

やっとその現場から離れる決心と異動辞令が出たころには、
そんな環境に9ヶ月いたので、
もはや被害妄想なのか、イジメなのか、
自分の判断に自信がもてなくなっていました。



新しく異動になった現場は、
会社の中でもおおらかな現場でした。

1から私を育てよう
だって人手不足だから
いないよりはマシ

あけすけに物を言う上司と
初めて部下をつ私よりも若い短気な上司でしたが、

最初の現場のように無視したり大っぴらにいじめたりはしませんでした。

やっとなんとか受け入れて貰える場所が見つかったかもしれない。

そんな思いもあり自分なりに一生懸命仕事に取り組みました。

しかし、私はやはりこの職業にむいてなかったのでしょう。

頑張ってもミスがとても多かったのです。
ミスを正す職業なのにミスばっかりして、あまつさえミスを見逃してしまう事もありました。

それに加えて異動先の現場は人手不足のため前の現場より1人でやらなければいけない業務範囲が広く、覚えることもたくさんありました。

とてもじゃありませんが、キャパオーバーでした。

上司達は1人で現場を回しているのに、私はいつまで経っても1人でこなすことができませんでした。

そんなこんなで異動してきて1年が経とうという頃、新人が2人、私の下に研修でつくことが決まりました。

驚きました。教わっても教えることは何も無い、むしろまだまだ教わらなければならない立場だったからです。

本社は何を考えているんだ?
異動先の現場でもそう言われました。

私はとても怖くなりました。
しっかりしなければ、働き出して3年目に入るのにいつまで経ってもこんな問題だらけの状態じゃいけない。

私は、ずっとADHD傾向があるのでは?と悩んでいたので、適性試験を受けて、服薬をしたいと主治医にお願いしました。

主治医は渋々という感じで、なんとか了承して下さり、適性試験を受けました。

結果は、総IQは健常者でしたが、それぞれの項目に凸凹がありました。

特に数値を扱う分野に苦手が見つかりました。

自分の中の元来の苦手意識と、結果が一致し、少し安心したのを覚えています。

服薬してみたい、そう主治医にお願いしてADHDの薬の服薬が始まりました。

クローズドで就職しているので異動先の現場にも服薬を始めたことは言ってません。

しかしADHDの服薬を始めた頃から様子がおかしいと周りは思っていたようです。

上司の言葉を借りると

後輩ができて調子に乗ってる
強気になった
私らしくない

でした。

実際服用している時、私はイライラしていましたし、いわゆる躁状態でした。
夜中なかなか眠れずに、らんらんとした目で深夜まで後輩のために資料を準備していた事もありました。

薬を飲めば、ADHD傾向の自分とおさらば出来る。そう思い期待の大きかった服薬ですが、やはりミスを減らす事はなかなかできませんでした。

むしろ変な強気で現場の人間関係に溝ができる形になってしまいました。

その頃、当時の彼との別れもあり、
私は東京で働く意味を見いだせなくなっていました。

そんな中、気づいたら再び妄想に支配され、限界を迎えて、統合失調症の再発により、退職する事になってしまいました。

(続)

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