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メンタル疾患から少しずつ回復したお話1(生い立ち〜発病)

いつかどこかで話してみたいと思っていましたが、過去を振り返るだけの精神的体力が付いてきたので、お話してみます。

途中、それなりに辛い話が出てきます。
トラウマを掻き立てられたり、気分が落ち込む可能性のある方は、1(この記事)と3は読むのをオススメしません。

大丈夫だよ。
という方だけ、読み進めて下さい。











比較的、教育に厳しい家庭環境だったな
と思っています。

母は教育者でした。

子供はこうあるべきだ
こういう職業に付いてほしい
それが子供の幸せだ

と、決めつけが強く、
心配性で過干渉な母親でした。

なので、子供の頃はいい子である事に神経を注ぎ、子供なりに息苦しく生活していました。

いい子でいることに生き甲斐を見出し
いい子でいれば、愛される

反発すれば、めたんこに怒られる
意に沿わなければ、泣き叫んでも無視してベランダに締め出される

というような強権的な躾の仕方もされました。



中学生に上がった初めての中間テストで30番だった時、

30番だなんて信じられない
なぜ1番じゃないのか…

と、母に落胆されたのを、
今でもショックだった事として覚えています。

自分なりに一生懸命勉強してみて、30番。
頑張った、自分えらいな、喜んでくれるかも。

そんな淡い期待をして伝えた順位に、
ひどく落胆されて失望されたのです。

母の求めている所は
私の並の努力では足りないのだ
と愕然とし、あとどれだけ苦しい思いをして頑張らなければいけないのかと、ゾッとしたのを覚えています。

今思えば、子供なりに長年ストレスがかかり続けてきた生活をしてたんだなぁと思います。



大学進学の時期になると、大きなターニングポイントが訪れます。

「○○学部以外の進学は認めない」

と両親にきっぱりと言われました。

それ以外の学部に行きたいなら国公立大学への進学が条件だと。

その頃の私は、なんとか県内の進学校へ行ったものの、成績はずっと低空飛行。

中学生から始まった不眠も酷くなっていました。

周りと比べ常に劣等感にまみれながら、せっかくの青春をダラダラと過ごし、
受験シーズンには腹鳴恐怖で授業中席に座っているのも苦痛になっていました。

○○学部を出て、就ける仕事はその職業以外ほとんどなく限られています。

「…その職業は、私には全く合わないと思う。
学ぶ内容も苦手な科目ばかりだし…ついていけるかも分からない…つまらなくも感じるし…」

「…それより□□の勉強がしてみたい…」

両親にとても不安に思っている事、まだ興味が持てる分野をやっとの思いで伝えましたが、聞く耳を持ちませんでした。

如何にその職業が安定しているか
貴女のためを思っているか
□□の分野を勉強してどこに就職できるのか?

と、強く主張されました。

父の職業でもあり、
母が大学を合格したが家庭の金銭状況で行きたくてもいけなかった学部でもありました。

悩み迷いながらやっとの思いで抵抗していた私を差し置いて、仕舞いには、母は私に内緒で推薦願書を出して受験体制を整えていました。

その時の私は受験シーズンの周りの空気にやられていました。

皆自分の将来を見据え頑張っているのに、
私は何がしたいかも分からない。

やりたい事もボンヤリとしか見えず、
そのボンヤリとしたものにも自信がもてず、
両親を説得するだけの気概も夢も希望も、
自分の人生を真剣に考える気力も、
反発する精神も、

その頃には持ち合わせていませんでした。

両親の敷いた人生のレールを大人しく進む方がラクかもしれない。

苦手な科目の延長にある分野を学ぶこと、
その職業は合ってないと本心では叫んで恐れていること。

そんな不安要素に蓋をし無視をして、
安易にそう考えて自分の人生の舵取りをしてしまいました。

これが大きな苦しみが続くキッカケの選択になってしまったと今は思っています。



そんな生半可な覚悟と不安を抱いたまま進学した大学は、上手く行くはずがありませんでした。

1年生の時に、苦手な科目の延長の分野の単位を落としまくり留年が決まりました。

その時、退学するとパニックで反乱狂に泣きながら母に電話をしました。

慌てて母も県外の進学先に駆けつけてしばらく世話をしてくれました。

その時の私の憔悴ぶりを見て、
母は退学してもいいと言ってくれました。

でも、私は退学を選びませんでした。

その職業になれなかったら、
より劣等感にまみれて潰れてしまう。

また、1から受験をする気力や学力はもう私には残っていない。
そうなると、どんな酷い不安定な人生を歩むか分からない。

ヤケになって退学すると言っていたのに、少し冷静になるとそう考えていました。

向かない、嫌だと常々思いながら苦しい思いをして大学に通っていたのに、もうその職業以外の選択肢を選んだり想像する気力も勇気も無くなっていたのです。

新しい自由な未来が開けていたのに、不安や恐怖の方が大きかったんだなと今は振り返って思います。

結局、○○学部を退学せず、
その後は順当に進学しました。

学年が上がるとゼミにも所属して友達も増え
この選択で良かったかもしれない、そう思い始めていました。



しかし、学年が上がると実務実習に行かなければなりません。

半年近くの実習期間がありました。

いよいよ現場に出てその職業に本当に触れる機会が来ました。

最初の実習先は何とかこなしましたが、
里帰りして実習した実習先では大変な思いをしました。

とても厳しいヒステリー持ちの方が実習教官でした。

こんな事も分からないの?
つらく対応される事が殆どでした。

あまりの私の出来なさに、
大学の教授と私と実習先を交えた定期の三者面談は、快活な教授が汗をかいて慌てふためく程、
ヒステリーな教官に大学の教育体制について苦情を延々と言わ続けていました。

当時は新制度が施行されたばかりで、実習期間が倍に伸びていたにもかかわらず、実習先と大学との連携も上手く取れていませんでしたし、実習を受け入れる側も体制が万全ではありませんでした。

そんな制度自体が不安定な中、放り込まれた実習生達は、それぞれが力量や熱意で教官に食いついていくことで学べる内容が大きく変わるという実情でした。

私の100%ではまだ足りない。
120%…いや200%でやらなければいけない。

元々苦手なことに取り組んでいるんだから、それくらいしないとついていけない。

面談を終えて、焦った私はそれから熱心に教えをこうようになりました。
実習先への差し入れのお菓子も毎週持っていくようにしました。

実習先も私とその教官が合わないと気づき、教える側がローテーションを組んで色んな人が面倒をみてくれることになりました。

関係を改善して、熱心に指導して下さり、私も程よい距離感を学ぶようになりました。

でも私には合わない向かないと思いながら実習をするのは苦痛で苦痛でたまりませんでした。

朝は行きたくないと両親に泣き喚いてから
支度をはじめ何とか実習先に行くと、
スイッチが切り替わったように、良い実習生の仮面を被り、熱心に実習をする日々でした。

挽回しなければと、報告書も報告先の大学が引くくらいの密度と量で日報をかいていました。

2回目の定期面談では、
実習先が最初は大変だったがよく頑張っている、と大学の教授に笑顔で評価を伝える程になっていました。

何とか実習を終えて、大学に戻ると、
今度はゼミの研究発表の準備と並行して、国家資格取得にむけた受験シーズンへと突入します。

この段階で、私は疲れ果てていたのでしょう。

大学に戻ると、ゼミの仲間からヒソヒソ陰口を言われている感覚に陥りました。

携帯の中身が盗視、盗聴されてると思い込む様にもなっていました。

そんな中でも最後の研究のためゼミに通って卒業試験に向けた勉強をしていました。

しかし、限界でした。

ゼミの研究発表の当日、ポスターセッションの場に立っておれず飛び出してしまいました。

パニックを起こして、その場を飛び出しロッカールームでひとり震えていました。

おかしいなと心配して探してくれたゼミの仲間に発見してもらいました。

その出来事がきっかけで、人前に出るのが怖くなりました。大学にも通えず、外に出る事も怖くなったのです。


社交不安障害と診断されました。


幸い、各々が卒業試験や国家資格取得に向けて勉強する段階だったので、大学の授業は殆どなく、帰省し心療内科を受診していました。

それからは、何とか卒業だけはしようと、
大学のある県外に母と一緒に戻り、1Kのアパートで治療と卒業試験に向けた日々を送りました。

卒業だけはしなければと、
頓服を活用しながら卒業試験を乗り切り、
何とか卒業しました。

国家試験は受けませんでした。

その職業につくことは、家族の誰ももう強制する事は無くなっていました。

卒業式も出席せず、
卒業証書が郵送で送られてくるという形で私の大学生活が終わりました。



帰省しゆっくり治療しよう。

そう両親にいわれ実家に帰省し、通院していましたが一向に良くなりません。

家でじっとしていると、

進路選択の後悔や
その時両親が私の特性を理解せずレールを敷いたこと
実習での辛さを思い出す反芻思考や
携帯を盗聴、盗視されているという不安、
人が怖いという現状、

色んな事が思考が溢れて休まる事がありませんでした。

一向に治らないので病院を変えました。


統合失調症と診断されました。


療養の日々が続きました。

しかし、家に篭れば籠るほど、
母親に今までの恨み辛みをドロドロと吐き捨てるドス黒い怪物になっていました。

教育者の職を早期退職し、元来我慢強く気丈に私の看病に付き合っていた母が、泣きながら一緒に○のうかと言うほどに、

母を追い詰め、治療は難航していました。

見かねた父が、上京して治療をしようと提案しました。

思い切った突拍子も無い決断を、私はもちろん拒否しました。


必ず良くなるから。
信じてほしい。


父はそう私に言い聞かせ、私も渋々了承し、
新しい環境で治療をスタートする事になりました。

(続)

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