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『謎解き『ハムレット』名作のあかし』

これまでのハムレット像は「復讐をなかなか実行に移さない優柔不断な哲学青年」だったらしいが、学生時代に読んだ時も、つい先日再読した時も、私は全くそんな印象を受けなかった。むしろ弱いハムレットと烙印を押されていたことに驚きながら、河合祥一郎の『謎解き『ハムレット』名作のあかし』を興味深く読んだ。ハムレットは、どうやらロマン主義のせいで、脆弱な男と分析されたまま今日に至っていたようだ。

シェイクスピアの『ハムレット』には時間的に辻褄の合わない部分や矛盾した発言があり、確かに読んでいてあれ?と思うことがある。それもこれもシェイクスピアが意図したことなのかもしれない。彼は小説家ではなく劇作家だからだ。

本書「第4章 鏡としての演劇、ルネサンスの表象 - 奇妙な視点、パスペクティブ」に「事実」と「真実」は異なるものだとある。「現代人は〈客観的事実〉というものを信じている」が、「写真家の出品する作品」を例にあげて、「写真家の作品は、演劇の鏡と同様、「事実をありのままに映す」から意味があるのではなく、鏡/カメラの掲げ方に主観的判断が籠められているから意味があるのだ」ときっぱりと断言している。

演劇は時代や人の心を映し出す鏡だから、「『ハムレット』という作品は、最初から最後まで、見せかけにたよらず〈心の眼で見る〉ということの大切さを執拗に強調している」という点も大いに賛成できる。虚構の中に「真実」があるからこそ、私たちは映画や演劇に心を動かされる。「事実」だけでは当てにならないということだ。「事実」だと信じる前に、そこに「真実」をみつけられるかどうか、それは人間ひとりひとりの知性、知識そして能力にかかっている。

何故、弱いハムレットと言われ続けていたのか、その理由が最終章「第7章 『ハムレット』最大の謎 - 復讐するは我にあり」で見事に解き明かされ、ハムレットは脆弱な青年ではないことが立証される。全く気がつかなった盲点を指摘され、眼の覚めるような思いがした。要点だけを言うと、この劇は復讐劇ではないのだ。亡き父に代わって新しい王に復讐するハムレットではなく、復讐劇という構図をとりながらも、己の責務とは何か、己とは何かといういつの時代でも人々が抱える主題が語られている。

人は自分の限界を知った時、一体自分にできることは何かと模索して、新たな希望や道をみつけていく。諦念は日々の生活で最も頻繁に起こりうる感情ではないだろうか。諦めたことから何かが始まる。それは決して後ろ向きな姿勢ではなく、むしろ前向きな姿勢にはならないだろうか。

悲劇には希望がある。劇中には希望がないかもしれないが、見ている私たちに新しい光を投げかけている。嗚呼、悲しかった。嗚呼、かわいそうだった。嗚呼、あいつはなんて奴だ。それが悲劇ではない。私たちに「心の眼」があるなら、悲劇は単なる悲劇には終わらないはずだ。この本を読んで、私自身悲劇に対する見方が大きく変わった。それは次の文章に起因する。

「自分の力で無理やり運命を変えるなど所詮できないことだと認めて、人間としてできることをやってゆこうということである。しかし、それは決して消極的な諦めではない。「覚悟がすべてだ」の「覚悟」(readiness)とは、運命が門を開く瞬間があったら、そのどんな瞬間も逃さず行動に走る「準備ができている」(ready)状態にいることを指す」

2015年5月5日の読書録より

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