江戸の商人、ロシアのピョートル皇帝に出会う〜鎖国中にロシアで初の日本語学校が建てられた話〜
世界史と日本史は両方を点で繋ぐのが醍醐味だと思う。片方どちらか選べとか、そもそも分けてしまったのがナンセンス。
私が面白いと思うのは、漂流者シリーズ。思いがけずめっちゃグローバルな人生を辿るのです。今日は、時の将軍、綱吉だって会ったことないロシアのピョートル大帝に、日本の漂流者が謁見してしまうという、恐らく本人が一番びっくりしたであろうお話をしたいと思います。
情景を思い浮かべながら、漂流者の気分になって(笑)お楽しみください。
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日本は鎖国の世。1705年、ピョートル大帝が首都をモスクワからサンクトペテルブルクに移した年の2年後に、ロシアにヨーロッパ初の日本語学校が建てられた話。
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漂流
想像してみてほしい、鎖国中の日本。船で流されて、もう終わりだと思った先に、目の前には恐ろしいほど大きな雪山。
ここは…天国?僕は死んだのだろうか
恐ろしく寒い。いや地獄だろうか。
鎖国中、船が流されて辿り着くのは、だいたいカムチャッカ。
この場所で、ロシアと日本の物語が始まる。
ロシア人で初めてカムチャッカ半島を探検したウラジーミル・アトラソフに、日本人の伝兵衛は発見された。背丈の小さい日本人にとって、毛むくじゃらの大男は地獄の番人か?と世の果てまで来てしまったと思ったに違いない。
伝兵衛は自分のことを「ウザカ生まれのインド人」だと語った。
うざか、うーざか、うーさか、うおーさか
いんど、いぃんど、いぇんど、いぇーんど、えんど(←声に出してみて)
江戸で商人見習い
「ウザカ生まれのインド人」とは「大阪生まれの江戸人」であった。伝兵衛は大阪の質屋の若旦那で、修行のために江戸で奉公していた。江戸から船で荷を輸送中、暴風雨で六か月も漂流したというのだ。
江戸時代、主な輸送は船で行われていたが、鎖国中の日本は、外国へ行けないためにわざと粗末な造りの船だったため、よく船が流されては難破した。
一緒に船に乗っていた15名のうち、2名は流され、2名はクリール人に殺された。あとはみなクリール人の部落に留められたが、何故か伝兵衛だけがほかの部落へ送られ、そこでアトラソフに捉えらえた。
新しい都とロシア皇帝
伝兵衛は運が良かった。
好奇心旺盛で日本のことも知りたかったピョートル大帝の前へ連れていかれることになった。ピョートル大帝はこの異国人を殺すことなく国立日本語学校の建設、教授を命じる。
1705年、新しい首都の町が建った2年後に、ロシアでヨーロッパ初の日本語学校が出来ていたことを同じ時を生きた日本の将軍、綱吉は知る由もなかっただろう。
日本の街並みしか知らなかった伝兵衛は、出来立てのキラキラしたサンクトペテルブルクの街に立ち、日本の将軍に会ったこともないこの男は、ロシアの皇帝ピョートル大帝に謁見を果たしてしまったのだ。
先生と呼ばれて
カムチャツカ漂流から始まった第二の人生。江戸の見習い商人だった男は、日本語を教えることで先生と呼ばれ、生徒から感謝され、世の果てと思った国で想像を超えすぎたその人生を生きた。
江戸人 伝兵衛、鎖国の中、超インターナショナルな運命を辿る。
彼は洗礼を受けてガブリエルと名乗り、ロシアで人生の幕を閉じた。
終わりに。300年前の思いがけない漂流者、伝兵衛から始まった日本語教育は、サンクトペテルブルク帝国大学で今でも受け継がれている。
(生徒さんプレゼン資料@英語で学ぶ地政学ロシア編)