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カミのコラム#5 −presented by「紙の温度」−


「楮紙は楮紙らしく、雁皮紙は雁皮紙らしく、三椏紙は三椏紙らしく」という和紙の美学を明文化した民藝運動の父と呼ばれる存在、柳宗悦(やなぎむねよし)。

その美学に魅せられ、あらゆる手漉き紙を具現化した和紙職人こそが、人間国宝である安部榮四郎(あべえいしろう)。(1902年~1984年)

安部榮四郎が、「紙本来の美しさとはいったい何なのか?」を追求し、和紙の新たな可能性の探求から生まれた「出雲民藝紙」。それまでは、近代における多くの和紙が書きやすく、美しい紙をつくるために、楮紙に多くの雁皮を混ぜて漉いていたんだそう。

カミのコラム#5でご紹介する紙は、そんな大正時代の民藝運動の中で生まれた和紙「出雲民藝紙」から現代における「民芸紙」について。

ではでは、お楽しみ下さい。

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色とりどりの民芸紙。その色の豊富さから民芸紙のことを勝手に「和紙界のタント」と命名しました。



民藝運動と民芸紙。

民芸紙の話に入る前に、民芸紙の語源でもある「民藝運動」って何?
というところから理解していく必要があります。

民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。そんな中、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示したのです。工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係しています。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じ、近代化=西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らしました。物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求したのです。

※日本民藝運動協会WEBページより抜粋

僕の勝手な解釈にはなりますが、「職人の手仕事により生まれ、暮らしの中で洗練されたものの中にこそ美がある。」というような考え方でしょうか。間違っていたらすみません…。

ここでいう民藝品とは「一般の民衆が日々の生活に必要とする品」という意味で、日本および海外諸国の陶磁器、織物、染物、木漆工、絵画、金工、石工、竹工、紙工、革工、硝子、彫刻、編組品など各分野にわたり、約1万7千点を数えているんだそう。柳宗悦がつくった日本民藝館には、これらのコレクションが収蔵されているそうなので、並々ならぬオモイが詰まっている事が伺い知れます…。

そして、民藝品博覧会の民藝品審査評の中でも、こんな言葉を残しています。

その本質を約言すれば、正しい質を有した実用的工芸を指すのである。生活に即するといふことが民芸品の目途である。美しさが用から生れてこそ本筋である。いくら安くとも質が悪ければ高価ともいへる。いくら便宜でも粗悪であるなら用途にもそむく。いくら技をこらしても軟弱であり醜悪であるなら生活を傷める。多くの人々の日常の生活に役立つ誠実な工芸品、これが民芸である。民芸は産業としての工芸の本流である。

産業としてのあり方を問うようなとても身につまされる内容です。

そして、このオモイに共鳴した和紙職人こそが今回のコラムで紹介したい安部榮四郎さんです。


「民芸紙」は民藝運動の中で生まれたとされていて、現在では単色で染められた和紙の総称となっています。では、なぜ現在において単色で染められた和紙のことを「民芸紙」と呼ぶのか?

これについてのナゾは深まるばかり…。

様々な本やインターネットを駆使して「民芸紙」について調べてみたのですが、「民芸紙」についての説明は民藝運動の中で生まれた紙という記載のものばかりでした。

しかし、安倍榮四郎の著書である「紙すき五十年」の中で、綴られている「民芸紙」というものは、「民藝運動の活動の中で、単色で和紙を染めるという技術が養われていったのだ…」という単純な話ではなく、自身の紙漉きに込めるオモイや、柳宗悦との出会い、民藝というものへのあくなき探求などが複合的に絡まり合い、生まれていった紙だということがわかってきました。

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「人の人生は計り知れぬものがあるが、窮極には、真面目な生活、真実な生き方だけが、道を開くものと考えるものである。新しい道を求め、新しい生活のため、紙業に終生を捧げる事に誓った。」
「紙すき五十年」安倍榮四郎著


安倍榮四郎と柳宗悦。


安部榮四郎は、明治35年(1902年)1月14日、島根県八束郡岩坂村別所(現松江市八雲町)に生まれ、幼い時から家業の紙漉きを手伝い、技を学びました。小学校を卒業後、妹の世話や家業を手伝わなければならないため、進学したかったにもかかわらず、高等科へ進むことができなかった。しかしその後に、各村のお寺でやっている夜学で勉強し、徴兵検査の学科試験では高等科3年の卒業の認定を受けるほどの勉強家だったそう。

岩坂村は、名高い紙漉き産地ではなかったため、安部の修行は自発的な研究となり、21歳の時、島根県工業試験場紙業部に入りました。そこで、各種の紙漉き方法を試みながら技を磨き、試験場の技手の方と面識を持ったのが大正5年、製紙関係各種試験や化学的試験に従事しながら、直接指導をうけて研究できるようになったそう。

当時の手漉き紙業界では、三椏が減産のため不足し、その対策としてパルプ混入によって問題解決を図っていた。ただ原料問題は解決できたが、パルプの混合率を高めたり商人間のコスト競争を招き、悪い方向に向かっていた。

安倍榮四郎は、自分の漉いた障子紙を業者を通すことなく、自転車を使って直接消費者に売りに歩くことで、批評をじかに聞き腕を磨いていたんだそう。絶えず紙の研究もし、いろいろ試作しては村の発展を考え続けていた。宅地内に井戸がなく、仕事の能率上からも、必要性を感じ、自らの手で井戸を掘ったことまであるそうなのでその気持ちの入れようが伺いしれます。


大正14年に新しく内閣印刷局抄紙部出身の技手がきたことで、和紙づくりの品質向上と用途開発開拓に熱心な努力が払われた。この当時から着色した紙、すかし入りなどの工芸的な試験にも着手し、三椏不足に対処して南洋楮(カジノキ系)を代用することも考案し、藁半紙の抄造にもあてられた。この考案は全国に先んじて行われただけでなく、書道用半紙として好評を博し、業者も不況から救われる結果となった。

このとき、永久保存の記録用紙として雁皮紙の抄造を任された安部榮四郎。雁皮紙についてはまったくの素人だった安部は、随分と苦労を重ねながら生まれて初めての雁皮紙を完成させたんだとか。この雁皮紙が民藝運動の父である柳宗悦の目にとまり、民芸紙の誕生のきっかけとなった。

「民芸紙」の出発地点は色紙ではなく、雁皮本来の美しさを極めた手漉き紙だったということがわかる。このような度重なる試験での経験が「民芸紙」を創作していく上での安部榮四郎の自信となっていった。

大正後期〜昭和初期、安部榮四郎が、独立して本格的に仕事に取りかかっていた(当人20歳代)時代は、社会的な経済不況に加えて洋紙攻勢、個人的には一文なしの、あるものは借金くらいという状態だった。機械抄きの紙が急速に伸長してきたため、手漉き和紙においても質を低下し、改良という美名のもとに、原価を引き下げて機械抄紙と競争していた時代だったそう。

手仕事は所詮、機械の相手ではないという状況のままでは、伝統ある手漉き紙が廃れてしまうと考え、何とか新しい道はないものかとあぐねた結果、日本の伝統に根ざす和紙のもつ特色ある質を追求し、雁皮、楮、三椏という全世界に比類をみないこの材料をつかい、和紙本来の生命を探求する仕事に取り組むことを決意した。

農村の副業と副業をもっての多角化経営の推奨がなされていて、機会があれば講習会や技術伝習には必ず出席し、先進紙業地の視察をしたりなどして、紙漉き技術の研究に没頭した。26歳のときに紙友倶楽部をつくり、部長となって原料入手難の打開や補修原料の研究に努力したんだそう。

現代において、副業副業と叫ばれているけどこの時代においても副業というものが当たり前に行われていたことに驚きます…。


昭和7年に東京や大阪で開かれた民芸品展覧会に、手漉き和紙の素朴な特色である漉放し(いわゆる耳付)に着眼し、便箋、巻紙、葉書、封筒、名刺などに耳付きを考案して出品したところ民芸賞を紙関係でただ一人受賞し、和紙の代表としても、島根県八束郡岩坂村松の雁皮巻紙(安部榮四郎)が入賞した。雁皮紙が和紙として質の上から最上のものであるのは、専門家の熟知するところではあるが、一般にはまだその価値が認められていなかったので、この受賞は業界にとっても大きな意味を持つものとなった。

-民芸品展覧会の趣旨-
民芸品とは民衆的工芸品で、日常生活、例えば勝手道具、手廻りのもの、普段着の如きものを指す。したがって廉価多産的で産業的価値があることを必要とする。実用品であれば健康な、丈夫なものがよく、凝ったものより自然な素朴なものを歓迎する。

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柳宗悦が創刊した、暮らしの美を啓発する民藝運動の機関誌「工藝」の16号から24号までの本文用紙に安部榮四郎の抄造した楮と三椏の混合紙が使われた。また、昭和8年刊行の28号は、岩坂の紙の特集紹介号となっている。柳宗悦が安部榮四郎の元で直接選んだ、15枚の紙が貼布されている。中でももっとも苦労したとされているのが、トロロアオイを使わずに、雁皮のさらした溜め漉きの紙。和紙本来の純粋さが良くでた作品となっており、自身の50年の紙漉き生活の中でも、これほどの紙は稀であり、いつまでも記念にとっておきたい紙の一つであると語っている。


「民芸紙」の所以。


ここまでで安倍榮四郎や柳宗悦との関係性についてはわかってきたけど、現在における「民芸紙」たる所以は結局どうなったの?!

といったことにいよいよ触れていこうと思います。

安部榮四郎が着色和紙というものの研究を始めたのは昭和2年。元々は島根県の生産米検査で使用するための、検査の等級用紙として色紙の研究を開始したんだそう。

まさか「民芸紙」のルーツがお米の検査用の紙だとは思いませんでした…。

色彩が鮮明且つ、丈夫である必要があったため、楮紙で作り始めたんだとか。

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一等米の紫から青、赤、黄、茶、鼠色の6種で大量に抄造していた。

それを目にした松江市のとある土産物店が、和紙が強靭でしかも風雅な趣があるところに着目し、包装紙や栞などにこの着色和紙を使うようになり、非常に好評になって、新しい需要がどんどん増えていった。

昭和6年の柳宗悦との出会い以来、染色に対しても品目の拡大とともに研究を加えていった。植物や顔料、そして化学染料などの各種染料を、その特質を見極めながら利用し、濃い色や淡色を使い分け、用途別に各種の色紙を抄造生産し、各地の展覧会に積極的に出品することによって着色和紙に対する認識を深め販路を拡大していったんだそう。

終戦後の昭和23年に島根県へ天皇の行幸の際、松江市で開かれた「島根県綜合美術展」の献上品として、民芸紙(大判紙10種100枚)、画帳(5色表紙帙入 ※帙とは、書物を包むためのおおいのこと。)を献上した。その際、各種の色を使用して雲紙風な飛竜のような大胆な模様の紙を作った。植物、顔料などを使って、難しい色合いをその染料の特徴を発揮できるように配意して着色した紙を考案。そして、この着色紙は、油絵のようだとして好評をうけることになった。

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安部榮四郎の代表作である雲柄と水玉柄、微妙な色の違いも鮮やかに表現されています。


「出雲民藝紙」とは、単なる色紙のことではなく、安倍榮四郎さんが自身の紙漉き人生と柳宗悦との出会いの中で、「この先、民藝としての和紙をどう残していくのか?」を人生を賭けて研究してきた賜物であることがわかりました。

いかに紙本来の持つ自然の美しさを表現するかへの挑戦だとも言えます。

あくまでも仮説でしかありませんが、安部榮四郎の作った「出雲民藝紙」がきっかけとなり、全国へ単色で染めた和紙が波及し、単色で染められた和紙の事を「民芸紙」と呼ぶようになったのではないか?と考えています。

手仕事における紙の独特の美しさや何とも言えない魅力は、こうした先人たちの偉業の集積が更なる深みを作っていくのだと思います。

今は当たり前のように使われている紙の使い方も、当時にしてみれば画期的だったでしょうし、現代における、紙本来の用途や魅力を考え追求していくことで、まだ見ぬ新しい使い方や魅力を再発見できる。

きっとそこには現代でしか生み出すことのできない新しい魅力がつまっていると信じています。

紙屋として、先人たちのオモイをつむぐ一役が担いたいなんてとてもおこがましくて言えませんが、より多くの方に紙の魅力を伝え、

「こんな紙があるんだ。」
「この紙素敵だね。」
「こんな風に作られてきたんだね。」

と興味を持ってくれる方が増えてくれたら嬉しいです。

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ではでは、カミのコラム#5 はここまでとなります。
引き続き紙についてのアレコレをお伝えしていきますので、次回もぜひお楽しみ下さい!!

ご紹介した紙は、全て紙の温度さんでご購入可能です。是非現物を見て、触って、その質感を確かめていただけたら嬉しいです。
※一部作品につきましては、扱っておりませんのでご了承下さい。

※オンラインサイトURLはこちら↓
https://www.kaminoondo.co.jp

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天明3年の創業より紙屋として日本橋馬喰町の地で商いを続けています。新しい活動として中庄の未来をつくる部を開設。現代における「紙の価値や魅力ってなんだろう?」を再考すべく気ままに情報発信を行っていきます。web:https://nakasho.com/index.html