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【全文無料】原発保険(夜田わけい)

【カテゴリ】小説
【文字数】約13000文字
【あらすじ】
『原発の近くに住んでいたら、原発が事故ったときに補償が欲しいと思うのが人間の心だ』――"原発保険"という事業を立ち上げた、ある人物の独白。幾度も差し挟まれる引用が、嘘と真実、過去と未来、現実と物語の境界を曖昧に揺らがせる。
【著者プロフィール】
夜田わけい(やだ・わけい)。詩人、小説家。静岡大学農学部環境森林科学科卒業、在学中にUniversity of Albertaに留学。技術士補。詩集『ヒョウカ、ライガイ』がAndrew CampanaによりTokyo Poetry Journal Vol.4に抄訳。2017年から3年間、空想科學小説コンテストにて最終候補。2019年、第五回中国国際科幻大会「100年後の成都」SF特別賞受賞。
https://www.resume.id/wakei_yada

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 原発の近くに住んでいたら、原発が事故ったときに補償が欲しいと思うのが人間の心だ。保険に加入していて、補償してくれると考えるなら、常識的に考えて、死に対する不安も和らぐのである*。私はこの事業を立ち上げるにあたり、世界中に存在する原発のありとあらゆる統計を参考にした。その結果、原発が存在する土地の方が地価が安く、人が住まないという点で大規模農耕に適しており、原発に近づけば近づくほど住民人口が減るという、大胆な発見をしたのである**。私の事業化のアイデアはここから生まれた。原発が事故を起こしたときに、我々の身の安全を確保し、生活の保証をしてくれる機関はどこにもないのである。そして都市部に行けば行くほど、人口が過密するため誤情報が拡散されやすく、農作物の安全性の問題や出身差別といった風評被害を受けやすくなる。こういった心理的な被害は、補償の対象からは一般的には外れているので、マーケティングのターゲットとして優秀である。そして心理的被害に関する最大の集客ポイントは、それを数量化することが極めて難しい点にある。学者が束になってかかっていっても、一度拡散された誤情報を是正することは難しく、加えて知識階級に対する反知性主義***が、「彼らの主張は特権階級のものである」「彼らの研究業績は権力に誘導されている」という神話を打ち立てるために、しばしば心理的な被害は心理的な被害の範疇に留まらず、実体的な物質としての被害へと変化し得る。ならば、その不安を産業にするのが、結果として不安の顕在化とリスクの計量の促進につながるのであり、一保険事業の職員としての社会的地位を保証するのみならず、世界に対する進歩的な貢献にも寄与するのである。そういうわけで、全世界のありとあらゆる原発の、単純な事故確率がいくらなのかを、世界中のあらゆる原発の事故例から推測した我々の統計データの存在が、ビッグデータ時代の産業構造の基盤とも呼ぶべきものになっているのである。

 我々は事態をより単純に考えるべきである。すなわち、世界にある原発は事故っていない原発の方が多いから、事故が起きたときに補償を行う原発保険を作り、事故時の予防安全の指導、例えばビール酵母やアルコールの摂取によって被爆後の生存率が高まる****という、データによる生活改善を行い、空調のシャットアウトによる放射能の摂取リスクを回避させ、内部被曝リスクを低減させるようにすれば、結果として事故後における健康被害のリスクも低下して、屋外暴露に対する室内暴露条件下*****での住民の健康データの集積につながり、そしてこれだけの幅広い指導に対する対価としての保険金を獲得すれば、基本的な生活不安に対する根本的な改善をはかることができる。何より、住民の不安よりも事故が起きたときの対応が保証されているため安全に行動しやすい。このことからして、私の事業は少なくとも原発のある地域からのみならず、原発のない地域からの保険料がメインの収益となっているのである。

*http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi/news/news0405.pdf 
死への恐怖心は死そのものに対してよりも、苦しみや痛みに対しての方が大きい。
**そういうデータはない。原因と結果の関係が逆転しており、厳密には、原発が建設される地域は人口が少ない土地が適している、もしくは原発が誘致される土地に人口の少ない土地が多い、という考え方がより正しいと言えよう。この手のデータはいくらでも捏造可能である。例えば月には原発は存在しないため、月面は原発による避難民が(2020年1月31日現時点では)最も少なく、原発による健康被害は観測されていない。しかしながら宇宙線が大量に降り注ぐため、もし月面にいれば(特に宇宙服なしなら)放射線被曝の程度は地球の大気圏内にいるレベルを遥かに上回る可能性が高い。このことは、宇宙空間にいる際の被曝線量のデータから類推した。地上で我々が日常生活を送る中での放射線による被ばく線量は、1年間で約2.4ミリシーベルトと言われているが、ISS滞在中の宇宙飛行士の被曝線量は、1日当たり0.5~1ミリシーベルトで、地上での約半年分の被曝線量を宇宙にいることで一日あたりに被曝する計算になる。
http://iss.jaxa.jp/med/research/radiation/
月面に到達した人類からのデータでも宇宙線が血管に影響を与えた可能性は指摘されているが、データの母数はそれほど多くない。 https://wired.jp/2016/08/02/astronauts-problems-death/
***組織の利害関係とデータによる利益誘導が合致している、というのはデータの根拠の否定にはよく使われる論法であるが、純粋な学問的探究のためにデータを集める側からすれば、思った通りの結果を出すためにデータの集め方を工夫するのは当然である。ただし、データの母集団をいくら大きくしても解析結果が変わらないことはある。 https://www.mhlw.go.jp/topics/2016/01/dl/tp0115-1-01-04p.pdf
これによれば、原発作業従事者の数が平成26年に2倍になっているが(母集団増加)、それに伴う100mSV以上の被曝線量の人数は増加していないどころか平成27年3月のある時期を除いて全体としては減っている印象が強い。これを「より安全で衛生的な労働環境になった」と見るべきか、「危険な作業は人間がやらなくなった」と見るべきかは議論が分かれる。『シンギュラリティの経済学』では、3.11以前のロボット技術ではできなかったことが、米国の国防総省の援助を受けて開発が進み、ロボットが担う部分が多くなったという論点が、示唆的に書かれている。
****原著論文が見つからなかったので誤情報の可能性が高い。https://togetter.com/li/153970 https://epajapan.jimdofree.com/note/doc2/
*****屋外暴露と室内暴露の差は樹木の建材の実験によく当てはめられる概念で、本来の用法とは異なっている。ちなみに、少なくとも室内にいることによる肥満リスクとの関係は導かれており、http://www.env.go.jp/chemi/rhm/study/pamphlet_R1.pdf
によれば、「(避難生活などによる)一時的な生活習慣の変化は発がんリスクに影響がない」と結論づけられている。

「原発保険なんてのは、原発リスク*の不安に漬け込む商売だ。」という人がいる。しかしながら、そういう人たちは原発のリスクを本質的には理解していないのである。私はそういう人たちに対して、このように説得する。「原発は風評被害を齎すリスクがあります。原発によって差別される人間が多く出るでしょう。そういった差別、社会的害悪から、保険による補償システムによってあなたの身を守ります。そしてこの補償は原発作業員に対しても正当な手続きを経てなされます。多くの原発作業員従事者が我が社の保険制度に加入しているのは、それだけ我々のサービスが充実していることの所作です。我が社は原発のあらゆるリスクを補償します。我々のサービスは原発補償として避難生活に必要な費用を通常の保険料とは別に負担し、がんが判明した際の入院費用も含めてすべてをカバーしています。」ここまで言うと大半の人は黙ってしまう。どころかこんなにいいサービスはないと思って、入りたがる人も出てくる。実際加入者はあらゆる地域にいる人々だ。原発が事故を起こした後に海外に移住した人に対しても、移住するまでは我々は保険料を支払っていた。こんなやり方で本当に採算が取れるのか、という人もいるだろう。なんのことはない、これは国民健康保険なのである。世間的に原発保険として売り出すと成功しないので、国民保険として保険料を国民全体から徴収するようにし、メンタルヘルスの悪化には自立支援医療でサポートし、放射能のデマは国が出す正確な情報の発表によって是正すれば、どんなに大規模な災害が起きて全国の原発が破壊されようと、国の補償によって生活を担保することができるのだ。

*実際、日本の原子力発電に関しては、ある種の賭けがあったと私は見ている。地震の起こりやすいこの国での原発の開発のリスクが非常に大きいことは、原子力発電に関するあらゆるデータをその明晰な頭脳に蓄えていた中曽根元首相も把握していたはずだ。しかしながらそれでもそういう状況において作られた原発というシステムを推進し、開発を進めて技術輸出をした方が結果的に儲けが大きいという打算も彼の中にはあったと思う。これには、第二次世界大戦中の被爆国という汚名を挽回する期待もあったのではないか。彼は101歳まで生き、その目に日本の歩みのすべてを焼き付けていたはずだ。大戦前と大戦後の日本の教育の変化も何もかもその身に覚えて知っていたはずだ。彼にはすべてが知っていることだった。彼は日本という国の経験であり、知だった。彼は日本の人々はおろか、世界の人々についたあらゆる操り糸の存在を知っていたはずだ。彼の目の中では世界全体の運動が極めて明瞭に見えていたに違いない。あらゆる出来事が彼の想定の範囲内であったはずだ。彼の辿った生涯を追うことは、彼そのもの、あるいは日本そのもののもつ強烈な磁場の観察をするようなものである。

 この原発保険は、最初にして最大のコンピューター、ないしはロボットに対する保険サービスでもある。なぜなら、原発の操作のミスは機械のミスでもあるからだ。原発の機械の操作の現場では、警報ランプがあまりにも沢山点灯しすぎたり、明滅音や警戒音が過剰であるために現場の判断ミスを誘発した例が数多く知られている*。こんにち我々が経験してきた原発事故の多くは、コンピューターの管理が十分に行き届かなかったことを理由に起こっていると見ることもできるし、逆にコンピューターであまりにも制御下に置きすぎたために起きたと見ることもできる。従って、間接的にはAIに対する保険サービスの先駆けとも呼べる存在なのである。なぜ、それまでそういうサービスがないのかを私は疑問に思っていたが、少し考えてみれば、AIやコンピューターの直接的な判断がじかに我々の命に直結するような状況というのは、原発作業員の間では当たり前のように起こっているのである。しかしながら、我々は都市に住むことによって、物理的にそれを回避している。と同時に、そういうサービスがあることは間接的に原発リスクを顕在化させるから、意識的に遠ざけようとしていたのである。私が事業を立ち上げてからは色々なことがあったが、基本的にはこの保険システムは、ないよりある世界の方が自分には納得がいく。人命優先という基本スタンスを守りさえすれば運用可能であるという端的な事実に気づいていれば、この保険システムのカバーする範疇の広さも極めて合理的で納得がいくものに思われるだろう。このような、世界にないシステムを可視化させるこの文章の存在は、ことによっては世界の不安を可視化することにもつながるかもしれないが、アメリカのように国民保険のない世界を見て学んだ反省や狡知とも言うことができるだろう**。そもそも根本からしてアメリカと政策が違うので、とりわけシンギュラリティについて議論するときには注意しなければならない。

*この論点に関しては、失敗事例 > 複合要因によるスリーマイル島(TMI)原子力発電所の炉心溶融事故  失敗事例 > チェルノブイリ原発の爆発 をはじめ、『統計学を拓いた異才たち』という本など、あらゆる本を参考にした。ただし、福島第1原子力発電所の事故に関しては、公式発表(http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856371/naiic.go.jp/blog/reports/summary/)ではコンピュータ側に原因があったという書き方は一切されていない。そもそも地震と津波で電源系統が一切喪失してしまい、現場の作業員も手探り状態であったことが、この資料からわかる。住民への事故後の説明も曖昧で矛盾していた。
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856371/naiic.go.jp/blog/reports/reference-documents/ref-4-2/
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3856371/naiic.go.jp/blog/reports/reference-documents/ref-4-3/
目につくものをいくつか引用する。
『我々末端の作業員には、全交流電源を喪失という情報等は全く流れてこなかった。私は、協力業者(元請け)の作業員であったが委託契約上24時間体制での対応が必要であった。当時勤めていた会社は、我々数名の社員が免震重要棟に残っていることを把握していたが、所長、副所長、放射線管理責任者等会社責任者は我先に各の家族らと共に避難してしまい、避難指示、行動指示は全くなかった。14日に何とか東京の本社と電話連絡をとったが、緊急対策体制は全く整っておらず、我々が重要免震棟に残り作業していることは把握していなかった。』

『3月11日16時頃に、みんなでいっせいに退社しましたが、原子炉が危険な状態であることは知りませんでした。退社する際は、皆で『また、明日来ます』といいながら退社しました』

『震災当日、発電所構内では地震のあとに「原対法**が発令されました」といった主旨の放送が1回あっただけで、それ以外の情報提供もなく、避難等、何の指示もなかった。避難訓練等、形骸化しているのではないかと危惧している』

『1.全社大で制定されている「非常時マニュアル」(正式名称は失念した)はあったが、全く役に立たなかった。なぜなら、それは社内イントラ上にデータとして存在し、地震直後からの停電によりネットワークは停止していたからである。ただし、紙でプリントアウトしてあっても、事務所内の書類は散逸がひどかったので、それを探し出し、それの指示に則って行動することは不可能だったと思われる。すなわち、マニュアルはあってもなくても、そもそも意味を成し得なかったのである。2.社内で放射線防護に関する研修はしばしば行われていたが、とにかく“5重の壁”があり絶対に大丈夫で、スリーマイルやチェルノブイリのような事故は、日本では絶対に起こりえないという内容だった。事故が起きないという前提のもと、それに都合のよい説明がなされているだけで、いつも疑問を感じていた。3.2000年のデータ改ざん問題以降、コンプライアンスや情報公開ということは、かなり徹底されていたとは思うが、それが工事の品質向上につながっていたかどうかといえば、甚だ疑問に思っていた。これほどまでの事故は予想しなかったが、いつか相当規模の事故が起きるだろうと考えてはいた。ひとたび事故を起こせば致命的な事象にいたるテクノロジーはやはり間違っている。原子力以外のエネルギーを選択するのが、3.11以後の日本人の叡知なのではないか』

『我々の会社は事故発生後、メンバーの多くは県外へ避難され、事故復旧に対応するのに時間を要しました。5月中旬頃にやっと対応でき1Fへ行くと、何でこんなに遅いんだと、なぜもっと早く対応しないんだと、向こうから一切連絡も無いのにひどい扱いをされました。復旧工事への対応はさせないと言われました。3月末までの大変な時期に行けなかったのは個々の都合によって無理な面も多かったと思います。色々な事情の中でやっと対応していこうと思ったのに、不要扱いされて今も続いています。とても辛い立場にあり、仕事も減り、会社もきつい状況になっています。ひとつの感情で工事の対応をしている人物が居る事を御理解下さい。誰のせいでも無いはずです』

『国の対応には怒りしか感じない。「事前の備えが」とよく耳にするが「全電源喪失は考えなくても良い」と決めていたのは法律であり「国」ではないのか?その事に対し、はたして誰が責任をとったのか?誰も責任など取っていない。おそらくこれからも責任をとるつもりなどないであろう。無責任でうらやましいです。こっちはあのような過酷な状況をなんとかしようと昼夜を問わず働き、家族や友人の安否もわからず、食事も睡眠も満足にとれない極限の状況から頑張って持ち直したのにもかかわらず、外野から聞こえてくるのは非難中傷だけでは生きている心地が致しません。原子力を「政策」と言っていたのはどなたですか?詳しいと言っていたのはどなたですか?乗りこんできて邪魔をしたのはどなたですか?全部東電が悪いという風に押し付け、自分は立場が変わったら四国にお遍路ですか?現場の人間を馬鹿にするのもいいかげんにして下さい。あれだけ「想定外の地震」と他の所で言っておいて原賠法の「天災」ではないっていうのも納得ができません。今回の地震、津波が「天災」でないのであれば「国策」でも民間業社が全責任を負うことになるんですね。国会議員(与党・野党全て)の皆様は無責任集団ですか?そんな方々に任せていると思うと国の将来なんてありませんね。「要望」国、政治屋の責任を明確にし、しっかりとした「責任」のとり方を希望します』

今引用したのは従業員の声だ。全部引用しているとキリがないが、こうして見ると従業員も結構辛辣な批判をしている。

報告書によれば、「福島第1原子力発電所の事故の根源的原因は、歴代の規制当局と東電との関係について、「規制する立場とされる立場が『逆転関係』となることによる原子力安全についての監視・監督機能の崩壊」が起きた点に求められると認識する。何度も事前に対策を立てるチャンスがあったことに鑑みれば、今回の事故は「自然災害」ではなくあきらかに「人災」である」とし、「政府、規制当局の住民の健康と安全を守る意思の欠如と健康を守る対策の遅れ、被害を受けた住民の生活基盤回復の対応の遅れ、さらには受け手の視点を考えない情報公表」に問題があるとしている。『AIと憲法』では、選挙における政治的嗜好がAIに操作されていた可能性が言及されているが、この一連の引用は、事故時における情報の錯綜をかなりはっきりと浮かび上がらせていて、AI以前の人間の現実認識の段階の問題を考えさせられる。本稿の論旨に反して、コンピュータの技術的なトラブルに相当するものは福島第1原子力発電所では起きておらず、現場の人間の事務処理的な対応が問題の根幹にあるのがよくわかるのだが、ここではそのようなシステムを構築している原発内部での出来事として総括する。
**厳密にはアメリカにも国民保険制度は存在するが、全員に対して機能してはいないのでこの文はそのまま通す。詳しくは『諸外国の医療保険制度の比較』https://kouiki-kansai.jp/material/files/group/3/1378455555.pdf 参照。

 批評家の池田雄一氏によれば、そもそもの前提としてユートピアには4種類あるという。彼の言葉を借りつつ、その4つの分類を提唱したマンハイムの言葉を読み解くと、その4つは、

①千年王国
:超越的、絶対的な今として神話化され、到来するのを待ち続けるか、憑依されることによって実現する
②自由主義:ユートピアは人間が実現するものとして捉えられていて、無限の彼方にあるもので、観念的かつ精神的で、制約を受け入れない自由の王国として考えられている
③保守主義:純粋な意識のままではユートピアをもたず、論敵である自由主義などによって自己を反省した結果として抱くようになるもので、ユートピアの理念が幻影ではなく現実として存在しており、制約を受けているということに自覚的
④社会主義・共産主義のユートピア:自分たちが制約を受けていることを重視し、物質への強いこだわりがあり、歴史そのものを自己展開として再構築し、ユートピアを理性の自己展開の結果として考えている

という4種類が存在する。池田の分類を彼自身が書いた表に従って引用した*。

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*2020年1月22日(奇しくも私の誕生日であると同時に作家安部公房の命日である。1993年、誕生と同時に安部公房の死去の号外が出た)に東京大学で行われた、池田雄一氏の『ユートピアと文学 4つの時空間、4つのイデオロギーをめぐって』というタイトルの講義による。彼の論文がまだ出ていないので、全体の骨格を概観した紹介に過ぎないが、ここではそのときにとったメモに合わせて、できるだけ彼の説明に忠実に表現してみた。

 さて、レイ・カーツワイルの考えた「シンギュラリティ」の概念は、この中のどれに当てはまるのだろう。私の見解では、この概念をユートピアの観点からまともに論じている人は多くない。それというのも、この概念の支持者も批判者も、ブルーカラーの全く関係のない人たちをも巻き込んだ形でもって、カーツワイルの「シンギュラリティ」概念が論争的に、非常に多様に解釈されているからである。例えば、バラク・オバマ大統領と伊藤穰一の対談*を読むと、二人とも個性的な主張をしつつ、恐らく本気で不老不死になることを信じているわけではないらしいということがわかるし、バラク・オバマはこのように言っている。

『(物事を経済的な観点から見るべきだと主張し)なぜなら、多くの人が心配しているのは、シンギュラリティではなく「自分の仕事は機械に取られてしまうのか」だからだ。』

* https://wired.jp/special/2016/barack-obama/ こちらの記事。シンギュラリティ概念の解釈はシンギュラリティ研究者によっても大きく異なっているので一括りにこうだと言うことは難しい。

 漠然と一般的なユートピアに照らすなら、千年王国的な捉え方になるのは労働者、ブルーカラーにとってのシンギュラリティだ。彼らにとっては、不死の到来と労働からの解放が技術的な到達点になるだろう。

 しかし、実際に実現するものとして捉えられているから、シンギュラリティは自由主義的でもある。この考え方を支持しているのは、SDGsとそれを推進する政府といった機関だろう。彼らにおけるシンギュラリティのイメージは、共有経済の実現や多様な社会の肯定という形で現れる。

 一方、こうした事態を現実として存在している(現に起こりうる)ものとして認識し、現実の技術的な制約を受けたもの、すなわち保守主義のユートピアとして捉えているのは、実際に人工知能の開発の現場にいる研究者であろう。人工知能研究者の山口優は、シンギュラリティを現に起こりうるものとして捉えており、彼の話や主張を読む限りは、技術目標ではなく今まさに現実に起こっていることとして語っている*。彼らにとっては、超人間的知性を持ったAIの開発、AIの自律化こそがまさに達成したい目標だろう。

 彼らの論敵の代表的な批判者、ジャン=ガブリエル・ガナシア**は、AIが自律的にならなければ人間は支配されないとし、そしてそれはコンピュータの原理から言って不可能だという。また、日本でも大野典宏は計算機科学的な観点からシンギュラリティを批判している***。彼ら批判者の要点をまとめるなら、コンピュータの原理からいって支配されたり仕事が失われたりすることはあり得ない、となっている。その姿勢は鉄の原理原則に基づいて社会を判断する社会主義・共産主義的なユートピア像にぴったり当てはまる。

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*山口優とのDMのやり取りや、http://prologuewave.com/archives/6019 の「技術進歩の不連続な飛躍。それより先は、現在の発展状況からどのようななめらかな関数によって外挿しようと合理的な予測ができない点です。それを為す主体はAIに限りません。エンハンスされた我々人類自身かもしれません。もしエンハンスされた人類が主体となるならば、AIという言葉は過去の旧い技術を描写するだけのものになるでしょう。我々の一部でしかないものに特別の名前をつける必要はありません。ただ、「人間」あるいは「私」の定義が少し変わるというだけです。」といった発言を参考にした。
**ガナシアの著書『虚妄のAI神話 シンギュラリティを葬り去る』の内容を簡約した。
***『サイバーカルチャートレンド』「SFマガジン2018年12月号」ここではゲーデルの不完全性定理により、計算不可能な関数δが存在し、それゆえにコンピューターがどれほど進歩しても計算不可能な領域が出てくる、といった形で紹介されているが、これは平たく言えば数学理論上で数学の限界が指摘されているという、数学的な(鉄の)論理によって批判的にシンギュラリティを分析したものである。

 当のカーツワイル自身のユートピア観はというと、実はどのユートピア観にも分類し難い。彼の言っていることを全体的に理解するのは困難で、彼の主張する技術それぞれに色々なユートピア像を割り振ることができるほどだ。その意味では彼の著作『ポスト・ヒューマン誕生(Singularity is Near)』それ自体が、ある種のユートピア文学の一つにさえ思えるほどだ。実際、カーツワイルはシンギュラリティを人工知能の能力が人間の能力を超える時点としては定義しておらず、$1,000で手に入るコンピュータの性能が全人類の脳の計算性能を上回る時点として定義しているのみであるため、極めて物質的なこだわりが強い。そしてまた、池田の分類から借用すれば、彼のアイデアはヴァーナー・ヴィンジのようなSF作家の作品にアイデアを借りている。すると彼自身の立場は社会主義・共産主義的なユートピア観に一致する。興味深いことに、対立していたはずの批判者の主張は見事にカーツワイル自身の立場と重なってしまうのである。ここで見たように、彼の思想の根底にあるアイデアはそのように社会主義・共産主義的なユートピアの側面を持っているのだが、彼の思想が達成するべきとした技術目標、例えば不老不死やベーシックインカムの導入や自律的AIの開発に関しては、それぞれ別のユートピア観に属しているアイデアなのだ。

 ところで、レイ・カーツワイルにとってのシンギュラリティは、あくまで国民皆保険のない、なんの頼れるものもない荒凉としたアメリカの土地に、人々が文明を作り独自発展させた場合に考えられているもので、このユートピア観は、極めて人工的な手触りのあるものであり、ある種の進化史観の延長でもある。しかしながら、我々のいる日本という国は、そもそもの憲法の構成要件(constitution)からして違っていて、この日本の憲法の構成や社会福祉制度は、千年王国的なユートピアや自由主義的なユートピアよりは、むしろ既存のユートピア観に対して反省的な態度から生じた保守主義的なユートピアや社会主義的なユートピアを前提としているように私には思われる。社会を構成する制度が、根本的に電力エネルギーの安定供給を前提としている以上、そこに従事するコンピュータも人間もみな一斉にこの保険に加担しているのである。少なくともそのように私には読める。

 さてその私自身はというと、この4種類のどれにも分類されないようなユートピアはどこに分類すればいいのか、ということを考えている。すでに見てきたように、シンギュラリティ概念はこの4つのユートピアのどの要素も持っていた。ところで、池田の定義によれば、ユートピア文学は、「自身のレジスタ(アメリカのマルクス主義者フレデリック・ジェームソンの言葉、言語使用域の意味だという)を『立て組みGestell』を記述する言語として外部世界と共有している」。彼の定義に照らし合わせるなら、純文学には純文学のレジスタが、ジャンル小説にはジャンル小説のレジスタが、ラノベにはラノベのレジスタがあるという。しかし、この定義は、言ってしまえば「ユートピア文学」というジャンルにも自家撞着的に当てはまってしまうため、この定義それ自体が大変に広い範囲に拡張可能になってしまっている。要するに、例えば千年王国的なレジスタを持っているユートピア文学と、自由主義的なレジスタを持っているユートピア文学の比較を検討する際には、池田の例では古井由吉と大江健三郎が対比されて論じられるのだが、古井由吉や大江健三郎にこの話を聞いて初めて触れるような読者に対しては、古井由吉と大江健三郎のそれぞれのレジスタによって千年王国的なユートピア文学と自由主義的なユートピア文学が規定されている、という風に事態が逆転してしまうのである。背後に前提とする文学的造詣がないと、せっかくの池田の区分は「立て組み」を記述しなくなる*。

 私の解決方法は次のようなものである。すなわち、この定義それ自体には、カント的に定言命法的な釈義を充てるのである。すると、この定義それ自体は池田の分類したユートピアに対しては再帰的には当てはまらない。ここで、私の考えた「木」の概念が出てくる。すなわち、池田の定義を「木」としたユートピアの4つの枝分かれの先に、それぞれの4つの分類がある、と考えるのだ。こうすることで、未分化なままの、分類されていない私的=詩的に想像されただけの「ユートピア」という観念自体を、取り出して扱うことが可能になる。シンギュラリティの概念も、この枝分かれする予定の「木」のユートピアと見ればよい。

 そしてまた、池田が指摘した『資本論』がユートピア文学であるという論点も、この相においてより理解可能となるだろう。『資本論』の「革命政権の樹立」「労働環境の改善・労働からの解放」という「鉄の論理」と、「機会平等の実現」「賃金格差の是正」という「予言書」的な二つに引き裂かれたテクストの側面は、この点から考えることによって統一的に理解することができるのだ。

*こういうやり方はあまり文学には見られない。だいたい枠組みを説明してポッと作家名を出すと納得し、附に落ちる、ということを前提とした直感的な論理であり、私のやり方は分析哲学の流儀に近い(と自分では思っている)。

 このように複雑な論理の手続きによってではあるのだが、差し迫った課題であるシンギュラリティを前に、それまで国民健康保険と考えられていたものが、原発保険という名前を使わないだけの仮構としての、AI・コンピューターの保険の先駆けだったという私の結論を導きたい。恐らく、AIが自律的に判断し自閉したシステムを構築するようになっても、結局人間が使いやすい形でしか運用されないので、事態はさほど変わらないだろう。そのような観点から現代の国民健康保険制度を見ると、これがシンギュラリティの考えられているアメリカに比して極めて異質な制度で、ベーシックインカムの先駆け的なものにも思えてくるのである。

http://www.kansai-u.ac.jp/Fc_ss/english/report/study/pdf/bulletin008_14.pdf世界の原発はどうなっているのか? | 経済産業省 METI Journal
東京電力福島第一原子力発電所事故による農畜水産物等への影響:農林水産省
農産物に含まれる放射性セシウム濃度の検査結果(随時更新):農林水産省
http://web.shs.kyushu-u.ac.jp/~nohtomi/Student_download/housyasen-3.pdf


(了)

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