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継ぎ手(加藤晃生)

【カテゴリ】小説
【文字数】約10500文字
【あらすじ】
入社した大手システム会社で心身をすり減らし、退職に追い込まれたマリコ。その後は発達障害と診断され、引きこもりのような生活を続けていた。
しかしある日、そんなマリコに転機が訪れる。通っていた就労支援施設からシステムエンジニアの仕事を紹介されたのだ。仕事上のコミュニケーションに不安を抱えるマリコだったが、相談したゲーム仲間に、自然言語処理AIを用いたあるプラグインの利用を提案される……
【著者プロフィール】
加藤晃生。博士(比較文明学)。人材系スタートアップ、翻訳家、大学講師などを経て現在はフリーランスで商品開発・人材育成・商品プロモーション・サービス開発などのコンサルティングを行う。社会学・文化人類学分野で論文・翻訳多数。2019年からは小説執筆にも取り組み、NovelJam2019グランプリ受賞。またスペインの大ヒット小説「アラトリステ」シリーズやその映画版の翻訳にも関わる。

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解説:AIと自然言語処理

現在、凄まじい勢いで技術革新が進んでいるのがAIによる自然言語処理(Natural Language Processing)分野です。

日本国内では新井紀子の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、国産の自然言語処理AIが大学入試の模擬試験で低調な成績しか出なかったという話が話題になりましたが、あの本を書いた時点での新井紀子の立場は、ディープラーニングでは自然言語処理の性能向上には限界があるというものでした。

ところがまさにあの頃、世界ではディープラーニングを使った自然言語処理がブレイクスルーを起こしていました。グーグルが2018年の秋に発表したBERT(Bidirectional Encoder Representations)がNLP tasksと呼ばれるベンチマークテスト群で記録を次々に更新し、人間の記録に迫ったのです。

その後、カーネギーメロン大学とグーグルブレインが発表したXLNet、マイクロソフトのMT-DNN、オープンAIのGPTシリーズ(本記事執筆時点ではGPT-3が1750億という桁外れのパラメータ数を実装して話題を攫っています)など、有名なモデルが次々に性能を更新し、既に最先端のAIが書いた文章と人間が書いた文章を見分けることは、ほぼ不可能になっています。

この分野の情報に興味ある方には以下のリンクをお勧めしておきます。

・小猫遊りょう(たかにゃし・りょう)さんのツイッター
https://twitter.com/jaguring1
門外漢にもわかりやすく、最新の自然言語処理研究の情報を紹介しておられます。

・AINOW
https://ainow.ai/
ビジネスパーソン向けにAIの最新情報を紹介しているメディアです。

・AIスコラー
https://ai-scholar.tech/
専門家向けメディアですが、日本語でAI研究の最新論文の情報を随時更新しています。

(以下本文)

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 午前8時59分。

 マリコは左手にはめたスマートウォッチの画面を見つめている。

 秒針が12時の位置に近づいてゆく。

 右手の人差し指が、足元に置かれたPCの電源スイッチの上に置かれる。

 午前9時。

 マリコの前に置かれた四つの液晶ディスプレイが同時に目を覚ます。

 正面にはWQHDの27インチ。その上にFullHDの23インチ。

 左右にはFullHDの23インチを縦置きで。

 マリコは真紅のゲーミングヘッドホンを装着し、お気に入りの音楽を流す。インカムは外してある。マリコは音声チャットもビデオチャットも使わない。

 電源スイッチを押して20秒後には、PCは完全に使える状態になっていた。CPUはこのPCだけ、インテルの最新世代のi9。ディスクはもちろんSSDだ。4枚の液晶パネルを駆動するためのゲーミングスペックのグラフィックボード。水冷CPUクーラー。静音化リングを入れたゲーミングキーボードが七色に光っている。マリコの右手の下にあるのは、様々なマクロを組み込んだゲーミングマウス。

 この席にあるPCだけで、他の社員が使っているノートPCが8台は買えるはずだ。だが、マリコはそれを当然だと思っている。マリコがここでやっている作業は、他の社員が8人束になっても出来ない作業だからだ。

 マリコは、とある地方都市の中小企業に勤めるシステムエンジニアである。

 29歳。そして、精神障害者。障害等級は3級。診断は発達障害。手帳の交付を受けたのは3年前。そして1年前に、障害者雇用枠でこの会社に入った。

 もともと、学校の成績は良い方だった。

 大学も地元の国立大の情報科学研究科というところに現役で入り、優秀といって良い成績で卒業して、東京に本社がある老舗の大手システム会社に就職した。職種はシステムエンジニア。

 そこからマリコの人生は暗転した。

 システム会社という響きから想像していたスマートさは、そこには無かった。曖昧な言葉で話すクライアントと個人的な責任回避に終始する上司に振り回され、心も体もボロボロになったマリコは、入社から1年9ヶ月で休職に追い込まれた。

 3ヶ月の休職期間が終わると、マリコは人事部に所属が変わっていた。人事部長は、親会社から送り込まれた50代の「使えないおじさん」で、気合いとゴマすりと滅私奉公と男尊女卑を3:3:3:1で混紡したような人物だった。

 そして、精神疾患への軽蔑を隠そうともしていなかった。

 マリコは会社を辞め、寮を引き払って実家に帰った。

 実家に帰ってから最初の2年間は、いわゆる引きこもり状態だった。ほとんどの時間を自分の部屋の中で過ごした。両親は色々なところで相談していたらしいが、外に出て以前のように働くことは無理だった。そんなことをしたら、今度こそ死んでしまう。

 この頃からマリコが夢中になったのは、オンラインゲームだ。サードパーソン・シューティングゲーム。略してTPS。自分のキャラクターを少し後ろからカメラが追いかけるようなシューティングゲームである。これをひたすらにやっていた。他人のゲーム実況動画も山のように見た。

 もともと、理詰めで考えてあれこれ工夫するのが好きだったマリコに、TPSは意外にも向いていた。TPSは反射神経だけで勝てるゲームではない。ゲームシステムやゲーム空間の緻密な分析と試行錯誤を積み重ねなければ、ランキングを上げることは出来ない。マリコは反射神経は人並みだったが、データ集めと分析はずば抜けていた。

 またたく間にマリコは有力プレーヤーとして知られるようになり、一緒にプレイしませんかという誘いが次々に届き始めた。

 マリコは戸惑った。

 会社を辞めてからずっと、自分は何の価値も無い人間だと感じていたからだ。これほど多くの人に自分が求められているということに、困惑した。恐怖すら感じた。再び他人と関わることへの恐怖だ。

 この恐怖は拭い難かったが、再び他人と繋がりたいという気持ちも、日増しに強くなっていった。

 試しにdiscordのアカウントを作ってみた。すぐに沢山のゲーマーが友人申請を送ってきた。

 Twitterのアカウントも作ってみた。すぐに沢山のゲーマーにフォローされた。

 そっと、そっと、マリコは他人と関わることに戻っていった。

 同じような悩みや生き辛さを抱えている女性と繋がり、一緒にゲームをして、そっとTwitterで励ましあい、何とかその日その日を生き延びた。

 実家に帰って3年目。体調もかなり回復してきたマリコは、アルバイトに出てみた。地方都市はどこも人手不足だったから、働き口はすぐに見つかった。ドラッグストアチェーンの店員だ。

 しかし、3ヶ月も持たなかった。はっきりしない指示、人によって言うことが違う仕事のやり方、どこにも書かれていない「決まり」。全てがマリコの精神力を削り取った。3ヶ所でアルバイトをしてみたけれど、どこも似たようなものだった。この頃、発達障害という診断が出た。障害者手帳も交付を受けた。

 両親は複雑な表情をしていたが、マリコ自身は、やっと自分のことが少しわかるようになったと思っていた。今までは、自分というものが何故これほどに、自分自身でも扱いづらいのか、さっぱりわからなかったからだ。

 5年目。母親が半ば引きずるようにしてマリコを障害者就労支援施設というところに連れて行った。詳しくは障害者就労移行支援という。障害者の就職を助ける福祉施設である。どこかで薦められたらしい。マリコはもとよりそんなところに通うつもりは無かった。ただ、母親が少し気の毒に思えたから、顔を立てたのだ。

 だが、意外にもそこはマリコにとって居心地の良い場所だった。

 たまたまかもしれないが、施設の責任者もゲーマーだった。

 見学に訪れたマリコは、施設の一角に貼られたポスターに目を止めた。マリコがやり込んでいるTPSのポスターだ。マリコの視線に気づいた施設長は、嬉しそうな表情で言った。

「あれね、みんな大好きなんですよ」
「え」
「うちに来てる利用者さん。ほとんどの人がやってます。ほら」

 施設長が指差した先には、TPSのキャラクターのフィギュアが10体ほど並べられている。

「ゲームってコミュニケーションの練習としても良いんじゃないかと思ってるんですよ、私。皆で協力する練習。勝てなくても良いわけですし。っていうか、滅多に勝てないですしね、あれ。矢部さんもやられるんですか?」
「はい……少しですけど」

 思わず嘘をついてしまった。

 だが、この嘘は長くは保たなかった。

 ゲームにつられて施設の利用登録をしたマリコは、初めて施設でやったTPSで圧勝してしまったのだ。その日からマリコは、施設内で一目置かれる存在となった。施設の利用者でチームを組んでのネット対戦では、連勝に継ぐ連勝。最初はマリコの力だけで勝っていたが、上のステージに行くとそれでは通用しない。他の利用者にもテクニックを教え、チームワークを考え。
ついには施設の利用者チームが「抜群のテクニックと連携で健常者を圧倒する障害者ゲーマーたち」という見出しで、地方紙に登場するまでになった。
そうして1年ほど経った頃、ある支援員が見つけてきたのが、この会社の求人だったのだ。

「マリコさん、障害者雇用枠の求人でシステムエンジニアを探してるよ、これ」

 というリンクとともにdiscordのチャットに送られてきたスクショには、確かに契約社員ではなく雇用期間の無い正社員で、システムエンジニアで、給与月額25万円以上、賞与あり、各種社保完備と書かれていた。

「どうせ下肢障害とかが希望じゃないですか」

 地方都市はクルマ社会だから、車椅子の人もクルマにさえ乗ってしまえば、ほとんどドアトゥドアで職場まで行ける。そして、扱いが難しいと言われている精神障害者よりも身体障害者を好んで雇いたがるのは、どこの会社も同じだった。マリコも何度か面接には行ってはみたものの、思うような仕事には出会えないままだ。所詮、自分の居場所はゲームの世界だけなのではないか。

「でもこれ、求人出てから結構経ってる」

 確かに、求人が出たのは3ヶ月も前だ。こんな高待遇で何故決まらないのだろう。

「すごいブラック企業だったりしませんか」
「知り合いに聞いてみたんだけど、前はブラックだったって」
「やっぱし」

 鬼の顔のスタンプを連打。

「でも、少し前に社長さんが二代目になってから、色々と変わったって」
「んー、考えてみるわ」
「りょ」

 そんなやり取りを交わしてから1週間後、ものは試しだからと、マリコは支援員と一緒にこの会社にやって来た。

 応接室に現れたのは、想像以上に若い男性だった。マリコと10歳も違わないように見えたが、差し出された名刺には代表取締役社長と書かれている。社長はマリコの履歴書と職務経歴書をチェック済みだったらしく、いきなり本題に入った。

「矢部さん、CRMクラウドって触ったことあるかな?」
「CRMクラウド……ですか?」
「顧客管理用のクラウド。セールスフォース・ドットコムとかKintoneとか」
「すいません、使ったことは無いです……」

 ああ、終わった、と思った。

 ところが、終わっていなかった。

「でも前の会社でオラクルやSAPやってたんでしょ?」
「はい……」
「なら大丈夫じゃないかなあ。みんな、私には無理ですって逃げちゃうんだよね」

 私にだって無理だと思う。

「やって欲しいのは、CRMクラウドの管理なんですよ。社員のアカウントの管理とか、情報共有の管理とか。うちの社員、みんなパソコンに弱くてね」

ああ、駄目だ。私はパソコンは怖くない。怖いのは人間だ。曖昧な言葉を使う人たちだ。

「どうかな?」
「あの、実際に触ってみないと……」
「ああ、そうだよね。じゃあ、そうだな、一週間後にまた連絡します」

 何でこの人はこんなに前向きなんだろう。私は精神障害者なんだぞ、とマリコは思った。曖昧に返事をして応接室を出る。駅まで支援員さんと一緒に戻って、そこで解散。
 夕方、支援員さんにメッセージを入れた。

「あの社長さん、何であんなに乗り気なんでしょう」

 すぐに返事が来た。

「ビジネス大学院で障害者福祉のことを色々やってたみたいです。どうしますか? 断りますか?」

 マリコは少し考えてから返信した。

「ちょっと調べてみてからでいいですか」
「もちろん! じっくり調べてください」

 マリコはdiscordを閉じると、Twitterのアイコンをタップする。幾つか使っているアカウントのうち、気の合うゲーム仲間だけがフォローしている鍵アカウントを選んでツイート。

「面接行って来たー。SEやってくれって言うんだけど、やれる気がしない」

 すぐにレスが付く。

「メディックさんなら出来そう」

 メディックというのはマリコが使っているアカウント名だ。仮面ライダードライブに出てくる怪物の名前である。

「PCは出来るけど、おっさんの相手が無理」
「それな」
「私もおじさんLINEつらい。ブロックしてえ」
「おじさんLINEまじ地獄」
「私は既読スルー」
「豆腐メンタルだからそれも出来ん」

 スレッドが一気に盛り上がる。皆、おじさんの相手には苦労しているのだ。まして自分は薬を飲んで何とか世間の考える「普通」に片手が引っかかっている程度の人間である。

 やはり断ろう。

 そう思った時、自分宛てのメンション付きで新しいレスが付いた。

「これ試してみるとか」

 書き込んだのは、このアカウントのフォロワーの中では数少ない男性のタルキさんである。テック系のライターが本業らしく、彼の本アカではいつも目新しいガジェットの情報がツイートされている。

 レスに入っていた短縮リンクをタップ。

 やはりデジタルガジェットのニュースサイトだった。1年前の日付だ。

「自然言語処理プログラムで自閉症スペクトラムの人と定型発達の人のコミュニケーションをスムーズにするAIモデレーター登場」

 タイトルを見ただけでは何のことだかよくわからない。

「既に各種ベンチマークで人間の平均スコアを遥かに凌駕するレベルに達したディープラーニングによる自然言語処理プログラムを活用し、自閉症や発達障害の人々と定型発達の人々のコミュニケーションを支援するクラウドサービスがオープンβテスト段階に入った」
「このサービスはセールスフォース・ドットコムのapp exchangeにおいてSaaSアプリとして提供される予定」

 自然言語処理プログラム、セールスフォース・ドットコム、app exchangeで検索してみたマリコは、これが何を意味するのかを何となく理解した。

 自分のような、曖昧な表現で伝達されるのが苦手な人間と、曖昧な表現を使っても苦にならない人間。自分のような、はっきりとした物言いを好む人間と、はっきりとした物言いを嫌う人間。その間に入って、言葉のやり取りの上での行き違いを無くしてくれるアプリらしい。

 タルキさんにレスを返す。

「いいかも」

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