教育はコンテンツドリブンなのか? 学びのガイドラインを僕に送る

大学に入学して僕は何を学んできたのだろうか。

不確実といわれる時代において僕という人間は何を選択していけばよいのだろうか、どうすれば僕は幸せを生み出せて、どうすればそれを伝播できるのか、それが自分にできるのかそのような不安が多くなってきた。

しかし、僕は何も勉強をしてこなかったわけではないと自負はしている。僕はコンピュータサイエンスをはじめとした技術の修得には人一倍の熱量と努力を注いだ。実際、学生の身分ながら個人宛にソフトウェア開発のお仕事までいただき、それをやりとげることでなんとなく社会の小さなセグメントを生み出せたような感覚はある。だが、それだけではなにか満たされない僕自身がここにいる。

だが、大学生活も半ばを迎え、これまで先生方からたくさんの「こと」を教えていただいた。だが、それだけでは言葉にできないものがあった。それは「魂」である。僕は所属していた研究会からも、そして大学の友人からもたくさんの魂を分けてもらった。そしてその魂は僕の価値観を良い方向へストレートに変えてくださった。だが、その魂が言語化できなかったからこそ自分の学びの本質がつかめていなかった事実に気づき、この記事はこれまで頂いた魂をなんとか言語化し、今後の僕に向けた学びのガイドラインを記録しておきたいと思い執筆した。

だが、実際その魂を僕はすべて自分のものにできているわけではない。だからこそ迷走しているとき、悩んでいるとき、逆にやり遂げたとき、そんなときにこの僕へのガイドラインを見直していきたい。

自分の言葉から勉強する。自分の言葉にできて初めて「体得」できることがある。自分の言葉という宝物を、何かしらのカタチで残しておきたい。そんなことをふと8月の終わりに友人と話しているうちに思い、とっさな勢いで書いた。文中には訴えかける箇所もありますが、これは筆者(僕)に対する教えです。なにも(記事を読んでいただいているみなさんに)強いているわけではないので、どうかご理解いただければと思う。

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僕が通っているSFCは問題発見解決型のキャンパスというキャッチフレーズで知られている。最近ではSFC以外でも問題発見解決プログラムなどを中等教育から取り入れる学校も増えてきた。その反面、この言葉がトレンド化しつつあり、本質を見失っていないかと伺えるような事例も多くなった。しかし、問題発見解決型の教育にはそもそもどういう時代背景があり、何が論点なのかを整理してみたく、このブログを僕の視点で書かせていただいた。在学生としてこのメッセージの大切さを骨の髄まで叩けるかどうかで、SFCの学び、視点が大きく変容すると僕個人的には感じている。一つの意見としてご参考になれば嬉しい。

しかしながら、このメッセージをパーパスに置き、SFCでの学びのストーリーを描いている人は本当に少数だと僕は思う。このブログを書いている僕も、自身の解釈を最近、言語化でき、いままでの学びを振り返るとすべてをこの考えに基づいてこれたわけではない。だからこそ、新たな解釈の選択肢となればと思いこのブログを書いた。
注意いただきたいのはSFCの公式見解等では一切なく、私自身の独断と偏見に基づく構成、解釈であることを添えておく。そのため個人の主張にとどまることを念頭に読んでいただきたい。SFCの進学等を意図的に進めるものでもない。

SFCの特徴はなにかと聞くと、「理系と文系の区別がない」、「幅広いコンテンツが学べてカリキュラムが自由」、「分野横断的な学び」という意見を内外問わずよく耳にする。だが僕は本質的な着眼点だとはまったく思わない。
そもそも”なぜ”このような縦割りに問題意識を持ったのか、その背景を考える必要があるだろう。僕の見解では縦割りにしたコンテンツドリブンな対応ではこれからの世界は描けない。すべてはここに帰着する。すなわち複雑多様な問題解決に対しては、これまでのルールベースの議論やフレームワークだけでは解決しないというメッセージだ。メッセージを担保するため一つ題材として、価値観が多様化しさらに享受される社会において、テクノロジードリブンな世界だけで世の中は果たして幸せになるのか? ぜひ考えてみてほしい。ICTの発展と環境問題を背景に一躍注目が集まったスマートシティはまさにその例であろう。テクノロジーの導入によって暮らしをより「スマート」にする”はずだった”プロジェクトは、正直、ディベロッパーのエゴに過ぎず、テクノロジー以前にコミュニティーという単位に着眼点を置けず失敗した事例が多い。Googleが行ったSidewalk Torontoはまさに典型的な例だろう。そして何かと話題なDX(Digital transformation)もテクノロジードリブンな考えに陥りがちで、目的不在だからこそDXによるデータのサイロ化、セキュリティインシデントなど様々問題がみられる。すべての情報をデジタル化する以前に、デジタル化によってどのような恩恵が得られるのか、すなわち、デジタル化したデータはどのようなオケージョンでどのように用いられ、どのようなベネフィットを生むのか、そのベネフィットは世の中の幸せにつながるのかというSo whatな問いへの探索を続けてることが大切だ。僕をはじめエンジニアが陥りがちな考え方として、どうデジタル化しようかという方法論的な議論が先行するのは、DXの背景や問いに対する明快な取り組みとは言えない。

事例まで挙げて伝えたかった事、それはテクノロジーという人間の欲望の方向性、その合理性の道筋は誰が決めるのか考える必要がある。いわゆる「理系と呼ばれる人」だけ(というか文系・理系という縦割りの社会分断をしている限り)では必ずしも人々にとって幸せな世界は作れない。また、テクノロジー単体だけが必ずしも人々の幸せに寄与するわけではない。価値観が多様性が享受される時代において、幸せを作り出しているのはテクノロジーだけではなく、その根幹には幸せとはなにかを導くナビゲーションがある。SFCは、まさに後者を担う、すなわちナビゲーション、先導者となる人材の育成に力を入れていると僕は思う。このナビゲーションをもとにテクノロジーが生まれ、そして使われ、最終的にテクノロジーが生み出す価値が”人”へ届く。僕がかかわっているブロックチェーン業界、さらにはエネルギー業界にいると「ナビゲーション」の大切さは身にしみて感じることだ。

これらを踏まえると、大学4年間で得られること、得るべきことははコンテンツだけではない(と僕は思う)。多様性が認められた結果として、新たな価値創出、伝達、付加価値による創造の連鎖を生み出すことが今、世界の命題となっている。ある一つのものを量産し、輸出システムに頼るいわゆる1to100のスケール世界ではなく、人々の幸せをもとに、本質を見直し、新たな世界へとナビゲーションを行う0to1の時代である。しかし、そもそも0to1時代のように様々な価値が生み出される世界で、それらの価値の変化に対応する力は必ずしもこれまで通りコンテンツだけなのか? 求められるのは量産型な世界なのか?そもそも本質を見直す力はルールベースありきの知識だけなのか?これまでとは価値創造が異なる(新たな選択肢でもある)世界に向けた教育を受けているのか?受けようとしているのか?そういう教育への問いかけが必要ではないかと思う。

そのうえで、大学で受けている教育の性質に着目したい。僕の見解では高校と大学で主に求められる思考のレイヤーは1段違う。高校では指導要領、大学受験というすでに引かれたストーリーの上にコンテンツの補完をしていく。つまり良い(大体は偏差値の高い)大学に進学する、させたいという目標に対し、学校、塾の教育という同じストーリー、すなわち解決フレームワーク(受験システム)の上に多くの高校生が、それぞれコンテンツの補完を行っている。高校生で求められる力はコンテンツの補完力だとも言えるだろう。しかし、0to1時代における本質の見直しには、コンテンツ以前に、システムに対して問いただす力が必要である。すなわち先ほど挙げたSo whatな問いへの探索力(インサイト)だ。だが、それだけではなく描きたい未来から現在までの逆算であるストーリーを描き、実現可能な部分にまで落とし込む力も同じく求められる。インサイトから生まれた問題意識をもとにどうしたいのか、そうするべきなのか、ここまでできて初めてナビゲーションだ。だが、この力は高校までは本質的に問われなかった力だからこそ、学びの本質が異なるという気づき、さらには実際にそれらを体得し、力が身につくまではおそらく相当な時間が必要である。いわゆる頭は良くて勉強はできるが何をすればわからないという人は、ここに気づけていないことが多い。しかし、これこそが高校との一番のギャップだと思うが、これを学部生活4年間をかけて気付けるSFC、それこそSFCの本質であり魅力ではないかと思う。

これらを踏まえると、SFCと他学部(他大学)の評価軸はコンテンツ軸ではない。すなわちコンテンツを軸(積み上げることで)に自らのストーリーを描き上げるのではなく、自らのストーリーを軸にコンテンツを補完していく。このような学びのストーリーが求められているのではないかと僕は思う。SFCは多様なコンテンツを広く深く学べる場所という全知全能のような認識ではなく、自らストーリーを作り出し、そのコンテンツを埋めるという自走力、すなわち変化に対する対応力、生み出す力に対する教育を目的としており、そのような環境の維持を行っていると僕は思う。まさにこの力こそが問題発見解決の原点であり生産活動の土台である。要約すると、SFCは自分のストーリーに足りない(補完する)具材を買いに行くスーパーマーケット的存在であり、ストーリーに深みと説得力を持たせるための要求に答えられる大体の学問(コンテンツ)の幅と深さを用意している。SFCのコンテンツは、コンテンツの深みを追い求めるのではなく、コンテンツに含まれる構造体、パターン、変化を意識することで本質にリーチする能力を得ることに主眼を置いているのではないかと僕は思う。つまり学びの軸はコンテンツではなく、問いそのものである。そのため学びに対するストーリーを意識すれば、基本的に分野横断という意識はなくなる。分野横断というのは主目的(意識的に作り出すもの)ではなくあくまで必然的に起こり得る現象に過ぎない。だからこそコンテンツを評価軸にすること自体、SFCの目指すこのコンセプトに対する明快な論点ではない。

そして最初の問いに立ち返ると、問題発見解決型の学びはコンテンツドリブンな教育の脱却であり、ストーリードリブンな教育という新しい教育の選択肢であることをこの記事でお伝えしたいメッセージとして残したい。

ビジネス用語で「選択と集中」という言葉がある。それは経営の方向性(ナビゲーション)を選択をしたのち、そのナビゲーションを達成するために全勢力を割り振って集中的に事業を拡大していくことを指す。少し小難しい話なので大学受験で例えて説明すると、まず受験勉強を本格的に始める前に、勉強したい分野、行きたい学部を決めて、そして進学したい大学を「選択」し合格までのストーリを描いた。そしてその後は受験勉強という形でストーリ上のコンテンツの補完に「集中」をしてきた。大学受験を経験した人であれば、必然的にこの「選択と集中」は皆が経験していると思う。

しかし、これまで、というか今現在でも私たちは”過度”に集中力を求められてきた。すなわちコンテンツの補完だ。だけど裏を返せば私たちは「集中すること」に集中しすぎて、相対的に「選択」の重要性に着眼点を置けていないのではないかと僕は思う。

よく今後の発展において「文系人材は技術革新が持たされる時代で~ではないか」のような、いわゆる非理系人材の存在意義を問うような意見を巷で見かける機会が増えた。だが、あえてそういう分け方をしたいのであれば、これからの不確実な未来に向けてナビゲーションができるか、できないかという二択であると僕は思う。文系・理系というコンテンツという分け方ではなく、そもそもの条件軸が違う。「集中力」だけではなく、「選択力」の分類をすべきだ。記事の頭出しとして、縦割りにしたコンテンツドリブンな対応ではこれからの世界は描けないという趣旨を主張したのはこのためだ。もちろん僕自身もコンピュータサイエンスを専攻する身として、AIやビッグデータなどの技術(コンテンツ)は未来を描くうえで重要なエクストリームなコンテンツだと思う。もちろん、このような技術への期待値の高さ、情報技術が生活空間に浸透している現状を考えると、これからの未来をナビゲーションをしていく上ではそれらの素養も必要とされる場面も多いだろう。そういう上では理系人材は確かにアドバンテージかもしれない。だが、裏を返せばそれらのコンテンツに”社会的な強み”を持てる理由は、既にナビゲーションが確立されている、つまりストーリーが存在するからこそ、そのストーリーを一歩進められるという余白が存在するからだ。しかし、本当に問うべきことは、私たちの未来は果たして今あるナビゲーションだけで描けるのか、今あるナビゲーションが本当に私たちが生きる、子孫を残す未来にとって相応しいのかという問題意識に重点が置けばよいと僕自身は思っている。

目の前の問いではなく未来への問いを考える、選択する。それが私たちにできるナビゲーションであり、私たちの未来を作り出す新たな「エネルギー源」である、と僕は思う。

この視点に気づけるまで時間がかかったので、ぜひ参考までに共有させていただきたい。


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