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誰かの役に立っていなくても生きていていい

私は1年ほど前に双極性障害と診断され、現在、会社を休職中です。少し前までは、会社を休んでいることや、何もせずに寝たり食べたりしていることに罪悪感があり、夜寝る前には、上司や両親が自分のことを批判するイメージが頭に浮かぶので、睡眠薬を飲まなければ眠れませんでした。

1ヶ月前くらいから、考え方に良い変化があり、罪悪感を感じずに、楽しんで生活をすることができています。特に「ただ生きていることの価値」を自分自身で認めることができるようになったことが、一番良かったと思います。ご飯を食べたり、ぐっすり寝たり、猫を撫でたり、そういう日常を楽しむことに、何の条件も資格も、誰かからの承認も必要ないということに気づくことができました。もっと簡単にいうと、誰かの役に立っていなくても生きていていいと、自分を許すことができたように思います。

また、休職中なので誰に見られると言うわけではないですが、髪型を整えたり、肌を保湿したりしています。そういうことをしたのは、人生で初めてかもしれません。これまでの人生は、何をするにも「誰かによく思われるため」「誰かに迷惑をかけないため」という外発的なものが動機でしたが、現在は、「より楽しく生きていくため」という、内発的なものが動機となっています。

そのため、特段、何を成し遂げないといけないとか、仕事で成功しなければならないとか、そういう強迫的な考えはなくなりました。仕事についても、自分が楽しく生きることが目的だと思っています。お金を稼げば、それだけ美味しいものを食べたり、旅行したりできます。そういう喜びのために働くのだと思えば、かなり気が楽になります。

もし「ただ生きていることの価値」を自分自身で認められないと、他人からの評価がその拠り所となってしまいます。それが承認欲求という強迫的な形となって現れ、異常なまでに人に好かれようと無理をしたり、常に顔色を伺うといった神経をすり減らすような行動をとってしまうようになります。

そのため、「〜したい」「〜したくない」という自分の感覚よりも、「〜するべき」「〜しなければならない」といった考え方を優先させるので、本当の自分の気持ちがわからなくなりますし、無理をして嫌なことをせざるを得なくなります。気付いた時にはストレスがキャパシティを超えて、適応障害やうつ症状が出てしまうということにもなりかねません。

しかし、「仕事をしたくないからといって、しないわけにはいかないでしょ」「それじゃあ社会で通用しないよ」というような反論が想定できますし、少し前の自分もそう思っていました。ただ、それこそ「〜するべき」という考えに囚われている証拠なんだと思います。

もし「仕事をしたくない」という感覚を受け入れることができていれば、下記のような解決策を思い付くことができるはずです。

・今日は気分が乗らないから、少し仕事量を減らそう。
・ストレスが溜まってるかもしれないから、今週どこかで休みをとろう。
・もしかすると、仕事が向いていないかもしれないから、転職を検討しよう。
・今日はいつもより贅沢をして自分にご褒美をあげよう。

そもそも「仕事をしたくない」と思うこと自体は自由ですし、心の中のことまで、人にあれこれ言われる筋合いはないはずです。心の中で何を思おうが、それはその人の自由だと思います。もちろん「しなければいけないこと」もあるので、そういう物事とバランスをとって、なるべく自分の思いが優先されるように工夫をしていくといった生き方こそが、生産的なのではないかと思います。

また、どれだけ他人に好かれようと頑張っても、期待通りに好かれるとは限りません。なぜなら、たとえ自分の思い通りにならない存在でも、好きな人は好きだし、自分の思い通りになったとしても、嫌いな人は嫌いです。きっと、自分がどんな努力をしたり、ご機嫌とりをしたとしても、自分のことを嫌いな人は、おそらくずっと嫌いですし、自分のことを好きな人は、たとえ自分が何か失敗をしたとしても、励ましてくれたりフォローしてくれるはずです。

もちろん人の悪口を言ったり、自分勝手なことばかりしていれば、色んな人に嫌われてしまうかもしれませんが、そういう思い当たる節がなくても、理由なく何となく嫌われることもあります。努力じゃどうしようもないこともあります。ですので、誰かに承認されるために頑張っても虚しいだけです。そんな非生産的なことではなくて、自分のことをもっと好きになれるようなことや楽しいことを、たくさんすればいいのではないかと思っています。

実際のところ、罪悪感なく休めるようになってから、不思議と色んなことに対して意欲が湧いてきました。きっと「誰かに認められること」「誰かに愛されること」ではなくて、「自分がより人生を楽しむこと」にフォーカスすることができているからだと思います。

生きていることに罪悪感がある状態というのは、かなり辛いです。自分の場合、家庭環境にも問題があったので、幼い頃から自分の存在が本当に必要なのかを疑問視してきました。だからこそ、誰かの役に立って、「自分が生きていてもいいんだ」ということを、少しでも実感したかったのではないかと思います。

少し自分語りになりますが、自分の両親はどちらも癇癪持ちで夫婦仲も悪かったように思います。いつも親が怒らないように気を使っていて、まるでイライラ棒をずっとしているような緊張感でした。自分がご機嫌を取らないと、自分が頑張らないと、両親は不機嫌な状態になります。自分が頑張らないと、両親は喜んでくれませんでした。それは、誰かの役に立たないと愛されないという観念を植え付けるには十分な環境だったと思います。だから、自己肯定感も低くなりますし、誰かに認められることを最優先して、自分の気持ちを無視するような大人になってしまったのだと思います。

そもそも夫婦仲の悪さを子どもが尻拭いする義務なんてないんですよね。それに巻き込まれてしまったのだから、自己肯定感の低い大人になってしまっても仕方ないですよね。それでも、双極性障害になったり、会社を休んだり、いろいろあったけど、なんとか死なずに生きてこれたというだけで、百点満点だ!という気分です。これ以上にないくらいの成功です。これまでの人生で足りなかったものは、これから手にすればいいだけの話です。

ちなみに、妻は、ご機嫌を取ったり、顔色を伺わなくても、勝手にご機嫌な状態でいてくれます。もちろん、精神的に波があるのは当たり前なので、しんどい時は支え合おうと思っていますが、両親に感じていた緊張感みたいなものは、何も感じていません。ものすごく楽です。安定した人間というのは、妻のように自分で自分の機嫌を取れる人なんだろうなと思います。

話をまとめると、自分の生存理由に「〜しなければならない」といったような制限を設けず、そのまんまの「ただ生きているだけの自分」を大切に思えるようになれば、きっと精神的に安定するのではないでしょうか、というお話でした。

最後までご覧いただきありがとうございました。






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