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「学校に行かない」という選択について

近年、様々な分野で選択の自由が進んできている気がします。

その一つに、「学校に行かない」というものが有ります。
一言で表すと、「不登校」です。

不登校になった場合、周りは心配しますね。
この先の人生を・・・

そこで、今回は塾無子育てした経験から、提言をしたいと思います。


不登校についての私見

自分自身の幼少期

私自身、「学校」は、楽しいこともありましたが、行くことに楽しみが無いと感じることも多かった気がします。自分自身のことでありながら、どこか他人事のようなふんわりした表現をする理由は、「学校くらい行くもの」と、当時は「行かない」選択をする「自由」は私達には無いと思っていたからです。

不登校についての考え

大人になり、私自身の目に映る社会が広がったことが大きいと思いますが、「学校に行かない」ことも、人生の中では選択肢の1つなのだと思うようになりました。


「学校に行かなくてもいい」ただし・・・

「学校に行かない」という選択は、有る選択だと思っています。
しかし、保護者や子どもを取り巻く人々が、「学校に行った場合」と「学校に行かなかった場合」について、子どもに話をしなければなりません。
多くの人が「なぜ学校に行くのか」を知る機会を奪ってはいけないと思っています。



学校の先についての話をする

大金持ちで、信頼できる身内が面倒を見てくれるなり、生活に心配が無いのならよいのだとも思いますが、一般的には、学校を出たら自立していかなければなりません。
自立するために一般的に必要なのが、「学歴」です。
その学歴を手にするには、学校で「学ぶこと」が一般的なわけですが、学校に行かないのであれば、別の形で「学ぶこと」が必要になると思います。

「学ぶ」ために、子どもは未熟ですから、保護者のサポートは必ず必要です。
そこで、保護者は、「学校に行かない」選択が、命に係わることなど切実な場合では無い場合は、「学校に行かなくても良い理由」が納得いくものであるか本人としっかり話し合うことが大切だと思います。


「自由」についても知る

人として生を受けた以上、誰とも関わらず生きていくことは不可能のように思います。誰とも話をせず、家に閉じこもって生きていたとしても、私たちは、誰かが育ててくれた食べ物を食べて、整備されたインフラを利用して生きているのですから。

だから、人は完全なる「自由」は無く、完全なる自立という生き方は無く、この世に生を受けてから、誰かの助けを受けて成長してきたのです。

これからも完全なる自由は無く、これまでお世話になった方々への感謝、そして、これから生きていくための社会との関りというものを、意識して生きていくことは最低限必要なことです。

学校に行かない選択は、何でも自由に出来ることとは違うということを理解しておく必要があるように感じます。



さいごに

私は、現在の日本の教育制度は変えていく必要があると考えています。
人ですから、成長の早さも違いますし、お休みしたいときもあります。
今回取り上げた「学校に行かない」という選択の場合にも、お休みして「学校に元の学年に戻る」であったり、試験を受けて「上級学年に進む」であったり、生徒の状態に応じた対応が出来る制度が日本にも必要だと思っています。現行の、一律の小学校への進学や、個別には学力が学習目標に到達していなくても、進級できるシステム、逆に理解が進んでいても先に進めない制度を変えてもらいたいと思っています。
学習がフレキシブルになると、少し時間はかかりますが、学校で起きている様々な問題もかなり減るのではないかと思います。


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