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思考を止めるな『悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える』/仲正昌樹ほか

 ようやく映画『ハンナ・アーレント』を観た。

 と、映画の話から入ったのに、映画の感想は、ひとまず置く。

 映画を観る前に、最初は原著の翻訳を読もうと思った。
 しかし難解で、まずは「ハンナ・アーレントについて書いてある著作」を読むことにした。

 ところがこれだけでもかなりの数に上る。

 ある程度読んで、そのうえで原著を読もうと思ったのだが、読書の秋もそろそろタイムアップだ。
 ひとまずはここまでで、彼女について書かれた評伝や書籍をいくつか読んだ中で、今自分が考えていることをまとめておくことにした。

 ハンナ・アーレントについては、Wikipediaにはこのように説明されている。

ドイツ出身の哲学者、思想家である。ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツから、アメリカ合衆国に亡命した。のちに教鞭をふるい、主に政治哲学の分野で活躍し、全体主義を生みだす大衆社会の分析で知られる。

Wikipediaより

 そもそもハンナ・アーレントに興味を持ったのは、この新型感染症の流行がきっかけだった。

 コロナ憎し。
 この3年、そう思った人は沢山いると思う。
 自分も当然ながらそう思った。

 学校生活は一時休止したも同然となり、対応に右往左往した。仕事もリモートワークが進み、人と接触しない状況を作るために、社会生活においても、マスク、換気、密を避ける、短時間営業などでこちらも長期にわたり大幅に影響を受けた。

 高齢の両親が罹らないよう祈りながら、夫の長期不在時には自分が倒れては大変だと緊張した。最近は身近な人が罹患することも増えた。

 なにより最も悩ましく、戦々恐々としたのは、原因と予防法、そしてまた治療法がわからず手探りだった最初の時期だった。

 当初、この感染症に関して、世の中の人の認識はみな、違っていた。

 少しずつ、大幅に、ちょっとだけ、天と地ほど、食い違っていた。
 今もそれは続いているが、おそらく当初ほどではない。

 社会や人間関係が分断し、離れていった。

「悪いのは、誰で、何か」
 私たちはどこかで、「何が悪いか」を探し続けていた。
 何か特別な「悪」「理由」「真実」があれば安心できる―――
 陰謀論ではよく聞く論調だが、わかりやすい陰謀論に陥っていなくても、我々はじゅうぶんに不安と恐怖に駆られ思考停止していたのではないかと思う。

 悪いのは———、その言葉に続く言葉や概念は、なんだろう。

 ある人は感染症そのものなのだと言い、ある人は政治と言い、ある人は陰謀論といい、ある人は医学と言い、ある人は経済格差と言い、ある人は製薬会社が悪いと言い、ある人は過剰反応が悪いと言い、ある人は軽視が悪いと言った。そこに個人名や企業の名をいれる人もいる。

 ひとりひとりが違う答えを持っている。

 果たして何が悪いのか。
 なぜ私たちは「悪」を探したがるのか。
 そもそも「悪」とは何か。

「悪」という概念に立ち向かった哲学者は多いが、ちょうど100年ほど前に生まれて、第一次世界大戦、第二次世界大戦を体験し、ユダヤ人への迫害と虐殺から逃れ米国への亡命、アウシュビッツ戦犯アイヒマンのイスラエル裁判傍聴を経て、「悪」というのはおよそ特別なものではないただの凡人が引き起こす陳腐で凡庸なものだ、大衆の思考停止が生み出すものだと言ったアーレントは、まぎれもなく20世紀の大哲学者だと言えると思う。

 研究者は文章の難解さを嘆く。
 彼女はドイツに生まれたユダヤ人で、亡命後は英語で著作を続けた。彼女にとっての母語はドイツ語であり、あくまでもドイツ語に起因する言語感覚を持っていたのだとしたら、母語以外で書かれたものが難解になる可能性は十分あると思う。

 実は、これまで多和田葉子さんについて書いてきたのは、ハンナ・アーレントに至る伏線でもあった。

 共通項は「母語」だ。

 多和田さんは日本語を母語として、ドイツ語で著作をしているが、ハンナ・アーレントは、ユダヤ人ゆえに国を転々とし、最後は米国に亡命して自分の母語から離れて生きることを強いられた。

 中公新書の『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』には、難民たちが「殺人者の言葉となってしまった」母語であるドイツ語を捨て去り、忘却する中で、アーレントは「狂ってしまったのはドイツ語ではない」とみなし、母語を失うのを拒み、思考し続けた、とある。

 物事を俯瞰し客観的にみる視線、冷静に分析する視点というのは、母語を離れることで得られることもあるのではないか。そして最後に残りよすがになるのもまた、母語なのではないか。

 それで、ドイツで暮らしドイツ語で創作を続けながらも、常に母語にこだわり続ける多和田さんにも注目していたのだった。

 正直言って、いくつかの本を読んだり、映画を観たくらいでは、ハンナ・アーレントについて語れるようには到底ならないし、何ひとつわからない。

 中途半端に読んで、都合のいいところだけを自分の思想に合わせて引用する例も散見される。

 難解がゆえに利用される、という極端な例ではノストラダムスが思い浮かぶ。全体も知らず、原文で読んだこともないのに、どんなようにも取れる部分を抜き取ることで、都合よく解釈することができるといういい例だったと思う。

 現在50歳以上の人は、ノストラダムスの詩、つまり「予言」に実際に振り回された人は多いと思うし、「昭和の時代の変な事象」の象徴として、のちの様々な創作物に影響を与えていたりする。

 人は、見たいものを見たいように見て、自分の思いたいように理解する生き物だ。

 自分が公平であるという根拠のない地点に立って、他人の思想や思考を切り貼りして利用したり、批判していることに気づかない。

 ハンナ・アーレントのエッセンスは、おそらくこの時代にこそ、つかんでおくべきものだと私は思う。

 なぜなら私たちは、思想的にも政治的にも経済的にも行き詰まり、民主主義も資本主義も形がグズグズになりつつある混乱した時代に生きていると思うからだ。そして個と向き合い、自分とは何かをこれほど考えている時代も他には類を見ないと思う。

 最も直近で読んだのが『悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える』だ。「なぜだれも止められないのか」という帯がついていて、これにも心惹かれた。
 新書なのでアーレントの生涯や著書の詳細、アーレントの主張について、初心者には非常に読みやすく解説されている。

 内容については、ここでは書かない。
 この先どれほど文字数が必要か皆目見当もつかない。笑

 それなりに「学習」した後で、私が感じた現代に通じるハンナ・アーレントのエッセンスは、「自分軸」だと私は思っている。
 彼女が「複数性」という表現をしているそれは今でいう「多様性」と似通っている(厳密には違うけれど。同一性あっての複数性なのだけれど)。
 でも昨今言われている中で最も近いのは「自分軸」だと思う。

 あらゆることを他人にゆだねないこと。
 常にいろんな側面から考え続けること。
 自分の思想や行動に理由と責任を持つこと。
 その行動が「私の領域」ではなく「公にも資する」ものであること。

 私はこの時代に身辺を観察したが、それができている人はとても少なかったと思う。それはもちろん、自分もメディアも含む。

 このスマホ依存の時代、実は情報は「自分が思う真実」「信じたいこと」「誰かが言ったこと」であることが少なくない。

 これまで直面したことがないことに対しては、前例も先例も先輩もないので比較類推ができない。

 だからこそ触れる情報には細心の注意が必要だし、それを選び取り、読み取り、多角的・客観的に理解しなければならないと思う。

 『悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える』の著者、仲正さんは、冒頭の映画を観て感化され「ハンナ・アーレントは自らの正義を貫き通した英雄」と言い切ってしまうことを本文中で危惧していた。
 背景をよく考えずに彼女を周囲の圧力に屈しない英雄と考える人は、別の問題になったらアーレントを非難する側にも回るかもしれない。

 自分の危うさを知りながら軸を保つ。

 それはこの時代にこそ必要だと思う。そしてそのための思索と教養なのだと、ハンナ・アーレントは教えてくれるように思う。

 ※おまけで映画の話※
 映画『ハンナアーレント』の中で、アーレントは無茶苦茶タバコを吸う。実際相当なヘビースモーカーだったようだが、映画のアーレントはチェーンスモーキング、ヘビーヘビースモーカーである。大学の講義中もタバコの時間を設けて学生の前で吸っていたし、散々寝たばこをしながら思索にふけっていた。ほとんどニコちゅ・・・いやいや、そんな言葉も禁句になりましたね、昨今。とにかく映画を観ている間中、寝たばこ、危ないですよ!と言いたくなった。笑
 喫煙が他者の人体に悪影響を及ぼすことがわかり、喫煙=悪となった現代の禁煙時代に彼女がいて「マダム、ここは禁煙です」と言われたら果たしてどんな顔をするのだろうか、と想像してしまった。

 《参考》

 映画『ハンナアーレント』2013年
 『ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』矢野久美子/中公新書 2014年
 『悪と全体主義ーハンナ・アーレントから考える』/仲正昌樹 2018年













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