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Movie 13 小ネタ満載R指定コメディ映画のノスタルジー/『デッドプール』『デッドプール2』

 アメコミ(アメリカン・コミック)発のマーベル作品は、正直あまり好みではない。『X-MEN』は見たし、昔の『スパイダー・マン』はかなり好きな映画だ。でも最近はそれほどそそられない。次第にヒーローのインフレを起こしていくマーベル映画に食傷気味になっている人は、実は多かったんじゃないか、と思う。

 私もそんなひとりだった。だから『デッドプール』には全然興味がなかったし、この夏ヒットした『デッドプール&ウルバリン』にも全く食指が動かなかった。ちなみにウルバリンは好きだ。『X-MEN』の中でスパイダーマンの次に好きなキャラクターと言ってもいい。
 なにしろ狼男だ。中二で犬神明に恋して以来、狼男には無条件に惹かれる。ワイルドさがいい。悲しみの背負い方がいい。不死身だが条件付きの縛りがいい。同じように不死身で悲しみを背負い条件付きの縛りがあるヴァンパイヤほど美しくないところがいい。

 それでも別に映画館に行ってみようとは思わなかった。そんな私が、なぜ突然デップーの話を始めたのか。

 息子(17)がある日突然、ワム!を歌ったからである。そして家で、「はじめてのワム!」みたいなプレイリストをかけまくるようになったからだ。

 「ワム!」・・・だと?
 そんな懐メロ、どこで覚えたんだ、と思ったらデップーだった。
 なんで「ワム!」知ってるの、と聞いたら滔々とデップーについて語り始めた。夏休みに友達と『デッドプール&ウルバリン』を観て以来、すっかりデップーの魅力にとり憑かれてしまったらしい。

 ところで『デッドプール』というのは、マーベル作品に度々登場してきた脇役で、ヒーローでもありヴィランでもある、トリックスター的な存在だ。
 自分自身が漫画(映画)の中の登場人物だと認識しており、自身の映画『デッドプール』シリーズでは、読者に語り掛ける形で話を進行させる。
 名前の由来は諸説あるらしい。米国圏の「死亡予測ゲーム」だとかミュータント細胞を移植された時の施設の名前だとか、いろいろあるようだ。映画の中では「地獄からの使者」だと言っていた。
 ウルバリンのミュータント細胞を移植されて不死身になったらしいので、最新作『デッドプール&ウルバリン』はそういう知識がないとちょっと楽しめないのかもしれない。

 息子から「ものすごく面白いから、観たほうがいい。お母さんは気に入る」と再三勧められたが、アクションとグロが強めと言われて、二の足を踏んだ。覆面を被った真っ赤な姿形はまるで出来損ないのスパイダーマンか『仮面ライダー電王』のモモタロスである(モモタロスがデップーモチーフなのか?)。しかも「観るなら絶対、吹き替えで観るべし」と言われて、さらにえーっとなった。このところ、ディズニー映画だって吹き替えで観たことがない。吹き替えは、声優さんの仕事はリスペクトしているものの、訳によってはもともとの俳優さんの演技を殺してしまうことがあるから苦手だった。

 渋っていたが、ある夏の日、そうめんを食べようとしていたら突如PCを持ってきた息子、今からデップーを観ようという。息子が母に「一緒に観よう」なんていうのは幼少期以来だ。よほどのことだと思い承知したがすぐに後悔した。

グロいやんけ!
 こっちは今まさに暑い夏の昼時にそうめんを食べんとす、という状況である。にもかかわらず、コンプラ全盛のここのところ全く見かけなくなった昭和のバイオレンスだ。しかも超弩級の暴力だ。ホラー並の暴れっぷりで、心の準備がなかった私は激しい抵抗を感じた。
 しかも一人称が「俺ちゃん」って。完全にモモタロスじゃないですか。俺参上じゃないですか。そのうえ、なに。画面に出てからずーっと喋ってる、デップー。

 息子はなぜか必死に「大丈夫、体こんなにバラバラだけど不死身だから」「大丈夫、今から面白くなるから」「大丈夫、今からワム!だから」と畳みかけてくる。味がしなくなったそうめんをすすりながらちらちら視線を逸らしつつ、観た。

 すると次第に、BGMがほとんど自分の青春時代の流行歌とまる被りしていることに気がついた。何を聞いても聞いたことがある。アーティストを知らなくても間違いなく耳にしている曲ばかりだ。
 もちろん、ワム!も登場する。

「こ、これは・・・」
 次々に曲名やアーティストを言い出す私に、息子がニヤリ、とした。しかも、デップーの、超絶技巧並みに繰り広げられるぺらぺらぺらぺらした卑猥なお喋りの中にちょこちょこ差しはさまれる小ネタが、———恐ろしいことにだいたい全部わかる。映画『十戒』における聖書ネタがわかるみたいにわかる。

 あ、これは○○が元ネタ、あ、ここは××っていう映画のモチーフ、あ、ここもここも、80年代とか90年代に流行ってたアレ。いやぁ懐かしいわ。あったあった、そういうの。流行ったわ。私の世代なら誰でも知ってるヤツ。

 私の口がデップーのセリフや小道具の解説を始めるまで時間はかからなかった。

 そうめんがひっついて干からび、これはお湯につけないと取れないな、と思うころになんとか『デッドプール』を観終わった。確かにデップー、つまりウェイド・ウィルソンの悲しい過去はわかった。彼のねじれた正義感も理解できた。コミカルで下品なお喋りがある種の魅力であることも。
 でももう暴力でお腹いっぱい。
 この時代によくぞここまで下劣で卑猥で暴力的な表現が人気になったものだと感心するほどだったが、おそらくこうした「表現」に、現代人が飢えていたのかもしれないなとも思った。

 子供と観ても絶対恥ずかしくなってうつむいたりしない、美しくて、綺麗で、ほのぼの、ほっこりの、光に包まれる、現実を忘れさせる誰も傷つかないファンタジー。全米どころか全人類が泣く感動と共感の嵐。ちょっとでも人種や性差に触れようものなら一気に炎上するSNS。

 それにNOを突きつけたい人間の心理が働いているのかもしれない。
 本来、清濁併せ吞むのが人間と言うものだが、どうもこのごろ、表面的に綺麗で美しいことばかりが強調され過ぎたり、社会的に正解か不正解かに気を取られすぎて「何観ても一緒~。何観てもつまんない~」的な空気が膨張してきていたのかもしれない。そこに風穴をあけるどころか、爆発させて発散させる存在、それが究極のアンチヒーロー、デッドプール。
 ・・・なのかもしれない。

 かも、しれない。わからない。人間の汚い面を、じゃあ、暴力で発散させることがいいことなのかと言われると、何とも言えない。夢の中の殺人と同じように、フィクションだからできること、と言われればそうかもしれないが、「自分がルールブックだ」「ヒーローなんかなりたくない」「イイ子ちゃんでいる気はない」みたいなある意味自分にものすごく正直すぎるちょっと変わった悪のヒーローを、大手を振って歓迎したくない気持ちもある。

 この世界には法で縛れない人間の負の感情がある。身内を殺された人間が殺人者を恨み殺害する、といった「復讐」や「私刑」は、常に物語のテーマになり続けてきた。

 モンテクリスト伯しかり。必殺仕事人しかり。
 あのブラックジャックも恐ろしい復讐を実行していた。

 実際に現実の世界で実行に移すかどうかはともかく、そういう「恨み」「怒り」といったいわゆる「ルサンチマン」は大なり小なり誰でも持つもので、過去、いろいろな時代で人はその残虐性を何かに投影し、実行を回避してきた。
 社会で生きる限り、それを抑圧することを余儀なくされる。「ありのままで」と言われながらありのままに振舞うと叩かれる。自分に正直に生きろと言われて、本当に正直に生きられるわけがない。しかしその抑圧にあまりに圧がかかると、暴発してしまう。どこかで穴をあける必要があるとしたら、自己に忠実すぎるほど忠実なデッドプールはその役割を大いに果たしているのかもしれない。

 もう結構。続きは観ない、と言った私に、また忘れたころ、そうめんの日がやってくる。
 息子がいそいそとPCを運んできて『デッドプール2』を観ようと言った。

 『デッドプール2』はさらに残虐だったし、グロテスクだった。でもなぜか不思議なことにウェイドを憎めなくなっている自分がいた。犯罪者を憎めなくなるというのはなんとも居心地が悪い。だがしかし、完全にデップーに感情移入してスッキリする、といった感じもない。

 何が魅力か、といったらやはり、パロディとしての出来の良さなのだと思う。本家本元をリスペクトしつつ、イジる。その加減が絶妙だ。
 息子はなんだか神妙にメモをするような顔で私のネタバレを聞いている。
「なんか、ネタがわからないところがいっぱいあったんだけど、お母さんと観るとそれが解決する」

 どうやら、それが狙いだったようだ。

 ミレニアム世代やZ世代が「面白い」と感じる80年代を中心とした風俗を通して、どういうわけかファミリーで楽しんでしまう。絶対にファミリー映画じゃないのに、ファミリー映画という矛盾。
 子供は新鮮に、親はノスタルジックにA-haの『Take On Me』を聞く。この映画ではなんとバラードアレンジの『Take On Me』を聴くことができる。A-haの新録だそうだ。今で言えば「親の顔より見た」「親の声より聴いた」とされるあの前奏が流れると、反射的に歌ってしまう50代。

 最新作『デッドプール&ウルバリン』の予告編ではマドンナの『Like a Prayer』が流れていた。
 ノスタルジー。私がデップーを観る理由はそれしかない。
 あと抜群に配置された小ネタ。
 ―――悔しいけれど、面白い。

 













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