女と云うもの『生理用品の社会史』/田中ひかる
先日、またまた婦人科を訪れた。
今回は、検診の結果を聞きにいった。
その際、今飲んでいる漢方を続けるかどうか、という話をすることになっていた。
今の私の担当医師は若い男性だ。
昔々、もうちょい若かったころは、女性の先生がいいと思ったり、男性でも年輩の医師がいいと選んだりしていたが、正直今はこだわりはない。
女性の先生でも、デリカシーのない人はいるし、男性の先生でも細やかな人はいる。若いから、異性だから、と選り好みしてもその医師の本質は関係がない、と思うようになった。それにそもそも、デリカシーがあるから腕がいいというわけでもない。
判断は、人となりに接してから。
いわゆるこれが年の甲というものだろうか。
担当医師に会うのは、それが3回目。
正直、今処方されている漢方にぴんとこないのだが、まあ、続けようとは思って、診察室に入った。
幸いにも、検査の結果は異常なし。ほっとした。
そして、
「漢方、どうですか」と医師。
「ええっと、いちおう、どういう薬なのかをもういちど確認したいんですが」
と、言うと、ちらりと医師の顔が陰った。
薬を出してもらったときは「じゃあこちらの薬を」と番号を表示されただけだったので、医師がどういうつもりでその薬を処方したのか聞きそびれていた。それで改めて聞いてみたのだ。
「この漢方は更年期障害の一般的、総合的な症状に合わせたものです。だから何に特別効くようにできているというわけではありませんが、全般的に症状を緩和すると言われています。のぼせやほてり、生理不順など―――ああ、あなたはもう生理ないですけど、そういうものも整えるとされてます。いつでもほかの番号の漢方に変えられますよ」
あ、そうなんだ。
私はもう少し、何らかの症状に特化したものとして、医師が判断して出した薬かと思っていたのだが、まあ総合的なものなら、たいして「効いた」感がなくても仕方がないな、と思った。気長に続けるしかないのだろう。
それよりも、医師は漢方についての細かい説明は不得手そうだなと思った。
処方部門があり、薬剤師がいる病院なので、医師よりそちらに聞いた方がいいのかもしれない、とは思った。
で、わかりましたと診察室を出て。
ふと、心にひっかかりを感じた。
「あなたはもう生理ないですけど」
急に、そのひとことが心にポップアップした。
いや、ちょっと待って。
それ、言う必要のある言葉だった?
確かに年齢からすれば「ない」のかもしれないし、もう二度と来ないのかもしれないけど、なんか、その微妙な瀬戸際にいる女性に
「あなたはもう生理無いですけど」
ってどうなの。
おそらく事実です。
あきらかに更年期だし、たぶんそれは間違いないです。
でも私は彼に「閉経してます」と申告したことは一度もない。
アナタにいわれたくないんですけど💢
という気持ちがむくむく湧き上がって、「ほほう、わたしにもこんな感情がまだあったのだな」と思った。
なにより、自分の心にそんな気持ちが眠っていたことは新鮮だった。
自分から「閉経しました」と言うのは良くて、人に言われるとムカッとするというのは不思議なものだが、これはやはり、デリカシーに分類される種類の事だろう。
「オバサン」な外見とか、「更年期の女性」というくくりで、年齢だけみて判断されている気持ちの悪さ、というのだろうか。
アンタあたしの何を知ってんのよ。
という気になってしまう。
いや、知ってんだけど。
夫も知らないような内臓を見てるんだけど。
そういえば、と、タイで出会ったタイ語の先生のことを思い出した。
彼女は「タイの女性はいつまでも生理があることにこだわる。それは女性として終わっていない、という証明だからだ」と言っていた。
タイ語で生理は「メン」という。「メンス(語源はドイツ語)」からの「メン」だと聞いたが、先生は「メン」はタイ語で臭いって意味でもあるんだよ、と言っていた。何となく微妙なつながりを感じるし、若干蔑んだような意味合いがあるのは、世界共通なんだなと思ったのを覚えている。
現代の女性の生理は、食糧事情や栄養状態が良くなり、初経から出産までの時期が長く、出産しても必ずしも母乳でもない、さらには寿命が延びたことによって、回数も量も増えていると言う。
こんな記事も目にした。
こちらは昨年の記事だが、5倍という数字はともかく、この事実を知ったのは、私はこの本からだった。
こちらを読んで、書いたのがこの記事。
ブログに詳しく書いたので、本の内容については触れない。
ぜひ皆さん、手に取って読んでみていただきたいと思う。
上に引用した「5倍の衝撃」記事を読むと、今の女性は昔の人の何倍も生理に対応しなければならず、生理痛もあって大変だ、生涯にある回数も量も多ければ、それだけ身体にも悪影響で婦人病になりやすいから注意が必要だ、というような内容。
まるで昔の女性は妊娠出産を繰り返していて授乳も母乳だったから生理がなくて楽だったのだ、というような誤解を生みそうな気がして少々戸惑った。
『生理用品の社会史』を読むと、とてもそうは思えない。
そもそも女性の身体や生理についての知識がなく、社会的に「穢れ」と称して迫害され日陰に閉じ込められ、ナプキンなど技術的に優れた日用品もなかった時代に、どれほど女性が苦労していたか。
ナプキンもタンポンもなかった時代の女性は経血の処理に布や植物、綿などを詰めたりあてがったりしていて、衛生的とはいえず、そのせいで婦人病になることも多かったのだ。
江戸時代の子供の数は平均4~5人。
おそらく無事にある程度大きくなったと仮定しての人数だ。
平均だから10人も生む人もいたし、少し前の世代だって8人兄弟なんてざらだったのをご存じの方も多いと思う。
戦争の時代はひたすら産めよ増やせよだった。
出産そのものが危険で、出産で命を落とす女性も多かったし、無事に出産できても乳幼児の死亡率も高かった。
その時代その時代に、女性は等しく大変なのだ。
回数ではない、と私なら思う。
生理に関しては、対処のしようがあるぶんだけ、現代女性は恵まれていると思うし、そうやって「恵まれている」のは先進国だけだったり、たとえ先進国でも経済状態によってはそうでない場合も、多々あると思う。
『生理用品の社会史』には、日本の女性は絶対ナプキン主義だという意味合いのことが載っていた。スクーンカップなどはそもそも情報が少ないし、タンポンも知識として知っていてもそれほど普及しないという。それは日本のナプキンの性能が異様に良く、身近なものに不足を感じないがゆえに新しいものに手を出そうとは思わないからだという。
どちらにしても、生涯、閉経するまで、いろんな思いと手間暇をかけつつ付き合っていかなければならないのだなと思うと同時に、無くなったら無くなったでスッキリしながらも、更年期症状に悩まされ、さらには人から「ない」と言われるとムッとするという、女ってホントに難儀な生き物であると思う。