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freestyle 1 自由形で行こう

 水泳の競技で、どうしてクロールのことを「自由形じゆうがた」と言うのだろうと常々不思議に思っていたのだが、先日たまたま目にしたネット記事で、そもそも「自由形」=「クロール」と決まっているわけではないということを、初めて知った。 

 ちょうど別件で水泳のことを考えていた時に目にした記事だったので、A.Iのアルゴリズムというのもついにここまで来たのか、私の頭までも覗けるようになったのか、と感心するやら不気味に思うやらしていたのだが、何のことは無い、次のnoteのタイトルに「freestyle」を使おうと思っていて自分が検索したからなのだった。

 freestyle。自由形。なるほどそうだ。そしてなぜ自由なのに全員がクロールで泳ぐのかと言えば、今のところそれより速い泳法がないからなのだそうだ。

 最初期はどんな泳ぎ方でも参加できた。もともと自由形しかない、というのはいい。共存もできるし、新しいカテゴリをつくることもできる。最初に水泳競技を「自由形」で開催した人たち、グッジョブ、と思う。

 記事によると、自由形と言えば全員平泳ぎだった時代があり、日本人の中には古式泳法で泳いだ人もいたらしい。当時は「息継ぎ」という技術、というか概念が無く、顔を出したまま泳げる平泳ぎが一般的だったからだそうだ。速さを追求していくうちに、同じく顔を出して泳げる「背泳ぎ」が生まれ、一方、伝統的平泳ぎを追求したい人達がいて「平泳ぎ」というカテゴリが別枠で生まれた。

 その後「息継ぎ」が登場して「クロール」が生まれる。「クロール」があまりにも速いので、いつしか全員クロールで泳ぐようになった。同じような経過をたどって「平泳ぎ」から「バタフライ」が生まれ、泳法が発展していったのだという。「バタフライ」が独立するまで、平泳ぎの優勝者が全員バタフライという時代があった、というのは驚きだった。

 なんだかまるで進化論みたいだ。枝分かれと自然選択。速さを競っているうちに、様々な泳法が枝分かれしていき、主流が変わる。現在のところクロールが最速だが、もしかしたら今後新しい泳法がスタンダードになる日が来るかもしれない。

 これまでの泳法が完全に淘汰され消えるのではなく、残り続けるのがまた良い。

 2000年のシドニーオリンピックで、オーストラリアのマイケル・クリム選手がドルフィンクロール(手はクロールだが足はバタフライのドルフィンキック)という新しい泳法で世界新記録を打ち立てた。体力の消耗が激しく長い距離は無理ということで主流にはならなかったようだが、今後なんらかのエポックメイキングな新泳法で「大多数がそれを選択」するようになれば、「自由形」はいつでもその姿を変えるのだろう。

 誰かが宣言して変化するのではなく、隣の人の泳ぎ方が速くていいじゃんすげーじゃんということで真似していくうちに競技そのもののほうが変わっていくなんて面白すぎる。

 最初の段階で「平泳ぎ」限定だったら、他の泳ぎ方はルール違反ということになってしまって、ここまでの変化や繫栄はなかっただろう。「自由形」はいつも変革や革命を待っているが、革命が起こっても争いも生まず血も流さず、ただ中身を変えるだけで永遠に「自由」であり続ける。誰にでも画期的な発案のチャンスがあるのだから、必殺技や秘密兵器を開発しようという意欲もわく。ひょっとしたら、これが「進化」の最適解じゃないかとすら思う。

 参入は常に自由であってほしい、と思う。市場経済もそうだし、科学技術やデジタル、医療などあらゆる分野において間口の広さというのはとても大事だと思う。そう言う意味で、日本は若干、窮屈なのだろうか。ワクチン産業で日本が遅れを取ったのも記憶に新しいし、先日の選挙でも、ハロウィンの小悪魔さんたちは「ネットで投票できるならする」と言っていた。良し悪しではなく、まだまだ、間口の狭い分野というのは沢山ありそうに思える。

 もちろん「私は私のやり方で」が許されるか否か、というのは「みんなもいいと思うかどうか」、にかかっている。人々の心を動かせなければ、あるいは真似をして再現できる技術や技量が無ければ、それが偉業であってもたったひとりのドルフィンクロールでしかないが、多数が認めてひとたびそれが主流となれば「概念」さえも変わる。

 noteというのは、ある意味それを叶える「場」を提供してくれているのではないか、と思う。まさに表現の「自由形」。どんなやり方で、どんな速さで泳ぐかは「あなた次第」だが、人の心を動かせればチャンスがある。そのチャンスをものにして、本を出したり収益にしたり、ドルフィンクロールをスタンダードにしそうな勢いの方が沢山いる。実際、noteから書籍化という流れが珍しくなくなったというのも、そのひとつかもしれない。

 「もしも叶うなら」というお題だが、noteは実のところ、もうすでに私の願いを叶えてくれている。

 「書く」ということにどんな思いや決意を持つかは人それぞれだと思うが、私はただ、これまでの半生で持て余すだけだった「書きたい」という気持ちを受け止めてくれる場所が欲しかった。

 はじめは、noteがどういう媒体なのかがわからなかった。次第に、誰でも書いてよい、そして誰かが読んでくれる場所なのだとわかった。

 これまでは無名の一般市民が書いた文章など、公募に応募して選ばれでもしない限り、ひとさまの目にさらされることなどなかった。紙やノートに書いてそのまま埃にまみれるしかなかったものを、誰かに読んでもらうことができるなんて。本当に、こんな世界があるんだと思った。テクノロジー万歳。生きててよかった。

 「紙の船でもこしらえて流そうかしらね」と思っていた川で、ハッと気づいたら泳いでいる。辛いかなと思った急流も、案外楽しい。気がつくとあっという間に時間が過ぎる。こんなに夢中になったのは、何年ぶりだろうか。 

 素晴らしい時代が来たのだ。

 つぶやきでも、長編小説でも短編でも、詩でもエッセイでも、ルポでも宣伝でも、音声でも写真でも。

 会社勤めの人でも、私のように一介の主婦でも、学生でも。作家さんやライターさん、他の様々な仕事に活用しているフリーランスの方々でも。

 誰がどんなふうに書いてもいい。どんなやり方でもいいよ、という懐の深さがいい。いつでもどこでも書ける、というのがいい。

 もしも叶うなら。願わくば。

 書き続けていたい。どんな形でもいい。たとえ何者かになれなくても、誰かが読んで少しでも面白いと思うものを、いつかは誰かを励ますものを書けるようになったらいいなと思う。

 自分の新たなチャレンジを「freestyle」にしようと思ったのは、縛りを作ったpracticeと違い、「こだわらない」というのを目標にしてみようかなと思ったからだ。文字数や時事などを、あまり気にせずに、ネット記事を見た感想やその時々のことを、―――ある種、日記に近い形で書いてみようかなと思った。思いついたときは、水泳の「自由形」のことは全然知らなかったが、思いがけない記事との出会いで、思いがけないところに導かれた。

 誰かがクロールでぐんぐん追い越して言っても、若々しく美麗な文章の方が隣をすぃっと通り過ぎても、マッスルな骨太の文章を書くモノノフが古式泳法で泳いでいても気にしない。

 速さを追求するものでも、ゴールがあるものでもないが、一緒に泳ぐことでお互いに刺激を受けて、楽しんだり、切磋琢磨することができたらこの上ない幸せだ。

  もしかしたらnote新泳法の誕生も、目の当たりにできるかもしれない。

 素晴らしき哉、note。

 よし、自由形で行こう。


#もしも叶うなら

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