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キス魔の恋人のこと

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そのキスの孕む熱が、わたしを繋ぎとめる。
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滑らかな社会と辿々しいわたし

大判焼きをふたつ買う夢を見た。幸せになろう、と思う。 *** 年末、かつてとてもとても好きだった男の故郷の隣町の温泉に恋人と旅行をしたら、スリルとリスクに塗れて怯えながらも離れられない恋愛、を、日の当たる場所で手を繋いで歩ける生活、にしませんか、と恋人が言うので、そのようにすることにした。 結婚願望など微塵もなかったし、それを半ば公言してもいた。一方で、恋人は「普通」の結婚願望を公言していたし、言葉を選びながらではあるけれどもわたしに結婚願望の有無だとか子供を産む意思の

滑らかな身体とその敵

「色ボケしてるときのお前は愚かで可愛いよ」と、長くわたしを見てきた男は笑う。我ながらそう思う。 *** 「髪を切ったよ」「早く見たいな、会うのが楽しみ」 そんな言葉が恋人の口から溢れることに新鮮な驚きを覚える秋、恋人は、週末ときどきわたしの部屋を訪れるようになった。恋人宅のほうがキッチンが広いのだけれど、調理器具や使い勝手では慣れた自宅が勝る。 ベリーをたっぷり入れたパウンドケーキを焼いておいたから、お気に入りの紅茶を淹れてティータイムにする。わたしはダージリンよりは

わたしが呑んだ、彼の

恋人はちゃんとわたしに欲情するので、その下腹部に溢れた雫はわたしが舐め取る。うすい塩味、ほのかな粘度、舌先で掬い取ったら水音が立って、ああ、どこまでも、夏だ、と思う。 愛しい熱の塊が、目の前でゆっくりと蕩けていくのを眺めている時間を、幸福と呼んでもいいような気がして、これをなんとかして夏が終わるまで保存しておけないかと、夏の長い町でそればかりずっと考えている。 *** 恋人のからだは無駄はないけれど細すぎず、きれいで、すきだ、と思う。「トルソーのような身体」、という形容

この熱を持てあまして

恋人のどこが好きかを明確に言語化できないから、たぶんほんとうに好きなのだろうな、とおもう。 *** 恋人といると、彼の心の奥の捻れた部分がわたしと近しい捻れかたをしているような気がして、どこかむず痒い気持ちになる。恋人は、起伏の少ない平面的で安定した人間でいるようでいて、なにかとんでもなく縺れきった部分を心の奥に隠している気配がする。わたしが素顔を見せたら、このひとは素顔を見せてくれるのだろうか。先回りして諦める癖をやめたら、先回りして諦めないでいてくれるのだろうか。

彼にワルツを、わたしに餌を

好きだと言ったら好きだと返してくれる相手がいいし、好きだと言われたら好きだと返したくなる相手がいい。 *** 追い込まれると余計に殻に籠るタイプの彼にいま縋ったところで、勝算など欠片もないことは分かっていたから、一言も異を唱えずに手を離した。理性で女を選ぶ彼の態度を寂しいと思わないといえば嘘になるけれど、わたしはそれ以上に、愛に我を忘れる人のことを好きになれない女だから、きっとこれでよかったのだろうと思っている。いま理性を維持して手を離せる程度には、彼のことをちゃんと好き

夜を越えるための夜

寂しくて苦しくてやりきれない。空腹なのに食欲がない。眠いけれども入眠できない。好きな男のキスで窒息死したい。もしくは誰かに夜を埋めてほしい。酔った勢いで「ひとりで眠れない」という駄々を捏ねられる相手はいつも、いちばん好きな人ではない。 それでも、誰かの腕に抱かれていないと、わたしは今夜をやり過ごせない。 *** ひとりの夜に耐えられない日々が続いている。 「一杯飲もうぜ」という連絡が渡りに船で、誘われるがままに男の家を訪れてみたら、「星空撮りに行きてえ」と男が腰を上げ

夏の相克

この男はわたしのものにはならないけれど、わたしに「初めて」をたくさん経験させてくれる。たとえば人に見られながらするセックス。たとえば星空の下で抱かれること。たとえば、好きな男の前で他の男に口づけられること。 *** 好きな男の触れ方を、この男の指先に塗りつぶしてもらおうとしているのを自覚している。正確には、自慰をするときに好きな男を思い出してせつなくならないように、わざと先回りして上書きをしている。好きな男には、わたしを思い出して自慰をしてほしいと願ったくせに。 けれど

無二になれないわたしたち

彼でないとだめな女になりたかったし、わたしでないとだめな男になってほしかった。今もまだ会いたいし触れたいけれど、この会いたさも触れたさも、きっとほかの男に触れることでそれなりに埋まってしまう。そのことが、とてもとてもとても、どうしようもなく、かなしい。 *** 彼が出張から帰ってきたと思ったら今度はわたしが仕事の繁忙期に突入してしまった。それを言い訳にはできないけれど、なんとなくコミュニケーションに齟齬や間隙が生じはじめていることに気づきながらも、わたしは見て見ぬふりをし

人を想わば穴二つ

「触れたい」と「触れてほしい」のどちらが正しい恋かなんて知らない。恋に主客はいらない。触れているのか触れられているのか分からないくらいになりたい。 *** 出張に出かけてゆく恋人にお土産の希望を問われて、「ボディクリームがほしいな。特にこだわりはないからドラッグストアの適当なもので構わないけれど、もしも選ぶ余裕があったら、あなたの好きな香りのものを選んでほしい」と伝えた。 贈り物は相手が楽しめるものを選ぼうと思うし、相手の喜ぶ顔が見られればそれでいいけれど、自分がもらう

星よりひそかに

なにかが足りないけれどなにが足りないのかわからないと思ってしまう夜には、たいてい男が足りていない。 *** 飲み会帰りに、すこし人恋しくなったので彼に連絡してみる。今夜の予定や気分を知りうるほどの距離感ではないから、こういう連絡は一種の賭けなのだけれど、薄く酔った頭は勝算があると弾き出したので、わたしは都合よくその酔いに身を任せる。 平生返信が早い方ではない彼なのに、今日は珍しくすぐにiPhoneが震え、十数分後には彼の車が夜道で白く光った。タイミングや熱量の合う合わな

彼が呑んだ、わたしの

キスですべての喘ぎ声を吸い取ってゆくような抱き方をされたので、わたしの腕に絡まって身動き取れなくなってしまえばいいと思いながら首に手を回した。その喉に飲み込まれていったのが、ただの嬌声だったか、それとも悲鳴だったか、あるいは嘆息だったか、彼はたぶん知らない。 *** 滴るようなキスだけで終えてきたこれまでのいくつかの夜、彼はいつもわたしの髪の香りを愛でた。シャンプーとトリートメントは保湿力を求めてコタを長らく愛用しているけれど、あまり強く香るタイプのものではないので、わた

オブラートの剥がし方

夏のせいにできる夜を待たずに触れてしまったから、海のせいにする。 *** どうして彼と寝たのか、を思い出そうとしている。いちばん最初のきっかけはたぶん、ただからかってみただけだった。飲み会で偶然隣に座ったら、酔いの回りはじめたころにたまたま膝が触れたから、この性的な匂いの薄い端正な男は、わたしがこのまま引かないでいたらいったいどんな顔をするのだろうか、とぬるい好奇心に身を任せただけだった。 性欲を包むオブラートをどこでどんなふうに剥がすかにはセンスが出る、と思う。 男

舐めたい背中

肌が汗より早く溶けるような盛夏だった。 たまたまお互いの休日が重なったので「出かけようよ」と誘ったら、山歩きを提案されたので朝から繰り出すことにする。 彼と時間を過ごしたことはこれまでにも何度かあったものの、複数人での飲み会で言葉を交わしたり、言葉もなくただ星を見上げたり、絶え間なく降り注ぐキスに言葉を奪われたりしてきたから、白昼素面で話題に困りはしないかしらと実はひそかに心配していた。けれど、日常のよしなしごとや幼少期の記憶、旅の行く先、仕事への向き合い方、好きなものの