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無二になれないわたしたち

彼でないとだめな女になりたかったし、わたしでないとだめな男になってほしかった。今もまだ会いたいし触れたいけれど、この会いたさも触れたさも、きっとほかの男に触れることでそれなりに埋まってしまう。そのことが、とてもとてもとても、どうしようもなく、かなしい。

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彼が出張から帰ってきたと思ったら今度はわたしが仕事の繁忙期に突入してしまった。それを言い訳にはできないけれど、なんとなくコミュニケーションに齟齬や間隙が生じはじめていることに気づきながらも、わたしは見て見ぬふりをしつづけ、やがて耐え切れなくなったころには、すべてが、取り返しのつかないほどに空転していた。

お互いにちゃんと「会いたい」と思う気持ちがあれば、お互いにとってお互いの優先度が高ければ、無理は効くしだいたいのことは後回しにできるしチャンスは逃さない。だから、あの日々の中でわたしたちはおそらくちゃんとお互いに恋をしていたし、そのあとに続いた日々の中でわたしたちは次第にすれ違っていったのだ、と他人事のように言語化してみる。言語化すれば、良かれ悪しかれ感情は固定される。もう不安定に揺れ動いたりしない。だからわたしは不安なとき、喘ぐように指先から文字を零しつづける。

「タイミングが合わなくなった」のではない。「タイミングを合わせることへの熱量が落ちた」だ。「会えない夜」ではない。「強く会おうとしなかった夜」だ。彼は安寧の維持に腐心するあまり心のどこかを硬化させてしまい、その気配を敏感に察知したわたしは、不安を自力で殺せなくなる。負のスパイラルにはまりかけている自覚はあったものの、直接的な解決方法を模索できるほど、わたしはまだ彼のことを信頼できていなかった。なにがあっても飲み込めるという覚悟を盤石なものにするだけの時間的余裕さえ与えられないままだった。

わたしは相変わらず、ある種の諦念をもってしか恋を始められない女だし、そのくせ容易く傷つく女だ。「諦めがよすぎる」と友人はわたしを評したけれど、他人に対して抱く期待の量を極限まで減らしていないと気が狂ってしまうと思いながら生きてきただけだ。

「会いたい」けれど、たとえその「会いたい」をなんとか口から捻り出せたとしても、熱量を合わせてくれない相手に会ったところでふたりぶんの熱を燃やせるほどの気力などおそらくわたしにもないのだった。ふたりぶん燃やしたら負けだ、と思ってしまうわたしはやっぱり恋愛に勝ち負けを持ち込んでしまう女で、ここのところずっと勝っている側だったから、潔い負け方を思い出せないでいる。負けても構わないはずなのに。

わたしばかりがほしがっているのは苦しいから嫌だ。手を伸ばせない自分はずるいから嫌だ。嫌なことばかりが、火山灰のように静かに降り積もっていく。

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悪い予感を覆せないことに定評のある女だ。

話し合いをする気のない相手を建設的な話し合いのテーブルにつかせるための努力をすることも、相互理解を放棄してなし崩し的に寝技を弄することも、いまのわたしにはできない。そういう上下関係のある恋愛に持ち込んでしまうと、わたしが上の場合相手を傷つけることに躊躇がなくなるし、わたしが下の場合自尊感情が著しく削られる。

夏の嵐の名残が轟々と梢を揺らす中、うまく会話ができなかった。殊更に蓮っ葉を気取ってみたところで、彼はわたしと目を合わせない。心が通っていないと、歩幅というのはこんなにも合わないものなのだと今さら思い知る。あの日彼の歩みについてゆくことはあんなに容易かったのに、今日は距離が開くばかりだ。明け方まで降り続いていた雨に足元がぬかるむ。どう切り出せばいいか迷っている気配を濃厚に滲ませている背中をそれでも追うのは、それなりに、痛い。


「密室でしか恋愛できないなら、それはセフレと何が違うの」

こんなくだらない言種で恋を総括するしかなくなることを悲しいと思う気持ちと、せめてこういう言葉で恋を総括できるわたしであってよかったと思う気持ちとが、溶岩流が海に流れ込むように、双方を損ないあう。 ただしい恋に日陰要素を持ち込まれることへの拒否反応をどうしても消せずに泣いたのはそういえば二度目で、己の学習能力のなさにため息が出る。不安を飼い馴らせたなんて思い上がりだ。

容易く手を離せたのはたぶん、その手を掴んでいるという実感がなかったからだった。結局彼が何を考えているのかを、わたしはひとつも知りえず、抱いている間中キスや指で口を塞ぐのは、そういう性癖なのかそれとも声を聞きたくないだけなのかも訊けずじまいだった。けれど、終わらないキスやわたしの口腔粘膜を撫でる指先には、たしかに何らかの熱が籠っていて、わたしはそれを好意なのだと信じたかった。

わたしは、それでも、それだけでは不安だったのだ。

***

「友達に戻ろう」に素直に合意したはいいけれど、友達だったころにセックスまできっちり済ませていたから、恋人であったころの関係性から何を除外すればいいのか分からないでいる。「セックスもするフレンド」を彼が求めているのなら、わたしはたぶんこの関係性に「恋人」という名前をつけることを強いて請いはしないだろう。排他性がないほうが自由だし、自由な男がそれでもわたしをほしがるならそのほうがいっそスパイシーだ。すべてを手に入れられる可能性が確定的に失われているなら、そのほうがいっそ安心できる。


彼の隣に座ることをやめ、他の男の甘やかしを素直に容れて、「もうあなたを特別扱いしない」という意思表示をしたつもりだったのに、彼は相変わらず何を考えているのか読めない顔をして、わたしの努力などかるがると踏みこえてゆく。星が綺麗だと呟けば、「見に行こうか」と返ってきて、ああ、このひとは、ひどく残酷だ、と思った。わたしの感情をそれなりに処理する気はあるようだけれど、別れた女と星を見に行きたい男の気持ちは1ミリも分からない。「誰でもいいならわたしでいいじゃない」が言えたころのわたしにはもう戻れないし戻りたくもないなと思う。

飲み会の夜にアルコールが尽きてくるとわたしの缶チューハイに手を伸ばし、挙句ハードリカーに酔いつぶれて人目も憚らずにわたしの膝で眠り、家まで送り届ければ執拗にキスを強請り、それをいなせばわたしの指をくちにふくみながら駄々を捏ねる。その唇がどうしようもなく恋しいと思ったけれど、これに応えてしまえばきっと彼は二度とただしくわたしのところへは戻ってこないだろう、と思うとなぜか強く胸が痛み、わたしは笑っていなしつづけた。ただしくなくても構わない、と思ったはずだったのに。応えられないということにすらすこし泣けて、ああ、まだわたしはこの男のことが好きなのだな、と思った。

酷く、愚かだ。

***

彼は、ひとを拒絶するのがあまりうまくないから、わたしはときどき、その陥穽を突かずにはいられなくなる。

友人同士で昼から海辺でBBQをして騒ぎ、波打ち際で水をかけあって遊んでいたら、彼がわたしを水に踏み込ませようと強く手を引いた。彼の手がわたしの手首を掴むことなどもう二度とないだろうと思っていたのに、まだ彼はその手を伸ばしてわたしに触れる。その指先にはまだ、あの熱が籠っている。

彼に名前を呼ばれた、ただそれだけで嬉しくて、馬鹿みたいだなと思った。彼の唇から溢れるわたしの名前。彼の舌が紡ぐわたしの名前。普段はみんなからあだ名で呼ばれている彼のことを、わたしは付き合っていた頃だけ下の名前で呼んでいた。彼もそれをほの甘く思い出したりするのだろうか。

好きだ、というこの気持ちだけを、フリーズドライにしてしまいたい、と思った。覚えておくのは、うつくしいものだけでいい。

階段に腰かけて夕凪の海に足を浸しながら、わたしに背中を預けて座る彼の髪を指で梳く。ああ、ずっと触れたかったな、と思う。この手はいつかまたきっとわたしに触れる、となんの根拠もなく思い、すこし安心する。それがわたしにとって幸せなことなのかどうかはわからないけれど。

髪に触れられた彼は心地よさそうに目を細める。彼も、うつくしいものだけを記憶すればいい。

わたしと曖昧に過ごす時間のぬるい快適さを、遅効性の毒のように彼に染み込ませていく。それを心地よいと思うなら彼はやっぱりわたしの隣にいることを選ぶし、そうでないならまた離れていく。それだけの話だ。わたしは選択を彼に委ねるけれど、彼は必ずいつかまたわたしを抱くだろう、と思う。それまではちゃんとわたしで自慰をしていてほしい。

***

彼でなくても埋まってしまう自分にいちばんうんざりしているのはおそらくわたし自身だ。彼がほかの女にやさしくしているのを視界の端に捉えながら、わたしはほかの男にやさしくされてしまう。お互いがお互いの「唯一無二」になるまえに終わってしまったことが、とてもかなしい。わたしたちはお互いにとって、所詮寄せては返す波頭のひとつに過ぎなかったのだろうか。

結局帰り道はふたりになって、別れ際にあざとくその胸に顔を埋めたら、懐かしい匂いがしてまた胸が痛んだ。腰にゆるく彼の腕が回り、優しい手のひらが髪を撫でた。

別れ際にわたしの頭を撫でた男は、全員その後わたしと付き合ったから、彼もその轍を踏めばいい、と思う。普段のわたしは根本的に、他人に頭を撫でさせるような女でも他人が頭を撫でたくなるような女でもないはずで、そんな女が頭を撫でられてしまうのは、わたしが意図的に隙や甘えや好意を見せて、相手がそれに呼応した場合のみだ。その応答の成否は、そのまま恋の成否だった。

かつてわたしが初めて自分から彼に触れた夜、「甘えてくるねえ」と彼は笑い、その翌日わたしは初めて彼と寝た。事後、彼の膝に頭を預けて、彼が延々とわたしの髪を梳きつづけるのに身を任せていたのはそう遠くもない過去のことだ。

このまま触れていたら歯止めが利かなくなりそうで、その胸からそっと離れて「おやすみなさい」と手を振った。


こうして今日もわたしは夜が怖くて、やさしい男の方へ足が向く。

彼の目も指も腕も胸もまだたしかにわたしへの感情を宿しているのに、口だけが「もうやめよう」と語る。彼がわたしの手を離すときにわたしに告げた理由が本当なのだとしたら、付き合っていようがいまいがもう変わらないから、いい加減諦めてわたしのものになればいいのに、と思う。

こんな夜に、縋りついて静かに泣ける胸があってよかった。押し流すような熱量で求めてくれる男がいるから、夜はやがて白々と明ける。こんなに求められても、それでもまだ心のどこかで、彼に触れたい、と思う。わたしはまだあの、ナイーブだけれど熱を孕んだ彼のキスに溺れていたかった。

こうして夜を埋めながら、キスは、枯れてゆくのだろうか。

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