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彼が呑んだ、わたしの

キスですべての喘ぎ声を吸い取ってゆくような抱き方をされたので、わたしの腕に絡まって身動き取れなくなってしまえばいいと思いながら首に手を回した。その喉に飲み込まれていったのが、ただの嬌声だったか、それとも悲鳴だったか、あるいは嘆息だったか、彼はたぶん知らない。

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滴るようなキスだけで終えてきたこれまでのいくつかの夜、彼はいつもわたしの髪の香りを愛でた。シャンプーとトリートメントは保湿力を求めてコタを長らく愛用しているけれど、あまり強く香るタイプのものではないので、わたしの髪からいちばんに香るのはおそらくモロッカンオイルだ。髪を解けば、重くてスパイシーなバニラムスクが溢れ出して空気の密度を変えるから、そのままちゃんと愛してほしい。幾度も角度を変えながら落とされる彼のキスは、わたしたちの嗅覚を遮断しない。


初めてわたしの服を脱がせた夜、「どうして澪からはいつも甘い匂いがするんだろう」と彼は呟いた。「髪もいい匂いがしたけど、肌からもなんだかいい匂いがする。ボディーソープかな」と彼はわたしの子宮を覆う肌に唇で触れる。

ううん、Dr. VranjesのPompelmo Cassisっていう、わたしの大好きなルームフレグランスだよ。部屋中に香らせるにはすこし重いから、ときどき肌に落として寝香水がわりにしてるの。今夜はあなたがわたしに触れることが分かっていたから、そこに1滴垂らしてきたの。

…なんてまるごと口にしてしまうような野暮な女にはなれないから、種明かしを飲み込んだわたしは、「え、なんの匂いかな、わかんない」と枕に顔を埋める。わたしがちいさな罠を狡猾に仕込みつづけていることなど、彼は一生気づかなくていい。ただ、この香りを、わたしのものとして記憶すればいい。

彼はわたしの身体をまだ知らない。快感の種子がどこに潜んでいるのかをぎこちなく探ってゆく彼の指先や手のひらや舌やくちに、わたしはこっそりと地図を広げるように反応を注意深くチューニングする。彼がきちんと歩けるように、なのか、彼にわたしを知ってほしいから、なのかは自分でも分からないし、たぶんどちらでも大差ない。抱かれながら背中に爪を立てるとき、その力加減さえ計算していたことに彼は気づいていただろうか。演技だと言われてしまえばそれまでだけれど、それでも、分かってほしいと思っているからこその演技だと分かってほしい。


当たり前だけれど、取り立てて動物好きではない人のセックスは動物的ではない。「夜目にも白い」とわたしの腰に指を這わせる彼は、ときどきそんなふうにわたしがこれまで縁遠かった語彙や表現をあっさりと会話に織り込んでくるから、そのたびにすこし目を開かされる思いがして、目を瞑って溶けてしまいたかったわたしは同時にすこし、人間に引き戻される。人間のままでは壊れられないし手放せないから、わたしはただベッドに縫い留められて、もどかしさにちいさく腰を揺らすしかない。

それでも、彼はわたしを「教養」という言葉で形容するので、彼の目にわたしがそのように映っているならばまあいいか、と思う。彼がわたしに提供してくれるストーリーのことも、わたしが彼の上に読み取るストーリーのことも、わたしは結構好きだ。わたしはいつも、ストーリーを抱いているし、ストーリーに抱かれている。

セックスのゴールが挿入だとも射精だとも思っていないし、わたしが達することだとはなおさら思っていないし、なんならむしろゴールなどないと思っているので、挿入のための前戯であったことを感じさせるトーンで前戯を切り上げられると、ああ、対話性の薄い、さびしいセックスをする人だな、と思ってしまう。彼がベッドの上で自分からわたしになにかを求めてくるタイプではないことは分かっているけれど、わたしはそれを必ずしも誠実さだとは評価しない。

わたしはもう、相手の倫理的な誠実さなど求めなくなってしまったけれど、少なくともベッドの上でだけは性的に誠実であってほしい。セックスをふたりで螺旋状の沼に潜っていくお遊びだと認識しているわたしは、そういう意味で、相手が散々わたしに触れたあとには、わたしにも散々触れさせてほしくなる。

歳を重ねた男の粘度と練度の高いセックスに慣れすぎたせい、というわけだけではなく、わたしは「未完成」を愛することが本来あまり得意ではない。けれど、彩度と明度の低い彼のセックスは、人見知りで繊細な彼らしくてそれはそれで悪くなくて、ああ、これの完成形が見てみたい、と思う。いちばん美味しいところをいちばん美味しい食べ方で食べるまで、ちゃんと「食べた」とは言えないから、フェータルな合わなさがないなら、「物足りない」で切り捨ててしまうのは惜しい。いま、わたしの性的な熱量の激流に性急に巻き込んでしまおうとは思わない。いつか触れられれば、それでいい。


ゆるい抽挿が、わたしが確実に快感を得られる箇所を念入りに、けれど決定打にはならない程度に刺激してゆく。分かってやっているのか、それが彼の余裕のなさゆえなのか、は考えるのをやめた。前戯の間わたしの肌のあちこちを這った唇はいま、わたしの唇を柔らかく塞ぎつづけていて、突き上げと縫い留めとを同時にこなす彼は案外器用なのだな、とくだらないことを考える。わたしの声を飲み込みつづける彼の心境を、あるいは逆にわたしに彼の声を与えつづけてくれているのならばその声のいろを、だれか教えてくれないだろうか、と彼の肩や背中に手を這わせながら思う。

愛とも欲とも似ているようででもすこし違う、彼の向けるその熱を形容することばを、いまのわたしは知らない。けれど、そのキスの執拗さには、どこか狂気と呼んでもいいようななにかが滲んでいるのを感じる。彼の、ある種お作法通りのノーマルなセックスの中で、そのキスだけが背景から浮いている。その理由を知りたい。

わたしが「知りたい」と思うとき、それがもうほとんど恋であることに、わたしは薄々気づいている。


安定した人生を選んだつまらない男だとか、可もなく不可もないセックスだとか、そんな誰にでもできてしまう描写に興味はない。わたしにしか見つけられない彼のストーリーを、丁寧に丁寧に掘り出したい。陽性を被った人間の心の襞に潜む鬱屈を、舌の先でなぞりたい。

彼が呑んだわたしの声はきっと、胃の腑から吸収されて彼の身内をめぐり、次に彼がわたしを抱くときに、彼の内側で明滅してわたしに彼を教えてくれる。



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