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5/1095 楽しめるという強さ

先日涙をいっぱいにためて「できない」と伝えたと書いた。

あの日、言えた瞬間からどっとエネルギーが循環し始めているのを感じる。軽やかだ。軽やかすぎる。仕事がバンバン片付いていく…。

今回のことで改めて、自分が完ぺき主義の傾向が強いことに気付いた。上司から、

「そんなのかすり傷にもなってないくらいのことだからね。
 気にしないで大丈夫。もっと気楽に、楽しんで大丈夫。」

と言われた。

今までもあらゆる場面で同じことを言われてきたけれど、ようやくその意味が体感で理解してきていると感じる。

楽しむということは、見たくないものを見ないようにして、もしくは頭の隅に追いやって考えないようにする、ということではない。むしろ、そこにちゃんと目を向ける、言い訳を聞いてあげる、ということだ。

自分の中に確かに「ある」その見たくないもの。それがそこに「ある」ことを認めて、その存在をちゃんと見て聞くこと。ないことにしない、無視しないということだ。

好きの反対にあるのは嫌いではなく、無視だそうだ。

無視されるということは、存在自体をなかったことにされているということ。そんなに悲しいことがあるだろうか?どんなに醜くみたくないものであっても、そこに「ある」ことにスペースを与えてあげられることが愛だ。そこにいるんだね、と認めてあげること。それは許しでも、ある。

ただただ、そこに「いる・ある」ということに気付くだけでいい。排除もせず、寄り添うことも必要ない。ただ、いるんだね、と気付くだけだ。

そうするとじわじわと安心感が増して、そこに滞っていたエネルギーが循環するようになる。私の中に合った悲しみも、気付いて居場所を確保できたことで流れるようになったのだと思っている。

私がハウツーが好きじゃないのは、コントロールが入るからだ。ある野茂をどうコントロールするか、というのが好きじゃない。コントロールすることなど単なる上辺のテクニックで、根本から変容することなどないからだ。うわべだけを整えたところで、水面下は何も変わっていない。だから繰り返す、何度も何度も。

ちゃんと見て聞いて、ただそこにあるものを受け取ること。許すこと。

ただただ、それをすることだけで、受容されるだけで、おのずと変化が起き、変容につながっていくのだ。

循環し始めたエネルギーは、癒されることでこだわりも薄くなり、楽しむということが濃さを増す。楽しいと感じる、感じられる領域が広がるのだ。

どんな場面でも、何が起こっても、私は大丈夫という自己信頼のもと、様々な瞬間を楽しめるということは強さに他ならないと私は思っている。

そして私は、楽しめるという領域と強度をますます拡大させていきたいと思っている。そう思うと、今目の前で起こっているいろいろなことが、彩度を増して目に映ってくる。一瞬一瞬が宝物に感じるようになる。

より、楽しもう。
そんな風に過ごせる毎日がとてもありがたいし、随分と遠くまで来たなぁと思ったりもする。そしてこれから先もまだまだ、続く道にワクワクしている私に気付くよ。

あどまーに!


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