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ドラマで勉強「虎に翼(第70話)

吠えちぎった寅子と穂高先生の関係。
どのようなことになるのか…と思ったら、割とアッサリと解決してしまった。

正直、愛のコンサート辺りから、以前ほど楽しめない。
製作陣が変わったのかな?と思うくらい、寅子が掴めないでいる。
志が見えないからだと思う。

小橋や轟など脇キャラはいるだけで面白い。なのに寅子は面白いと思えないのだ。

なぜ、寅子はそんなに吠えるのか。

最近は多岐川さんと顔や体の距離が近い。
昔なら「近づけないで下さい、触らないで下さい」だったと思う。

桂場・ライアン・多岐川達と仲間っぽくなったから?
仲間なので男女関係なくなったの?
大人になったの?

寅子は「女性」の「不平等」を怒っていた。
今は女性ゆえに有名になり、仕事も忙しくなり、男性よりも目立つ存在になった。
昔のように「はて」と考える場面が減ったんだろう。

「はて」は寅子を象徴する言葉だから、今でも度々登場する。
しかし「はて」に重みが無くなったのだ。

花束を放り投げて、テーブルの合間をドカドカと去っていった。
先生のスピーチを聞きながら「はて」と考え、その場で「先生は女子部を作ったじゃないですか!」と問うても良かったのでは?

あぁ、でも。
寅子の中では「女子部に誘ったくせに、途中で辞めさせられた」「期待してくれていたのに、途中で見限った」と捉えていたんだった。

確かに穂高先生、雲野先生、周りの人全てが「休むべき」の流れを作っていた。でも、辞表を書いたのは寅子だし、提出したのも寅子。

人には自責の念が一つや二つ感じることがある。よねさんは自責の念ばかりで地下に篭っているし、梅子さんは一瞬狂ってから自分でケリをつけた。

寅子には他責はあっても自責の念、概念が無いんだろうなぁ。

特に「平等」という問題は令和の時代でも続いているテーマ。女子部を作ったのは大きな一歩だけど、真の平等の世にするには何世代ものリレーが必要。

社会を変える、価値観を変えるには膨大な時間が必要。ひと世代では成し得ない。星長官も穂高先生もリレーの必要性を知り、前時代の最後のランナー・出涸らしとしてバトンを繋ごうとしたのだ。

だからやっぱり寅子をあれほど吠えさせる必要性がイマイチ分からない。


このエピソードはSNS界隈でも「分かる」「分からない」と色々な意見が溢れた。
製作者は「分からなくて良し」という方針だと思っていた。

でも轟が花岡に惚れていたエピソードの時、そして今回。

公式から「あのシーンはこういう意図で」とSNSやHPで説明を入った。
個人的にはこのやり方は好まない。
ドラマ自体が作り手の意図を表現したものだと思っているので。

実はSNSやネットを使わない人は思ったよりもいるのよ。
私の友達でSNSをやっている人は1%程度。
占い関係の友達でも使いこなしている人は少数。

SNSやネットというツールを知らない人。
使いたくても諸事情で使えない人。
それこそ不平等な対応だと思う。

尺の問題などもあると思うが「全てはドラマで伝えています」で完結してくれると嬉しい。


話を戻して。

流石に「言い過ぎた」と頭を抱えていた所に、バーンと扉を開けて穂高先生が登場。

寅子の言葉を遮り、穂高先生はまず「すまなかったね、佐田くん」と頭を下げた。

穂高先生
「私は古い人間だ。理想を口にしながら現実では既存の考えから抜け出すことが出来なかった。だが君は違う。君は既存の考えから飛び出して人々を救うことが出来る人間だ。心から誇りに思う。それを伝えたかった。」

寅子
「私は先生が古い人間とは思いません。尊属殺の最高裁判決、先生の反対意見を読みました。昨日のことは撤回しませんが、先生の教え子であることは心から誇りに思っています。」

穂高先生
「ありがとう。君たちあとは若いもんに託したよ。」

寅子
「私、てっきり怒られるとばかり。」

穂高先生
「そんなことはせん。そんなことは。これ以上嫌われたくない。」
「わかっとるよ、それなりに好いていてくれているのは。
良かった。最後に笑ってスッキリした顔でお別れ出来そうで。」

「佐田くん。気を抜くな。君もいつかは古くなる。常に自分を疑い続け、時代の先を歩み、立派な出涸らしになってくれたまえ。」

最後の言葉、何気にイエローカードでしたよね。

人生最後の晴れの日を、あんな形でぶち壊されたのに、自ら出向いて頭を下げることが出来る人。
大きな人間性を持った人でした。

ずっと思ったいたけど、シャツの襟がラウンドでオシャレ。

祝賀パーティーの時も、寅子を見つけて嬉しそうに両手を下でフリフリしながら小走りしてきた。フェミニンな感性を持っている方で、それが憎めない所だった。
そうそう、可愛げって大切です。

シャツの襟が丸い、つまり尖っていないことの象徴。

穂高先生も寅子も理想を掲げる人だけど、穂高先生は尖らない人。
寅子は尖った人なんだろうけど、最近無駄に尖り過ぎていて可愛げがない。


穂高先生には実在するモデルがいます。穂積重遠氏
このドラマで知り、少しだけ調べました。

新紙幣でも話題の渋沢栄一氏のお孫さんです。
優秀でエネルギッシュで、背中を丸めてスタスタ歩く様子から「イノシシ」と呼ばれていたそうです。
寅子の苗字「猪爪」に関係あるのかな?

そして「日本家族法の父」と呼ばれているそうです。

この先、多岐川が「家裁の父」、寅子が「家裁の母」と呼ばれるのですが、多岐川にとっても、寅子にとっても、穂高先生はお父さんですよ。

穂積重遠氏は東宮大夫、東宮侍従長、皇太子の教育機関である御学問所の総裁と皇室とのご縁のあるお方でした。

「皇太子に帝王学(道徳)を教えた人」という記述を見ました。
※ググっていて見つけたけど、再度確認が出来なかったことなので、間違っているかもしれません。

「あれ、帝王学=道徳?」と思ったのです。

帝王学は「国王・天皇など特別な地位に就く人物に施される教育」のこと。
なので道徳とイコールではない。

道徳も定義が難しいですが、
「善悪の規範。個々の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。社会性とも関わりがある。(ウィキペディア)

先日、天皇皇后両陛下がイギリスを訪問された様子がXに溢れました。
日本の象徴ですから、海外の方からすると「天皇の人柄=日本」になる。帝王学と道徳が並んでいるのも納得した。

穂高先生の最後の仕事は「尊属殺」が合憲か否かをジャッジすることでした。

15人の最高裁判事の中で穂高先生と矢野さんの2人だけ「違憲」と判断しました。13対2なので結局合憲となりました。

その時の穂高先生の意見書。

この度の判決は道徳の名のもとに国民が皆平等であることを否定していると言わざるを得ない。法で道徳を規定するなど許せば憲法14条は壊れてしまう。道徳は道徳、法は法である。今の尊属殺の規定は明らかな憲法違反である。

20年後、尊属殺について、また議論する事件が起こります。

穂高先生と実在した穂積重遠氏。
名前を寄せているので、穂高先生の人生も同じだと推察されます。

尊属殺は「年長者は偉い。親も年長者だから偉い。偉い人を殺したら厳罰が当たり前」という道徳観。
それはそう、間違っていない。
でも法律とは切り離すべし、が穂高先生。

今回の寅子噛みつき事件ですが。
この尊属道徳観と被るのです。

年長者は年長というだけで「偉い」「敬え」と決めるべきではない。
親も同じ。

年齢や親子というカテゴリーではなく、個人対個人として接するべし。

その時、ある程度の尊重と敬いの心はあってもいいのでは?というのが道徳。
もちろん、どうみても尊敬も尊重も出来ない人は存在します。

穂高先生はきっと法律家としても道徳家としても一流の人、一流であろうとした人だったと思う。

だから教え子で年下で、大変失礼な寅子にも、最大限の敬意を払って対応してくれたのではないだろうか。
寅子には伝わったかなぁ。


道徳の定義に戻りますが。
善悪の規範。個々の価値観に依存するが、多くの場合は個々人の道徳観に共通性や一致が見られる。社会性とも関わりがある。

私の小学校時代は道徳の時間がありました。
一度無くなったけど、また復活したのだろうか?

担任の先生の専門が道徳で、道徳の時間は丁寧だったと思う。
当時は道徳って面白くなくて、退屈でした。
でも、頭に残っている授業がちゃんとある。

授業で教えてもらうのはほんの一部。

通常は家庭や地域で小さい頃から「お天道様は見ているぞ」的な善悪の規範を刷り込まれる。家族、市区町村、国と広がっていく。つまり国民性に繋がっている。

今も「あの地域は…」みたいな括りがあるように、小さいコミュニティー独特の道徳観も存在する。

道徳は倫理観と似ているかもしれないし、良心と近しいところにあるかもしれない。

何が善で何が悪なのか。
個人的な判断基準であるが、それは社会性にも繋がっている。

寅子はずっと法律を学び、正しさを追求して生きようとしている。
法律は国が決め、裁判官は法律を正しく使う。

法律は明確な文言として存在し、日本国の共通の価値観として提示されている。
個人の主観は入りこむ余地はないが、使い様であることはドラマで見てきた。

ここにきて、寅子自身の道徳観が試されているのでは?と思ったりしました。
道徳は個人に依存する。

法律にはないことを判断をしなければならない。「寅子はどうする」を自分で考える時期。

大人だからと言って意見を飲み込む必要はない。
言いたいことがあればちゃんと言えばいいし、噛みつきたければ噛みつけばいい。

ただ場をわきまえる、人に嫌な思いをさせない配慮。

関係ない人(パーティーの出席者、主催者の桂場やライアン、多岐川)を巻き込まず、個人的に喧嘩をすればよいのでは?

桂場だって、まぁまぁヤバい人ですが、一応場をわきまえている。

お父さん、お母さん、穂高先生。
もう頼る目上の人はいない。
叱ってくれる人も、間違いを指摘してくれる人もいない。
あ、花江ちゃんがいた!

桂場、ライアン、多岐川。
いつの間にか、このラインに並んでしまった寅子はどうするのだろうか?

ふと思ったけど「母親はこうあるべき」は道徳観なのでしょうか?

心理学的に母親(母性)の必要性は解釈の方法は出来る。

皆が言う、私も思った「寅子、もう少し子供に意識を向けて」と思ってしまうこと。
これは我々が共通して持つ道徳観のせい?

以前にも書いたけど寅子は先駆者・改革者。タロットでは「17番・スター(星)」
新しさを求めるならば既存の枠に縛らない。はみ出していく人こそが改革者。寅子はそちら側の人間。

敢えて恩師に噛み付かせることで「古い道徳には縛られない人」を表現したのかしら?
令和を生きる昭和な私は「ちょっと違わない?」と思ってしまうけど。

穂高先生はタロットで道徳と言えば「5番・司祭長」

昔はローマ教皇を描いていました。
精神的な指導者。人々に善悪を示し、正しい道に導く人。

まさに「道徳」を絵に描いたものです。
教皇の教えが人々の善悪になります。

ただ、ローマ教皇が真っ直ぐに精神的な指導者だけでなかったのは歴史でも明らか。政治に絡んだり、時に戦争をしたり。

道徳は教皇の思惑一つで自在にねじ曲げられる。
だから私たちも妄信せず、自分で考えることをしないといけないんですね。
勿論時代に合わせて改変されていきます。

信仰は心の支えになります。

中央の大きく描かれた男性はエジプトの王・オシリス。
大きな男性=王=父=家長制度ですね。
今の寅子はまさに大黒柱として家計・家庭を支えています。

オシリスの胸にいるちびっ子が古い家長制度をぶち破り、平等な世界を作っていきます。その時、支えてくれるのが下に描かれている女性・母です。

次週は寅子の家族周りが騒がしくなりそうです。
仕事で家庭の問題を扱っている寅子。

今日は梶山栄二くんを叔母さんに託すことが出来た。
良い仕事が出来た。

しかし自分の家庭の問題に法律は使えない。
家族の問題は本当に個別対応なので、寅子がどう対応していくのか。

ここで何かしらの気づきがあるのだろうか?

タロットで言えば、今までちびっ子として父・母に守られ、スクスクと無邪気に育ってきた寅子。そんな寅子も40歳前後。
小学生の子供もいる。

大黒柱となり、子供に光を当てる側になっていた。
もうとっくに守られる時期は過ぎていたのだ。
穂高先生の退場は象徴的。
そのことに寅子はまだ気がついていない。

小学校の担任・道徳の先生。
穏やかで優しくて怒った顔を思い出せない。
小学校1、2年の時は、その穏やかさが物足りなかったのかもしれない。

3年生になった時、先生は学校から突然いなくなった。
「皇太子殿下の家庭教師になった」と聞かされました。
ようするに東宮侍従になって訳ですね。

穂積重遠氏は長ですが、その辺がちょっとリンクして「道徳」と聞くと当時を思い出さし反応してしまいました。

記憶にある授業は「親孝行すべし」みたいなものではなく。

「人ってこういう弱さがあるんだよ。こういう時にこういう気持ちになってしまうんだよ。だから人に声をかける時も気をつけなくちゃね」という話でした。

道徳は「人」について教えてもらった気がします。



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