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【創作】ヘリオス 第10話


次の日の夕方、晃輝さんが予約してくれた銀座のイタリアンレストランに来た。高層階の窓際の席は、まだ明るい東京の空が美しく見える。

「昨日は本当に素晴らしかった。MCも堂々として分かりやすかったし......」

優しい笑みに、とろけてしまいそうになる。

「来てくれて、とても嬉しかったです」

拙いお礼を言った私に、微笑んで晃輝さんは続ける。

「演奏も、もちろん良かった。あの『龍歌』は不思議な表現だったな......。息ぴったりなのに、お互いが別の方を向いている。というより凪の演奏が外を向いていて......山田君が......追いかけている感じかな。幸福と悲痛が入り混じっていた。とにかく今までにない表現で、斬新だったと言うか......」

そこで私の表情を見た晃輝さんは、何かを察したようで話を止めた。

「山田君とまた何かあったのか」

この人は本当に鋭い。演奏の核に潜んでいる朧げな気持ちまで読み取ってしまう。隠しておくことは出来ない。そこで私は優成くんの結婚の申し出を断ったことを話した。

「優成くんのことは人として好きですが......家のためなら......晃輝さんの方が良くて......」

酷い。ずるい言い方が口から滑り出す。自分が嫌になる。好きだ、というたったひと言が、言えない。恋愛を信じない晃輝さんに伝えたら、重荷になってしまうかもしれない。前だって『高校生のような甘い純愛』と言って、恋愛を軽視していた。

そんなのは私の言い訳なのかもしれない。だけど怖い。晃輝さんに嫌がられたら、辛すぎる。それを考えると優成くんは、なんて勇敢だったんだろう。


「それじゃあ凪は......俺との結婚を決心してくれたのか」

「はい。私で良ければ......よろしくお願いします」

出すように促されて手を差し出すと、その甲にキスをして晃輝さんは笑った。

「良かった、凪。それじゃあ早速契約書を送るから、内容に納得できたらサインして一部を返送して欲しい。……いや、今から俺の家で契約しよう。実はもう出来ている」

契約書。事務的な響き。
心に引っ掛かりが残る。私は晃輝さんの愛情まで欲しいんだ。結婚は家のためだと思い、言い続けていた私が、今さらなんて贅沢をねだっているんだろう。

レストランにはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番がかかっていた。あの晃輝さんのラフマニノフは、本当に空想で弾いたんだろうか。


晃輝さんのマンションで契約書を確認してサインすると、一部を控えとして私に手渡した晃輝さんは、獲物を捉えたような顔をした。

「男に気軽に着いてきたら駄目だと言っただろう」

「相手が婚約者でもいけないんですか」

笑わない晃輝さんは怖い。それには答えずにキスをした。激しい、何もかもが足りていないようなキス。


「日が変わるまでには帰すから」

晃輝さんの身体は相変わらず熱くて、激しかった。獲物にありつくのが久しぶりの獅子のような顔をして、何度も私を絶頂に追いやる。結婚を決めたのに、飢えたように私を抱き潰そうとする。

一体、誰を想って私を抱いているんだろう。痛みなら我慢出来る。だけど、心が伴わないこの気が狂いそうな快楽は、耐えられない。優成くんが言っていたのは、こういうことだったんだ。

まるで私を責めるように、優しいのに乱暴に、晃輝さんは私を抱き続けた。




ドンドンと扉を叩く音と共に、「お姉ちゃーん!」と言う声が聞こえた。聴いていた晃輝さんのYouTubeを止めて、部屋のドアを開けると共に、妹の鈴が捲し立てて来る。

「お姉ちゃん!うるとらすうぱあ超絶イケメンと結婚するんだって?」

......晃輝さんは確かにイケメンだけど、凄い形容。発音からして家元が言ったのか。お母さんの神様の形容と言い、変な表現をするのはこの家の特徴だろうか。......まあ、私のマフィアやMIBよりは、良いんだろうけど。

「それで、日曜にお姉ちゃんの結婚相手が来るから、急に予定を開けろってお父さんが言うの。あたしさ、デートのはずだったのに」

そう言って奥に入って来て、ベッドに座り込む。ラッコを殴り始めたので、慌てて取り返した。

「そうなんだ。ごめんね、鈴。8月の演奏会の準備で予定が詰まってて、空いてる日がその日くらいしか無くて。それで、私は7月だから薄物を着るけど、鈴はどうする?着物なら着付してあげるよ」

「えーっ!やだよ着物なんて暑いもん。あの黒のワンピでいいでしょ?」

鈴の黒のワンピース......。

「まさか、あのドクロの⁉︎やめてよね縁起でもない!」

「お姉ちゃん知らないの?ドクロは幸福の象徴なんだよ!ていうか、固っ苦しい服はみんなリサイクルショップに売っちゃったから、他に服無いし」

そこで鈴の普段着ている服を思い起こしてみた。

ところどころ破れている、そういうファッションらしいデニム。座ったら痛そうなほどスタッドがついているマイクロミニスカート、血のりのついたクマのTシャツ、何処で買ったのか理解に苦しむ「I ♡ ヌンチャク」のロゴ入りサロペット、カエルのゾンビみたいなのが、中指を立てて喧嘩を売っているロングTシャツ......。

「......鈴、私、貸してあげる。これなんかどう?」

クローゼットから品の良いワンピースを取り出すと、この世の終わりのような顔をした。

「ピンク?おぇっ!無理無理無理!」

「じゃあこれは?」

幾つか鈴に似合いそうなものを出してみたけど、酷く嫌な顔をされて難航する。ようやくラメの入ったブラックのドレスで了承してくれた。

「ところで、お相手のイケメンはどんな人?」

そう言われて、複雑な気持ちになる。さっきまであのラフマニノフを聴いていたから、余計に顔に出てしまった。

「すごく...素敵な人だよ」

「お姉ちゃん、じゃあなんでそんな顔してんの?もしかしてまた、お父さんの言いなり?」

「そんなことないよ。晃輝さんは私にとって、とても大切な人なの」

そう言って晃輝さんのYouTubeを見せようとしたけど、

「ふうん、まあいいや。これ借りてくね、じゃあねー」

そう言って鈴は嵐のように去って行った。



日曜日、晃輝さんが挨拶に来た。お迎えに出向かず庭が見渡せる客間で待っていた鈴は、晃輝さんを見て大声を出した。

「やばっ!マジでうるとらすうぱあ超絶イケメンじゃん!」

「こら鈴、言葉遣いがすぎるぞ!」


晃輝さんは面白そうな顔をして挨拶した。


晃輝さんと両親はもう知った仲だし、鈴は人見知りするような子じゃないから、食事は和やかに進んだ。よく晴れた暑い日。エアコンの効いた部屋の窓から、濃い緑が堪能出来る贅沢。


途中、私がトイレに席を立ち、戻って来ると廊下に鈴がいて携帯をいじっている。私に気づくと思わせぶりな顔をして、まだ近寄りきる前に堂々とした声で言った。

「お姉ちゃん、あのイケメン、私にちょうだい」


前回のお話はこちら。

第1話はこちら。



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