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143.子どもが自分の人生を生き、個性化の種を開花させるプロセスを歩むためにわたしができること


とても落ち込んでいたので(具体的な事象のせいではなく、黄体期のせいで)、何もかもがどうでもよくなってくる。このやけっぱちな、がらっぱちな、すてばちな感じってなんかいいよね。野生を感じる。自分が制御不能な暴れ馬になったみたい。自分が荒れている分、きっちりと部屋も荒れるのがおもしろい。

汚部屋とかにはならないんだけれど、どこか投げやりな空気が部屋にもただよう。一見いつもどおりなのに、いつもより少しだけくすんでいたり、どこか一箇所がよどんでいるような、まるでお母さんにちゃんと見てもらえない子どもみたいな風情をかもしてくる。

かんちゃん(小4息子。有名なゲーム実況ユーチューバーに果敢に絡んでいってはフレンドになって一緒に実況に出演するという展開にハマり中)は、動物並みの嗅覚を持っていて、かつ基本的に優しい男の子なので、そういうときはなんとなくそっとわたしのそばにいる。いつもより近いし、はっきりと笑いを取りにくる。といっても小学生なので、突然妙なダンスをしたり、変顔を見せたり。わたしが笑うと、それを何度でもやる。

親が満たされていない場合、子どもが親を満たそうという意識を持つので、結果的にその子ども自身が持っている「やりたいこと」「進みたい方向性」に、いく流れが遅れます。と、あるひとが言っていたのを聞いたのは、まだうたちゃん(中1娘。最近やっと髪をとかしだした)が赤ちゃんだった頃だったか。

そこからわたしは本気になった気がする。
「わたしの欠落を満たすために、子どもの人生の時間を1秒も使いたくない」と思った。今でも思っている。

子どもたちが、自分の人生を生き、自分の個性化の種を開花させるプロセスを歩むためにわたしができることは、わたしがうそいつわりなく、掛け値なしに、本当に幸せに生きること、それだけだ。


あまりにも憂うつで、今日という今日はなにもできない。もうなんにも書けないし、書く意味も意義もなんにも見出せない。ただ、やめるという選択肢だけはない。と心から感じたので、夫にそれをそのまま話したら「よし、俺がいまからすごく良い論語の話をしてやろう」と、本棚に論語を取りに行ったので、うわあちょうめんどくせえ〜!となんだかおかしくなってしまった。なんだって論語。

で、どんな良い話が聞けるのか、ちょっとワクワクして待っていたのだけどどうやら該当箇所が見つからなかったらしく、「うーん、じゃあ要約するとね」といきなり要約し出したのでげらげら笑う。

要約すると、こんな内容だった。

「君がさ、山を作っているとするじゃん。スコップで」
「スコップで、山を」
「そうそう。でさ、だんだん大きくなってくるの。山らしくなってくるの。で、もう99パーセント山だな!ってところまでいくわけよ」
「うん」
「でもさ、あと、もうひとすくい必要なの。100パーセントの山になるためには。あと、もうひとすくい。そのひとすくいがなきゃダメなんだって話」
「う、うん....ええ〜??」
「待て待て、まだ続きがある。でね、今度は穴を埋めるとするじゃん、君が」
「わたしが、穴を」
「そうそう。でさ、その穴の深さっていうかデカさが100あるとするじゃん。でも君がひとすくい、土をその穴に入れたら、その穴はほんの少し埋まるんだよ、ちゃんと」
「うん」
「そういうことなんでしょ」
「.........」
「君がやろうとしていることは、そういうことなんでしょ」
「うーん、そうかも」
「じゃあ、次は俺の番ね。今日、健康診断だったんだけど、いつものオッサンじゃなくってまさかの30代くらいの女医さんだったわけ....」

と、今度は彼の「かわいい女医さんの前で、すっかり油断しきったからだをさらすことになってしまった己の不覚さ」を聞く羽目になってしまったが、まあそのくだらなさをさっぴいても、まあまあ良い話だった(でもほんとにそんな話が論語にあるのでしょうか?)。


その山がいつ「100パーセントの山」になるのか、
その穴がいつ「100パーセント埋まる」のか、

それはただひたすらスコップで土をすくい続けないことには、決して見えてこないものなのだ。


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