0922.いつでも自分以上でも以下でもない
900日もの間、滞りなくPCを開いて打キーできている、ということがまずすごいことだとは思う。一昨日はかんくん(小6息子)が、きのうはうたちゃん(中3娘)が、そして今日はわたしがちょっとした偏頭痛に悩まされているものの、こうしてnoteに向かえている。
ごはんを炊いて、キャベツともやしとえのきのお味噌汁をつくり、サバを焼いて大根おろしを添え、ピーマン・さつまいも・にんじん(かき揚げ風)をさっと天ぷらにして揚げたのを夜ご飯の食卓に並べて食べたら、ほんとうに自分の内側が勝手にととのって、癒された。
料理ってすごいなあ。
と思いつつ、なにがすごいんだろうか、と考える。
頭とからだと心と手を使って、火を使って水を使って創作をする。色と香りと味を感じて、そして愛するひとや親しいひとたちと、創られたそれらをかこみながら、一緒のものを食べる。という時間を過ごせるからだろうか。
なんだか、人生におけるたいせつなことがすべて含まれている行為のような気がしてきた。こんな心境で毎日料理していたら、来世か来来世には佐藤初女さんのようなおむすびがにぎれるようになっているかもしれないな。
まあでも、サバの塩焼きとか天ぷらとか、アペロとは程遠いんだが……。
だれかと昼間っからアペロしたい、マジで。
さて、こんなふうに日々をつづっていると、読んでくださるひとたちはみな「さめじまはおそらく、いい感じの日々を過ごしているのだろう」と思うかもしれない。
けれど別にそんなことはない。
ふつうに生きているだけなので、いい感じの瞬間もあれば、最悪な瞬間もある。刻々と変わりゆく空模様のように、わたしの目の前の事象はいつでもとどまることを知らない。
今日は今日とて、受験生というストレスがピークになっているうたちゃんが「小論文が書けない」という理由でキレ散らかしていたので、もちろんわたしもつられてキレて、ふたりで罵詈雑言&阿鼻叫喚の修羅場となった。
お互いに、ドアがぶっこわれるくらいのいきおいでバタンと閉めて、べつべつの部屋にこもって過ごしたのだった。
バーン!とはでな音を立ててドアを閉める、とか。よくやりがちだけど(わたしはね)、不思議なもので、バーン!とやったらもう、気持ちは落ち着いていたりする。
昔、職場にいた男性で、キレるとそのへんの引き出しとかゴミ箱とかガンッと蹴ったりする人がいて、当時は「怖い、怖すぎる……」と怯えていたけれど、なんか自分にもそういう暴力性ってあるし、たしかにモノに当たったりするとものすごい快楽があるんよな……と気づいたら、あまり怖くなくなった。
なので、ドアには申し訳ないのだけれども「バーン!」とさせていただいたのち、すう、と落ち着いたので、さくさくと天ぷらを揚げていたのだった。で、ごはんができたので「うたちゃーん、ごはんだよ~」と声をかけてみんなで食卓につき、さっきはごめんね、なんつってごはんを食べた。
「お母さんてさ、感情の切り替えが鬼早いよね」
「そうなんだよ〜。なんか、感情が持続しないんだよね」
「15分後とかにはもうケロっとしてるもん」
「うたちゃんもじゃん。泣きわめくと気が済むの?」
「まあ、泣きわめかないよりは」
「でも、お互い心にもない、ひどいこと言っちゃうね。本心じゃなかったんだよ、あんなこと言って後悔してる。ほんとうにごめん」
「わかってる。とにかく傷つけたくなって、いちばん相手がダメージ受けそうなことを言っちゃうんだよね」
「そうそう」
「止められないよね」
「うん、大人でも止まらないときあるから、うたちゃんくらいだとなおさらだよね」
などと語り合い、お互い「頭痛のせいってことで」と和解した。
久々に自分の中の荒ぶる暴力性を目の当たりにした夜だった。子どもたちがもっともっと小さくて、睡眠時間もロクに取れないままワンオペで育児していたころは、この残虐な鬼のような自分をメイン軸に生きていた。
あのとき、自分のことをいろいろあきらめたのだと思う。
ああ、わたしは、良い人間ではないのだと。けれどもそれでいいのだと。
そういう清濁併せ飲んだ、矛盾した、刻々と切り替わる意識の連続体が自分であって、いつでも自分以上でも以下でもないのだ、と。
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