見出し画像

035.詩|愛(というコトバ)なき世界


片想いが叶って両想いになることがよきことだと信じられるくらい、世界が単純だった頃にはもう戻れない。正直いって、初めてキスした人と結婚するんだって思っていたのだからあの頃の自分ときたら。自分の純粋さは一生損なわれることはなく、美しい世界で生きるのだと無邪気に信じていたあの頃。

今となってはなにが正しいとか間違っているとかもはやわからないというか、人の数だけ存在しているということがわかってきて、冷めたような目つきでいつでもデジタルの画面だけを見ている。

外に出たら信じられないくらいまぶしくて、花々の甘やかで濃密な空気がぐっと迫ってきておどろく。外の世界の力強さにおどろく。誰かがいつもどこかで二極化の世界について語っていて、二極って結局栄華か滅亡かだとしたら、人類が滅亡した後の地球はさぞかし美しいのではないだろうか。花々は咲き誇り、鳥たちは歌う。

人間がどれだけ面白い存在かということは、自分が人間で有る限り見えないのかもしれないと思うと残念だ。わたしは愛という言葉をほぼ使わずに生きることにしているけれど、なぜってそれは海の中にいる魚たちが水という存在や海という概念が決してわからないように、魚たちにとっての水や海それそのものが愛というものだから、人間であるかぎりわたしは愛のかけらも感知することができないのではないかと思うからだ。

魚は水のことも海のこともその一生で知ることはない。それそのものが自分たちを自分たちたらしめているということを、自分の尺度で理解することは叶わないくらい、水とか海かはその中に魚を内包している。魚はただ絶対的に生かされている。わたしたちは絶対的に生かされていて、おそらく愛の中に生かされているのだけれど、だからこそ愛の全貌をその一生で知ることはない。かけらに触れる瞬間があるだけだ。

片想いが叶って両想いになるのではなく、片想いというある種の対象への一体感への希求という最も美しい衝動が、両想いという茫洋とした日常に取って変わられるだけなのだから、それは叶ってなどおらずむしろ失われた体験なのだともう知ってしまった。ただ片想いが失われただけなのだと。



文章を書いて生きていくと決めました。サポートはとっても嬉しいです。皆さまに支えられています。あと、直接お礼のメッセージを送らせていただいておりますm(_ _)m