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あとは人工授精をするだけ!…だったのに【妊活3】

「緊張するね。」
「うん、緊張する。」

先日予約した、日本語対応可の産婦人科医に向かうパリのメトロで、
のあは、おでかけの時とは異なる、神妙な表情をしている。
きっと緊張しているのだろうが、彼女が私に声をかけたところからすると、私はもっとひどい、緊張を絵に描いたような顔をしているのだろう。
かけられる言葉には、どこか私を気遣うような語調が感じられる。

「まだ、今日の予約してる産婦人科医で人工授精ができるって決まった訳じゃないからなぁ。今日の問診次第なんだよね。」
余裕のない私は、「今日次第なんだよねぇ。」とうわ言のように繰り返す。

目的の駅の地上出口に出ると、朝早いこともあり、冷たい新鮮な空気が緊張で凝り固まった心をリフレッシュしてくれる。
受付の人によると、在籍する医師の中で同性カップルへの人工授精ができる人がいるかどうかは、電話で判断することはできないという。
一度来院して、産婦人科医と話した上で、私たちが人工授精できるかどうか決まるとのことだった。
そのための今日の予約である。
したがって、万が一、なんらかの理由で人工授精できる産婦人科医が見つからなかった場合は、別の病院にまた相談しにいかなくてはならないのだ。
いわずもがな、別の病院に相談する場合は、より時間がかかる。

「だいぶ早く着いちゃったから、この先にあるカフェで時間つぶそか。」
初めての道だったので早めに出発したが、順調に着いたため、30分も時間を持て余してしまった。
人工授精までの道のりも、こんなふうに順調に進めばいいのに、と並木道を見やりながら思う。
「今日の病院で人工授精できると良いね。」
同じタイミングで同じようなことをのあが言う。
「そだね。ここでできるかどうかでまたこの後のスケジュールが変わってきそうだね。」

私たちは、遅くとも7月中旬には日本に帰国しなければならない。
そのため、現在の3月初めから7月中旬まで、多くて人工授精は4回できる計算になりそうだ。
「なりそうだ」というのは、このとき、人工授精は月1回できるんだろうというレベルの曖昧な知識しかなく、今後具体的にどのようなサイクルで人工授精が進められていくのかわからず、人工授精に必要な事前の検診や処置もなにがどれくらいあって、それらにはどれくらいかかるのかということも全く検討がつかない。
もしかしたら、人工授精前の事前の検診やらで7月の帰国日を迎えてしまうことになってしまうかもしれない、と最悪のケースも考えていた。
具体的なことが何一つ見えない中、とにかく、私たちには時間がない、と焦っていた。いや、具体的なことがわからないからこそ、無闇に焦っていたのかもしれない。

「今日の病院で人工授精できるかな。」
また、同じことを若干ニュアンスを変えてのあが聞いてくる。
「ねー。できたらいいんだけど。」
「ほんとね。でもきっと大丈夫だよ。」
「そだね。こればっかりは直に会って話をしてみないと。」
「ねー。」

ふと時計を見ると予約時間の10分前だ。
「そろそろ出て向かおうか。」
「おけー。」

病院に向かう道すがら、のあが言う。
「今日のところで人工授精できるかな。」

…んん??
さっきと一緒だよね!?一緒のこと聞いてるよね!?

「まあ、あの、今日お医者さんがどう言うかだよね。」
「そうだよね。」
「う、うん。」
「今日のところで人工授精できるのかなぁ。」

んんんん!?!?!?

…なるほど、これは答えを知りたいんじゃなく、独り言なのか。
でも、わかる。ずっと考えちゃうよね。

そんなふうにして初めての診断前の時間を過ごしていた。
「今日のところで人工授精できたらいいね。」
「ほんとにそう。」
「できるかな」
「どうだろうね。」
「できるよね。」
「うーん、今日次第だねぇ。」
「できるかなあ…」
「どうだろう…」
「できたらいいね…」

      *      *

「私があなたの人工授精を担当します。一緒に人工授精に向けてがんばりましょう。」
問診の後、その産婦人科医から発せられた言葉は、非常に頼もしく思えたのだった。
この産婦人科医を仮にフランソワ先生としよう。

初めての来院時に病院で最初に問診をしてもらった産婦人科医は、フランソワ先生ではなかった。その最初の産婦人科医は人工授精は専門ではないらしく、自分で対応できない代わりに、人工授精ができるかもしれないフランソワ先生にその場で電話してくれ、紹介のレターを書いてくれた。
この病院は、いろんな開業医が各個室に各曜日いるようで、いわばお医者さんのアマゾンのような、テナント型の病院。病院がプラットフォームの役割を果たしていて、各お医者さんはテナント。普段は自分の病院で診察しているものの、特定の曜日はこの病院の個室を借りて、この病院に来た人の診察をしているらしい。

このフランソワ氏は、紹介してもらった日は診察日ではなく不在だったため、2日後に改めて来院し、フランソワ氏の診察を受けることとなった。

2日後のフランソワ氏の診察までの間、妊活前に必要な予防接種等を調べるために、抗体を知るための血液検査をしなさい、という診断書も最初の医師に書いてもらった。
ちなみに、フランス医療の基本システムとしては、まず医師にOrdonnance(診断書)を書いてもらい、その診断書に基づいて家の近くの薬局で薬を買ったり、家の近くのLaboratoire(ラボ)で血液採取等を行う。このため、抗体を知るための血液採取も家の近くのラボでおこなった。
今になってわかるのは、ラボや対応する人によっては、注射の腕もピンキリ、サービスの質も大きく異なる。私が今住んでいるのは13区だが、16区あたりのラボだと注射の腕もよく、サービスも丁寧で混んでて待たされることも少ない印象がある。
血液検査の結果は頼めばメールで即日発行してくれるが、これも対応者やラボによるものと思われる。

さて、冒頭に戻ろう。
血液検査も終えて、またもや緊張の面持ちで伺ったが、冒頭のように、フランソワ先生は快く請け負ってくれた。
これで晴れて人工授精ができるということになったのである。
「同性間の凍結精子を使用した人工授精はやったことはないが、異性間の人工授精はよくやっている。だから、今回のケースも対応できるよ。」
「ほんとうですか!?嬉しい!ありがとうございます!」
前半の言葉で、てっきり断られるのかと思っていた私たちはよろこびに喜んだ。

「ちなみにどのような手順やスケジュールで進んでいくんでしょうか?」
「前回の生理開始日から考えると、最も早くて4月11日や12日に人工授精することになるね。いずれにしても抗体次第だ。」
なんと、5、6、7月も覚悟していたが、1ヶ月後の4月には人工授精ができる手筈になったのだ。あとは必要な抗体がついていることを祈るのみ。

そんなふうにして、人工授精できるー!わーい!やったー!のハイテンションのまま、隣室でのエコーへ。子宮に異常がないかどうかチェックするとのこと。
のあが先にエコー室に入り、それを入り口の外から遠慮して見ていたら、
「入って良いよ。一緒にエコーを見ましょう。」と先生が私に言う。
流れで通訳さんも一緒に入る。
「じゃあ、妊娠を望むのはあなただよね?下を脱いで分娩椅子に座って。」と先生がのあに言う。
「えっここで?」のあが躊躇する。
「うん、そう、エコーするから。」
本人の後日談によると、他人が見ている前で下半身すっぽんぽんになるのはかなり勇気がいったとのこと。そうだよね。衝立もカーテンも何も隠すものがないため、日本の産婦人科よりかなりオープンだと思う。

そうして皆に見守られながら、初めてのエコーが始まった。

正直、むちゃくちゃ感動した。まだ何も生命は芽生えていないのに。まだ何も始まっていないのに。
でも、エコーっていかにも「妊活」って感じだ。ドラマや映画、youtubeの動画で見てるアレ、という感じ。自分がこれに立ち会っているなんて、信じられない。
そして彼女の子宮がスクリーンに映っていて、「ここにこれから命が宿るのかもしれないのか…」と想像したとたん、緊張と、嬉しさと、戸惑いと、敬意とが一気に押し寄せた。

のあと私とで「おー…すごい…」としきりに感動していたら、フランソワ先生が
「エコーだけでこんなに感動してもらえることは滅多にないよ。嬉しい。」と照れくさそうに笑った。

このエコーの結果、卵胞に異常がある可能性が見られたので、後日MRIと卵管造影検査を行うことになった。検査結果だけ言うと、多嚢胞性(たのうほうせい)卵巣症候群という、たくさんの卵胞ができてしまう病気の傾向はあるものの、人工授精を行うにあたって、深刻な影響があるようなレベルではなく、問題ないとのことだった。
また、フランソワ先生の初診前に受けた、抗体を知るための血液検査の結果についても、水痘だけ抗体が足りなかったので、それだけフランソワ先生に診断書を出してもらい、薬局でワクチンの注射を購入して近所の看護師のオフィスで注射してもらった。
そうしているうちにあっという間に3月末の、のあの生理が来た。事前に言われていたとおり、生理が来たことをメールで先生に報告する。
「先生、生理が来ました。予定どおり、人工授精は4月11日か12日ですか?ちなみに精液の注文や配送はどうしましょうか。いつごろすれば良いですか。」
精液は国際郵便で配送されるため、遅くとも人工授精を行う日の3営業日前には注文して発送しなくてはならない。しかし、4月に入っても先生からの返信はない。
急ぎということもあって事務所に電話をしてみた。
「すみません、フランソワ先生に精液の配送について相談のメールをしているので、その旨伝えていただけますか?」
「フランソワ先生は休暇に入っており、次の出勤日の4月11日まで不在にしています。」
ん???
いやいやいや、人工授精の予定日4月11日予定だよね、で、そのために排卵日の計測は数回前後にしなきゃだよね。
うそでしょ…てか精液配送の手続とかタイミングとかちゃんと話せてないけど休暇入って大丈夫?どういうつもり?
…本当にこの人、任せて大丈夫か?

人工授精を引き受けてくれた際のフランソワ先生の言葉が脳裏をよぎる。
——同性間の凍結精子を使用した人工授精はやったことはないが、…

以前のあも言っていた。
『人工授精なのに、皮下注射とかしないし、薬もないんだね。』

フランソワ先生は、出だしはよかったものの、これまでメールの返信速度も2,3日かかっており、当初から何度も質問しなければスケジュール感や手順について教えてくれようとしなかった。言語や文化的な問題かと思っていたが、もしかして…
この人経験足りないパターンの人?

もうこうなると信頼感は正直あんまりない。
フランソワ先生が休暇中だという衝撃的な事実を知った電話の後、彼からメールが届いた。
「私は休暇中です。精液は事前に頼んでおいていいですよ。」

いやいやいやいやいや、大丈夫か!?!?
排卵日11日で確定か!?そんなことあるか!?!?てかスケジュール感!いつごろ届いた方がいいとか!おま!!!
とりあえず、精液を事務所着で注文した上で、
「排卵日ってもう11日で確定なんですか?ずれたりしないんですか?」
とメールしたら
「じゃあ4月6日から血液採取して進捗を見よう」とのこと。
えええ、その辺の卵胞の成長の進捗確保、人工授精するなら不可欠だと思うけど、こっちが言わなければどうなってたの…とさらに不信感増。
「その結果、4月11日以前に排卵される場合は、あなたは休暇中だと思いますが、どうすべきですか?私たちは人工授精を諦めるべきなのでしょうか?」とメールしたところ、
「4月11日以前に排卵される場合は、あなたたちは人工授精を諦めなければならない。」
ひえーこっわー!精液注文したんだけど!どうなんの、この場合?!帰国前の限られた時間で最善を尽くしたいって言ったよなあ!?!?貴重な4月の人工授精!!
指示に従って注文した精液の行方や代金、これまで費やしてきた時間、いろんなことが頭を駆け巡った。
あかん、こいつ、身を預けたらあかんやつや…。
信頼感はもはやゼロである。

これ以上信頼感が下がることなんてないと思っていたが、極め付けは精液配送のための医療機関登録の手続だった。

朝8時ごろに精液バンクから連絡があり、配送するに当たって記入された住所は当バンクに医療機関登録されておらず、この登録をしてからでないと配送ができないらしい。
4月11日以前の医師の休暇中に万が一排卵日が来てしまったら、4月の人工授精は諦めろと理不尽なことを言われつつ、もはや賭けのような気持ちで、4月11日以降に排卵日が来た場合は人工授精ができるよう、精液は4月11日までにフランソワ先生の病院に届けておく必要がある。

もうすでに4月11日に届くかどうかぎりぎりの日程で、この電話があった日の正午12時までに登録をしなければ、最悪精液の配送が11日に間に合わない可能性が出てくる。
単なる登録であることに加え、フランソワ先生は休暇中ということもあり、事務所にまずは登録依頼をすべく、フランソワ先生をccに入れて、事務所にメールをした。続いて事態の緊急性を踏まえ、事務所に電話をし、「この登録をしてくれないか」というお願いをした。
事務所曰く、当該登録はフランソワ先生自身がしなくてはいけないとのこと。急いで追ってフランソワ先生にメールをし、「事務所ではしてもらえないようなので、フランソワ先生自身での登録作業を本日12時までにお願いします。」と送った。
その後精液バンクより、追加の医療機関登録作業の依頼がメールで来たので、これもフランソワ先生に転送した。

予想通り、12時までにフランソワ先生からの返信はなく、12時に「明日の12時までに登録お願いします。」と送った。休暇中なのにフランソワ先生に配慮すべきかな、とも一瞬思ったが、「仕事整理せず休暇に入ったら、まぁそうなるわな」という感じもあるし、配慮は既に十分にしている。

そしたら15時くらいに
「1時間の間にメールが何通も届いていて、事務所にも電話をしたそうじゃないか!私はあなたのために尽力しようとしたが、こんなの全然休暇じゃないよ!」というフランソワ先生のお怒りのメールが来た。
かわいそうに、フランソワ先生。正直、私も休暇中にこんな作業しなくていいように、休暇前に段取りつけとけばいいのに、と呆れています。
とは書かないが、彼の言う「何通ものメール」がなぜ1時間の間に送られたのか、複数送ることは避けられたものだったのか、事務所に電話することは避けられるものだったのか、ということを改めてご説明したところ、
「正直私はこれ以上あなたの主治医はできないと思っている。私のやり方はあなたのやり方に合わない」というメールが返ってきた。

ちょいちょい垣間見えていたフランソワ先生の無責任な様子や経験不足感に加え、最後のフランソワ先生の責任放棄も「よくもまあ大の大人がこんな行動とれるよな」と、正直こちらから願い下げだったのだが、でも諸君、よく考えて欲しい。
この責任放棄宣言は人工授精予定日の3日前なのだ。

やり方が合わないというのは、全くもってお前には同意見だけど、この期に及んでお前から言い出すのは解せないぞ、フランソワ。そういうとこだぞ。

本当に3月の自分たちに言いたい。
大事なのは日本語通訳つくとかそういうことじゃない。
大事なのは「経験」と「責任感」だ。特に、フランソワ先生の場合は、前者が足りないために事前に自分で人工授精までの過程をプランニングできず、力不足の結果、意図せず無責任な行動になってしまったのかもしれない。もし彼が輸入精液経験者だったなら、人工授精の経験が豊富だったら、もしかしたら結果は違ったのかもしれない。
また、「責任感」は少し関わっただけではわからないが、「経験」は問診でこちらから質問するなどして確認できる客観的な基準なのだ。
「同性カップル」という点より、「輸入精液を使用した」という点に特に重きを置いて経験の有無を確認することが大事だと、本件を通して痛感した。

本題に戻る。
したがって、あと3日で人工授精、という段階で、私たちは主治医を失ったのだった。
さよなら、フランソワ。
二度と輸入精液で人工授精できるなんて言うなよ。




ありがとうございます☺︎