無法者に灸をすえる 【JR駒込駅周辺】
「アウトロー」というと、西部劇に出てくるガンマンというよりは、どちらかというと現代日本のヤクザ者の姿(というか、ちょっと前までレンタルビデオ屋で大量に並んでいたVシネマに出てくるような戯画化された人たち)が思い浮かぶ。「なんやわれ、またシャブやっとるんかい」って、強面のわりに意外と気さくな感じで声をかけてくる。(私は覚せい剤やってません。念のため)
その一方で「無法者」というと、これは現代ヤクザ(的なVシネマの人たち)ではなく、西部開拓時代の街で乾いた風にポンチョをはためかせ、ひげ面をしかめているガンマン……そんなイメージが思い浮かぶのだ。いかつい男の手には、もちろんリボルバー。その銃口は、ともすると自分に向けられている。(大した理由もなく撃ってきそう。なにせ無法者だ)
このイメージの違いは、どこからくるのだろう。言葉としてはどちらも同じ意味だし、あと「無法者」の方が漢字で「アウトロー」は横文字カタカナなのに。自分のなかでは、どうもそれが逆になっているようだ。どうしてだろうか。
……とまあ、そんな個人的な感覚を枕として。
これから私がするのは、そんな無法者たちの話です。
いや違った。
無法者の話ではなかった。そうかといってアウトローの話でもない。
いまからはじめるのは、なんとステーキハウスの話です。
『ビリー・ザ・キッド』という名前のステーキチェーンが、主に都内を中心に展開されている。そのうちの一つに先日行ってきた。
ただそれだけの話を展開しようというわけです。だからヤクザとかガンマンが出てくる予定はいまのところない。
というわけで、まずはこの「ビリー・ザ・キッド」という店についてざっと紹介しよう……と思ったけど、まあちょっと検索すればいくらでも情報が出てくるはずだ。
店の成り立ちとか、そういうものが知りたい人はグーグル先生に聞くときっと詳しく教えてくれる。この間、はじめて行くまでは自分もよく知らなかったのだけど、どうも関東圏に在住である年代以上の人にとっては、わりとメジャーな老舗ステーキチェーンらしい。
(店に貼ってあった古びたポスターや貰ってきたマッチには「大衆ステーキハウス」とある)
このステーキハウスの大きな特徴は「店のコンセプトが、とにかくウェスタン」ということだ。
つまり古き良きアメリカン……ギラギラした日差し、砂ぼこりにまみれたゴールドラッシュ……開拓者と無法者が往来する、西部劇の世界観。それが店の内装などに明確に表れている。とはいっても、それは積み重なった年月と日本的な湿気にまみれた結果、ちょっと独特な感じに仕上がっているのだが。
まず基本的に店内はうす暗く、窓がない。やがてそのうす明かりに目が慣れてくれば、ログハウス風というよりはちょっとわざとらしく雑な仕上がりの木の装飾、あちこちに貼られた西部劇映画のポスター、乾燥させたトウモロコシと思しき謎オブジェ、壁にかかった馬車の車輪なんかに気がつくことだろう。
さらに目をこらせば、そのどれもが色あせ古びて、油でベトついていたりしているのも分かる。ようするに全体的に粗野な感じだったり、ちょっとこきたないとか、そんな雰囲気ではある……。
しかし!
そんな草臥れた、しかも元々ちょっと無理やりな西部劇空間に、ある種の風格が漂っている……!
(きっとそんな気がしてくるだろう。肉の脂とアルコールが頭に回ってくる頃には)
ちなみに営業時間は、どの店舗も夕方から夜遅くまで。たぶん深夜の3時くらいまでやっている。そこもちょっと変わってる。ランチなんて大人しいものは、基本的に提供しない……!
(いま調べたら一店舗だけランチをやっているらしい……!)
「そんな遅い時間に誰がステーキなんて食べるか」と最初は自分も思った。しかし全店舗で長年このスタイルでやっているということは、つまりお客がちゃんとやってくるということ。そこまで深い時間帯に行ったことはないが、実際に店はいつも結構にぎわっている。
この店の客たちは皆、うす暗いこの空間の独特な世界観に身を浸し、ボリューム満点のステーキやハンバーグなど、とにもかくにも肉! 目の前の肉にかじりつき、ふとした瞬間に色あせた西部劇のポスターのならず者と見つめ合ったり、噛みごたえある肉の他にもメキシコの辛いスープとかタコスもあるし、バーボンも飲んだりするのである……。
そんな「ビリー・ザ・キッド」で、ある日のおれはステーキを食べ、バーボンを飲んできたのだった……。
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「ビリーザキッドが最初に人を撃ったのはまだほんの少年のときなんだってさ。それはどういう状況だったかっていうと……」
うす暗いテーブル席で、おれはさっきからこの店の名前の由来でもある、西部開拓時代の伝説的な無法者のエピソードを彼女に話していた。もちろんそれは映画とかウィキペディアから得た受け売りの知識でしかない。けれど、なんとなくそういう話がしたい気分だったのだ。
「まあでも実際ただの強盗だったわけでしょ、きっと」
ところが彼女はなんともロマンに欠ける返事をしてくる。だから、おれはこう返した。
「まあ現実としてそうだったとしても、ビリーザキッドっていう存在は、もうアナーキズムの象徴みたいなものとして」
「アナーキズム?」
そう、アナーキズムだ。アナキズム、つまり無政府主義。……待てよ。自分が本当にしたいのは、その話ではなかったか。おれは唐突にそこに思い当たった。
「そうだ、アナーキズムだ!」
「?」
おれは突然叫びたくなった。だから実際にそうした。我慢なんかしなくていいのだ。何事も、本当は。どちらにせよ無理な我慢には限界がきて、なるようにしかならない。おれはそれをむかしから知っていたはずだ。
「……やはり、おれは生来アナキストなのだ」
「え、なに? 急に」
振り返ってみれば自分には、とにかく集団になじめないとか、一つの所にじっとしていられないとか、目の前で偉そうにしている奴はとりあえず片っ端から嫌いになって蹴飛ばしてやりたくなるとか、そんな傾向が幼少期から明らかにあった。それが故の「生き辛さ」なんてものは、この年齢になるまでには存分に味わってきており、もはやそれが自分という存在の基調とか人生のデフォルトな風味、国民食、いわば故郷のみそ汁、おふくろの味にまでなっているのだ。
「そうだ! おれはアナキスト! ……母ちゃん、ごめん」
「ちょっと! だから、なんなの」
然り然り! なるほど自分はアナキストであった。そうであるならば仕方ない。こうなったのも仕方ない。だってアナキストなんだから。
「やっと分かったんだよ!」
「なにが」
たとえば『大人の発達障害』という概念に、何か大きいハンコを捺されたような安心感をおぼえるような構図があるだろう。
(最近では自分のリアル周りでも同じこと言い出す奴が増えてるから逆に恥ずかしくなるぜ……と言いながらもおれは己のADHDをレペゼン、盛んに喧伝したりするのだ、これからもきっと)
その『大人の発達障害アピール』と、ほぼほぼ同じような原理により、最近のおれは『アナキスト』という概念を急速に我が身に取りこみつつある。具体的にはAmazonで『アナキズム入門』とか、そういう類の書籍を注文していた。
(これも自分で書いてて恥ずかしい……が、しかし)
「おれってば、やっぱりアナーキズムの人だから! とにかく色々しかたがない。だいたい全部必然だ!」
「……ふーん」
アナキストだもの。人間だもの。こんな現代社会にいつまでも不適合でも「そらまあそうだろうさ」とナチュラルに納得。だってアナキストなんだからさ。
「まあ、つまり何が言いたいかっていうと……会社を辞めたい?」
「……む!」
彼女がおれの思考の先を読んでくる。
まあ結局その通りなのだ。
もともと自分は、会社勤めには絶望的に向いていなかった。たとえば自分のことを「私が……」なんて、いかにも社会人というか会社人らしく呼称して現実そのように振る舞ったりする、そのスタート時点でもう耐えられなかったりする自意識。まあ文章上の人称においては「私が……」なんて私小説めいた雰囲気を醸すために使ったりはずっとしてるけど、実際は「僕」または「おれ」がやっぱり自然じゃんねって、ああ、なんだおれは僕はいい年して、このまま生涯ずっとガキっぽいの? まあでもそういうタイプの人間って一定数はいるよねって、それでもこんな面倒くさいパーソナリティの割に一年以上継続して一応は会社員やっているわけだし「頑張ったね」なんて、もう無条件に労ってもらいたいもんだぜ。よし、とりあえず自分で労うか。「おれよく頑張った!」(だからもう辞めていいな?)
「だから辞めたいなら辞めなって、わたしもずっと言ってるじゃん」
「まあ、そうなんだけど」
「そうやってグズグズしてる時間こそ無駄」
「……むむむ」
自分には自分なりに苦悩があるとしても、曲がりなりにもこの社会で生きてくためには経済というものからは逃れられず、いやしかし、そもそも労働とは人間とは……と、いつもの逡巡モードに入りかけている自分を打ち破るように、おれはまた叫ぶ。
「アナルコサンディカリスム!」
おれの魂と社会。その結びつきは……。なんて考えつつも、実際は言葉の響きが面白いから頭に残っているこのフレーズ。
「アナルコ、サンディカリスム!」
さらにもう一回叫んだ。
すると隣の席にいたガタイのいい男(暗がりになっていて、いままで全く気がつかなかった)が、おれの叫びに呼応したのか、声を掛けてきた。いや、声を掛けてきたというか恫喝に近い怒鳴り声を浴びせてきたのだ。いきなり。
「なんやわれ、さっきから騒がしいの! シャブでもやってるんか!」
……いやいや、だからおれはそういうケミカルなのはやらないよ。(なんか怖いし、捕まるし)でも他人がやりたいなら勝手にやればいいとは思うけど、実際にそれでラリってる奴がすぐ隣にいたら恐怖するし大変に迷惑だし、おれの近くでは絶対やめて欲しいけど個人としてやりたいならやればいいという思想はあるがでもやっぱ隣にはいて欲しくない。そもそも貴方は明らかにVシネに出てくるヤクザみたいな格好して、だからやっぱりヤクザなんだろうけど……ああやだなあ、ヤバいのに絡まれちゃったなって、いま現在のおれは思ってるわけですよ。意外と良識的だし、おれ。でもそういう格好しておれに声をかけるあなたもそれはそれでいいわけだし、まず第一におれはアナキストだし。でもなあ……と、こうした自分の考え、立場、主張、そして逡巡を、おれはリアルタイムに表明した。すぐ隣の席に潜んでいた日本的なアウトローの彼に向けて。
「……おお、そうか。お前はアナキストか」
「そうです」
「そしたらな、わしはいわば、トッパモンやな」
おれへのアンサーとして、このヤクザ親父も自分の信条か主義か立場あるいはロールモデルを唐突に表明してきた。
「……ああ『突破者』ね」
「なんや、お前『突破者』分かるんか」
『突破者』というのは宮崎学の有名な著書で、そこから広まった一つのポリシーとか概念なのか、自分はそれを何となくレベルではあるが一応知ってはいたから、その『突破者』を自称するヤクザ親父に適当に話を合わせることができた。すると一気に場は盛り上がり、すっかり機嫌がよくなった突破者は自分が食べていたチョリソーを「これも食うてみいや」と気前よく分けてくれたので、お返しにおれは自分のテーブルのタコスを分けた。そしてバーボンをロックで、それぞれ追加注文して乾杯。
「……じゃあの、わしはもう出るわ」
「はい」
「達者でな」
「そちらもお元気で」
しばしの歓談の後、突破者は去っていった。
おれはアナキストを、Vシネくさい親父は突破者をそれぞれ自称して、しかし実際の所は無法者なのかアウトローなのかもよく分からず、西部劇なのか何なのかよく分からないようなこの店の雰囲気に溶け込んで、ただ肉を食べバーボンを飲み交わした。そのような時間、これは無政府主義的にうつくしい、まるで夢であるかのような、つかの間の邂逅であった。
「……でもお前、ほんまシャブやったらあかんで」
「いや、だからおれは、そういうケミカルなのは」
「ほんでもな、いざやろう思たら、うちの組から買うてや。……安くしとくで。駅裏に若いの立ってるさかいに」
こちらの会計を全部持ってくれると彼は言ったのだが、こんな所で下手に恩をつくると怖いので「いや親父さん、そこは平等に行こうよ」とか、うまいこと言って断っておいた。おれは会社人に不適合ぽいが社会人ではある。アナーキズムと呪術と暴力が支配するこの社会に生きている。だからこそ、ある種の掟はよく守らないとならない。とりあえず怖いので覚せい剤はやらないぞ。(今回の記事で三回目の宣言)
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結局おれと彼女は二人して、バカでっかいステーキ(味付けはしていないので卓上の調味料を使う。おろしニンニクを大量に足したら彼女に苦情を言われた)、それから岩石のようなハンバーグ(ファミレスとかによくある「ふわっ」と肉がほぐれるようなタイプじゃなくて、かなりぎっしりしている)、さらにチョリソーとタコスまで食べた。
「イヤー、ヨクタベマシタネ!」
満足を通り過ぎ、肉と油で腹がはち切れそうだった。なんだか頭もボッとする。さらに樽生レモンサワーとバーボンも何杯か飲んでいる。
「マタキテネー!」
会計をしながら気さくに声をかけてくれるのは従業員の青年で、彼はどうやらメキシコ系外国人。そこらへんの雇用も店のカラーに合わせているのだろうかとちょっと考える。ポンチョとかソンブレロが似合いそうだが、もちろんそんな格好はしていない。ラフなTシャツ姿の無法者だ。(彼はちゃんと真面目に働いてるけど、きっと無法者だ)
「この写真、どうしてこうなってるんですか?」
彼女がその無法者店員に尋ねる。
『この写真』というのは、店の入り口近くに飾ってある、コレだ。
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西部劇の指名手配ポスターのように加工された写真。彼女が気になったのは目の所だろう。何かが貼られるか刺さっているか、あるいは弾痕で目玉が飛び出しているように見える。じつは店内に貼られた他のポスター(インディアンとか保安官)でも、こうやって目玉が飛び出しているのが幾つかあった。これはきっと「店を訪れた無法者とかアウトローが悪戯をして、そういう状況に寛容あるいは無関心な店がされるがまま放置しているのだ」と自分は予想していた。
「アア、ソレハ……」
「それは、おれだよ、おれの写真」
厨房で肉を焼いていたいかつい男が、こちらを振り返って言う。まさにこの写真の通りにテンガロハットを被っている彼が、ここの店長のようだ。その地位にふさわしく、指名手配もされそうな無法者あるいはアウトロー的な風格も漂わせている。しかしもちろん目玉は飛び出してはいない。
「その目の所は、あれだよ。お灸」
「……え、お灸?」
「うん。ほら、せんねん灸。薬局で売ってるやつ」
「えー?」
「せんねん灸の使い終わったの、使い道ないから、そうやって目玉みたいに貼ってるんだ」
なんでそんな事をしているのか。
……まあ、きっと大した理由はないのだろう。ただ、おれの脳裏には営業が終わった明け方頃、背中とか腰とかのツボにせんねん灸を貼り付けてそこらに寝そべっている店長の姿が浮かんだ。もしかしたら、このメキシコ人青年がお灸を貼ったり火を点けてあげているのかもしれない……。
アナーキーな深夜営業のステーキ店。そこの主人が、長年の間に鉄板でステーキを焼き続けて酷使した身体を、お灸でいやしている。そうやって歳月は巡っていく。
「肩コリによく効くからな。お灸は」
「ヨクキクヨー」
「たしかに効くんでしょうなあ」
おれは何だかしみじみとした、なんとも不思議にほっこり、生暖かい何かが心に染み入るような、そんな気分になっていた。ポスターの写真を撮らせてもらいながら「ああ、本当にせんねん灸……」と彼女がつぶやく。アナキストも突破者もそれ以外の人たちも、それぞれある意味で無法者でアウトローだし、とりあえず肉を食べて満足したりする。お灸もするのだ。
面白い店だから、近いうちにまた来ようと思った。
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