「x倍大きい」という表現に違和感を覚えるのは私だけ?
単に「x倍だ」ではいけませんか?というより、そちらの方が簡潔でただしいのではありませんか?
日本語の誤用について、例えば「すべからく」という単語の本来の意味がよく話題になります。「すべからく」という日本語には「すべて」の意味はなく、この言葉は「当然すべきこととして」という意味を持つ、ということを言っている人を見ることがありますね。おそらく古文、漢文の授業で学んだはずの内容です。
こうした誤用についての議論の俎上に載せられているのを見たことがないので、私だけが違和感を覚える表現なのかもしれませんが、タイトルに書いた「x倍大きい」や「x倍多い」のような表現が市民権を得ていることがしっくりきません。
A=10、B=20としたときに、「BはAの2倍大きい」と言われたり書かれたりしているのを見ることがあります。しかし、私の感覚では、「BはAの2倍大きい」とされているとき、A=10ならばB=30であるように思えてしまいます。(「BはAの2倍だ」とされているときは、A=10ならばB=20であると思います。)
(間違っている、というよりは意味が定まらないから使用すべきでないと言う方が正しいのかも知れません。)
「BはAより2倍大きい」という表現について、「2倍」の部分は「どれだけ」大きいのかを示す部分です。例えば、ここが「2倍」の代わりに、より具体的な数、例えば「10」だったとします。「BはAより10大きい」とされているとき、A=10ならばB=20であることは自然であるように思われますし、日本語の表現として正しいものだと思います。
ここで、「2倍」とは「どれだけ」なのでしょう、と考えてみたくなります。これは、「相対的状態」を表す言葉なので、「どれだけ」を知るためには2つ以上のモノが必要になるように思われます。
では、「BはAの2倍大きい(BはAより2倍大きい)」と表現した場合の「2倍大きい」とは何でしょう。
①「BはAの2倍だ」と言えるから、「2倍大きい」とは「2×A大きい」である。
②「BはA二つ分」だから「2倍大きい」とは単に「2倍」である状態を指す(②は正直なところ私には分からない感覚の表現のため説明がしづらいです)。
こうしてみると、「BはAより2倍大きい」という表現では、A=10のときB=20にもB=30にもなってしまいませんか?(タイトルにも書いたように、私だけ?)
というわけで、「x倍大きい」という表現はやめて、「x倍だ」という表現にしませんか?というお話でした。何故この表現に違和感を覚えるのか、言語化して説明するのは難しいですね。
私の違和感の正体や、「あなたの捉え方は間違っている」というご意見がありましたら教えて頂きたいです(しかし、単に市民権を得た表現だからとするのはいかがでしょうか……。「言葉は変化(進化)するので誤用であっても市民権を得ていれば容認すべき」という考え方にはあまり同意できません……)。
日常で目にするモノに対し、素直に捉え批判的であることは大切ですし、考えてみましょう、というお話でもありました。
Think, think, think.
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